R162
十月三十一日

昨夕、第六回の鈴木博之教授退職記念講義に出席。初田先生の「都市へ」についてを拝聴する。私も一月には講義をしなくてはならないので、二、三その準備の為の質問をさせていただいた。私は「建築史家」の存在形式そのものに興味がある。人間は何故建築史家たらんとして、またアカデミーもそれを暗黙のうちに了承するのであろうか、というような事。鈴木博之を対象とするには、それ位の事は考えたい。

時間があり余っていたので早く着き過ぎ、難波研究室、鈴木研究室をたらい廻しにされ、挙げ句の果てに迷い込んだら講義室で、そこでは早大との共同課題の講評が行われていて、気が小さいものだから少し計り気まずい思いをした。

N教授によれば、反省会もかねて進めているとの事である。同じようにやっているんだなと実感する。帰りがけに製図室をのぞいていたら、「音」チームが作業していた。クセナキス位の事やったら、と余計なお世話を焼いてしまった。

鍋料理をいただいて、世田谷村に戻ったのであった。

今日は午後設計製図があり、恐らく一番大事な授業になるだろう。

R161
十月二十九日

十二時半学科会議室、三年学生数グループ指導。十三時過材料・デザインゼミ。輿石、加藤両先生と。このゼミは来年も続ける事を確認。雑用後十八時近江屋で世田谷美術館N氏と会食。NTT出版からの世田谷美術館講義録の件話し合う。二分冊の大部になるので、これから相当頑張らないといけないな。

N氏からチュニジアの旅の話をうかがう。この夏の展覧会開催で得た新しい友人だが、色々と来年のアートシーンの事なども聞けて面白い。過ぎた夏の展覧会では連続講義という余計な、チョッと過激な事もやったが、お陰様で幾たりかの友人を得た。どうやら、時に一線は越えてみるものだな。

十月三〇日

五時半起床。小休して、メモを記す。「設計製図のヒント」22を書く。早稲田・東大の共同課題の最終公開講評会は十一月十六日に東大の福武ホールで行われるが、それ迄に50迄書き延ばそうと考えてはいる。今日を入れてアト十八日であるから、一日二本書かねばならぬ日が九日ある勘定になる。下らぬ算数してたらもう六時半。八時四〇分了。たった二〇〇字七枚に手間取った。十時十五分ヒント23書き終えて、小休、朝食。

R160
十月二十八日

終日雑用。十六時過大学製図準備室。先生方と指導方針打合わせ。東大と相談した結果の申し入れの相談があり、最終発表は充実したものとしたいので、それぞれ十組程度の発表者に絞りたいとの案。又、先生方の発言者も、それぞれ何名かに絞りたいとの事である。

良い提案だと考える。中間講評は学生主体の民主主義的で公平な全参加者の発表と出来るだけのクリティークの方針を貫いたが、先生方には多くのフラストレーションがあったろうし、学生にとっても中途半端であった。先生方の発言もバラつきがあり、学生の数も絞るのなら、先生方の数も絞ろうと言うのは理の当然である。

本格的な提案は「設計製図のヒント」21に書かせていただき、東大からの提案の返答としたい。

十グループ枠が決定したので、今日の学生とのミーティングでは、今日三グループを選び、金曜日に更に三グループ、来週初めに四グループを追加選考する事にした。残りの十七グループも何とか別の形でクリティークを受けられるように努力したい。

二十一時過世田谷村へ戻る。

十月二十九日

七時半起床。メモを記し、「設計製図のヒント」21を書くも途中迄。中途半端はダメだ。やるなら徹底してやろう。昼前、世田谷村発大学へ。

R159
十月二十七日

十四時前大学。早大、東大、両校の学生から提出された製図作品が一堂に会している。人間もごった返している。何人かの東大生にキチンと挨拶される。十五時共同課題講評会開始。東大、早大共多くの教師陣参加。この内容に関しては「設計製図のヒント」21以降に記す。大変興味深かった。十九時半、全グループ 45 組、東大 19 、早稲田 26 発表及びクリティーク終了。懇親会。難波先生と夕食をとり、世田谷村に戻る。

R158
十月二十四日

十三時M2ゼミ。十五時三年設計製図。全グループの経過を見る。二十三時迄。最後にどうにもならなくなって、しかしいまだ可能性はあるかも知れぬグループにアドヴァイスして二十四時世田谷村に戻る。

十月二十五日

七時半起床。やりたい事、やらねばならぬ事は山程あるのだが、三年の設計製図はほうり投げるわけにもいかない。十三時に製図準備室に若い先生方と学生各グループ代表に集まってもらい、中間講評会の最終準備をする事とした。

十三時前製図準備室。鍵がかかっていて入れず、十三時ミーティング開始。当然の如くに欠席グループ多し。伝達系統のほころびを感じる。何とかしてやろうと思っている、その気持が伝わらない系統になってしまっている。しかし、とり敢えず私の考えを伝えて、十四時前散会。ミーティングは一時間以上やっても何の意味もない事が多いのだ。

韓菜レストランで昼食。少し計りのマッコリを。十六時前去る。十七時世田谷村に戻る。大きな銅版が白井版画工房より届いていて、何とかやるぞ銅版、の意欲が湧く。ここ迄でかいと相当体力も要求されるだろう。

十月二十六日 日曜日

七時半起床。新聞を読んで九時過「設計製図のヒント」19書く。十時半了、小休。十二時半「設計製図のヒント」20書く。昼食。小休。十五時半、雑用。二〇時、全ての外との通信をシャットアウトして自閉する。好きな本を寝ながら読みふけたりだが、こんな時が一番神経が研ぎすまされている。

R157
十月二十三日

十一時半研究室。雑作業。十三時半井上フェローシップ面接。十四時教室会議。十六時了。半発。十七時半東大。難波研究室にて鈴木博之、伊藤毅両先生、佐藤彰先生等とお目にかかる。佐藤先生とは初対面である。製図教室を通り抜け講義室へ。三年生の仕事振りをのぞく。三年生は早稲田との共通課題でもあり、どんな具合か興味津々である。

中央に巨大な模型が作ってあり先ず驚かされる。それよりも西葛西一帯の街の模型がカラフルに細かいところ迄作り込まれている模型に仰天した。かくの如き努力は本来早稲田建築の学生が持つべきものであるのに、東大生は昨年の体験を踏まえて、キチンとやっている。流石である。敵ながら天晴れと言わざるを得ない。

敷地模型のつくり方、丹精の込め方、論理性(模型は論理そのものである)から、一瞬のうちに、今年は東大建築に負けるかも知れないと感じた。いわゆるイヤな予感である。イヤな予感は得てして当たるものなのだ。東大建築学生はいつから、こんな職人の如き努力をする事を学んだのだろうか。努力、情熱でしのがれたら、早稲田建築生に勝ち目はないだろうに、全く頑張ってくれよ早稲田とつぶやく。東大生の作業振りを一周りして見るに、仲々良いのであった。製図室の奮囲気がまるで昨年とは一変している。この奮囲気の違いというのは東大の先生方はあまり気が付かぬだろうと思う。日常的に馴じみ過ぎているから。

十八時、鈴木博之教授退職記念連続講義「近代建築論」第5回「ヴィクトリアン・ゴシックの崩壊」佐藤彰を聴講する。佐藤、鈴木両教授のやり取りの中につくづくと、建築史家の品格というものを感じる。この品格らしきが文化である、と痛感したのである。二〇時迄。懇親会の後、キャンパスを出て近くの小料理屋で鍋を囲む。

今日は良い一日であった。ヴィクトリアン・ゴシックの崩壊も良かったが、早稲田建築はどうなってしまうのかの崩壊の方が心配だ、と東大建築の製図室で感じ入ってしまったのだった。二十四時世田谷村に戻る。努力、努力、早稲田建築は努力しか無いぜ。

十月二十四日

五時半起床。昨日のメモを記す。再び休み、十時前再起床。「設計製図のヒント」18を書く。

R156
十月二十二日

七時起床。オウム真理教事件関係の本を再読する。もうあれから十三年経ったかと言うべきか、まだ十三年かと受け取るのでは、すでに歴史感覚にズレがあるのだろうな。私等は今もまだあの事件の只中とは言わぬが、ああいう事件は再び起きるだろう。あるいは起きている最中だと考えるきらいがある。

若い学生達と生活している時間が必然的に多いからなのだろう。彼等の、閉塞感はいつの時代にもあるものだが、それに逃げ、遊びがなくなっているのを感じるな。若者に特有な自分を凝視する事の無い、ナルシズムやエゴ、それ等がはぎ取られた閉塞感、まさに身の丈に合った、どうしようも動きがとれない、そんな感じが伝わってくる。

十一時研究室。水の神殿小WORK。十二時半人事小委員会。十四時過迄。その後、雑用をしばし。十七時「設計製図のヒント」16、7枚書く。

十八時三年設計製図。二〇時迄。後は若い先生に任せて帰る。今のところ、今年はうまくいっていない。

十月二十三日

五時半起床。「設計製図のヒント」17書き終える。七時迄。新聞を読んで小休。

R155
十月二十一日

夜中に二度程目覚めてしまう。ジィーッと寝ている事が出来ずにウロウロと屋内を歩いたり、本をつまみ読みしたり・・・。七時半起床。今日は創立記念日とやらで大学は休日らしい。

十一時世田谷村発。十二時ガランとして人の居ない大学に着く。スタッフは当然来ている。電車の中で想い付いたアイデアを早速ふくらませ始める。

一九七七年夏に創刊された大阪の同人誌「建築美」中、私の書いた怪談三義人邂逅・一暮一場 - OSAKAに小コント付で - 読み返す。この小版刷りは安藤忠雄氏から手渡されたものだ。GA JAPANで東大の福武ホールを○&X二川幸夫氏との鼎談で、鼎談するより、これ再録した方がエエンとチャウかと彼は言った。自分で書いたものではあるけれど、三〇年も昔に書いたモノとは思えぬ程の新鮮さがある。戯作として書いたモノだけれど、三〇年経ったら、何やら歴史を想わせるモノになっている感がある。安藤忠雄・渡辺豊和・石井和紘、三氏について批評したものだが、かなり図星であったかも知れない。

これは「絶版書房2」で再録しようと決めた。当然「建築美」は絶版で、もう誰も記憶に無いだろうから、良い資料としても残す事が出来よう。

久し振りにスタッフと研究室で無駄話しをしてくつろぐ。十七時迄。「設計製図のヒント」15、8枚を味王で書いて、十九時半世田谷村に戻る。N出版の講義録の部厚い下稿を読み、早目に眠った。たまにはこんな日も無くては。

R154
十月二〇日

十時前山口勝弘先生に電話、横田茂ギャラリーより資料が届いた旨の御礼。十二時前研究室小打合わせ。丹羽君に昨日あらかた作った「絶版書房2」の第一回配本分の原稿を渡す。何とか今月中に第一回目を出したい。

十五時過採点その他の作業を修了。十六時半前鬼沼前進基地打合わせ。十七時半前「設計製図のヒント」14書き終える。

十八時設計製図。二〇時半迄みる。仲々考えているようにはすすまない。近江屋で一服して二十二時半世田谷村に戻る。何年か前に世田谷村近くの径におおいかぶさっている樹木のトンネルからフッと森の匂いの如くを感じた事があったが、最近は無い。恐らく、こちらの感受性の問題なのであろう。

R153
十月十七日

十時研究室。M2ゼミ。若者の歩みはこんなに遅いものなのかと、自分の同年の頃を思い出そうとするが、毎日必死に生きていたような気がするだけで、良く思い出せない。

十一時四〇分発。目白へ。十二時二十分GK会長室。眺めの良い9階の部屋で栄久庵憲司さんと昼食。そうだ大学院の頃は随分栄久庵さんの教えを受けていたんだ。GKにもお世話になっていた。若かったから石綿が水を吸収する如くに氏の言う事を吸い込んでいた。当時の(四〇年前の)栄久庵さんと今の栄久庵さんは全く変わりがない。少し足を弱くされているが、目の輝きも、愛敬の大きさも変らない。話しも相変わらず面白い。今日は随分三島由紀夫の話しをなさった。計算(デザイン)し尽くされた死であったと。部屋中に栄久庵好みのおもちゃのコレクションがあり、人物の道具に託そうとしているヴィジョンを痛感する。十四時半迄。

十五時大学に戻り、三年設計製図を見る。再びかたつむりの遅さの世界に戻った。栄久庵さんは老いているが速い。若い頃から速かった。才質は速力に負うところがある。二〇時過迄見るが、いささか途方に暮れる感あり。 若い先生達に後を託して製図室を去る。二十一時過世田谷村に戻る。

安良里の藤井晴正が毎年送ってくれる、サンマを喰べる。うまい。遠い松崎町の友人達を想う。

十月十八日

五時前起床。昨日のメモを記す。この習慣は身体にすり込まれてしまったが、いつかスッパリ止めるのだろうとも予測している。六時四十五分「設計製図のヒント」13書き終える。

朝食をすませ、八時十五分発。九時十五分東京駅着。再び間違えて新幹線南口改札口で少し待つ。いつも早く来るT社長渡辺君が来ないので、これは怪しい思ったら、やはり私の勘違い。中央改札口に移る。しかし約束の時間通りに間に合いホッとする。梅沢良三先生、及びそのスタッフと合流、五名で鬼沼へ。新幹線車中で簡単な打合わせ。

十一時半頃猪苗代湖へ途中の十割そば屋で昼食。ここはソバもうまいが、いなり寿司が美味で感心する。

十三時鬼沼現場着。長グツにはき代えて、先ず時の谷、中央の建築場所へ。梅沢さんに地層、地下伏流を見てもらう。現場で色々と決めた。素速い。大雨時の鉄砲水も無い事を確認。屋根上の光風水塔タワー建設現場へ車で登り、確認。その後、前進基地へ戻る。

人工土地に土が載って、驚いた事にもう草が芽ぶいていた。ここは野菜は育つだろう。人工土地上の小屋の太陽光発電は要注意だ、冬の午後の日照が余りにも少ない。山の影が大き過ぎて、いかな太陽でも山は動かせないから。

社長の畑に入り、野菜穫りを楽しむ。T社長実に生き生きとして嬉しそうだ。この気分がTさんの生命の素なんだろう。中小企業の経営者のストレスは予想もつかぬ程のものだ、とその事が私には伝わってくる。

マネーゲームで金もうけしている人間よりも、実質に物を動かして日銭をかせいでいる人間、会社を日本はもっと大事にしなくては、でもあの政治家達ではね、ダメだろうとは思うよ。

野菜穫りのしばしの時間を経て、果樹園の道路工事を見てから前進基地へ。囲炉裏を囲み、打合わせの確認。

十六時半修了。郡山へ。一日天気が良くて幸いであった。帰りがけ遠くから社長の山の果樹園の道を眺める。果樹園は国立公園のエリアなので、大丈夫かなと思うくらいの道ではあったが、社長は大丈夫ですとの事であった。マア、こういう人物でないと新しい形の事業は起こせないのだろう。

十八時過郡山駅。十八時半過の新幹線に飛び乗る。車中で弁当とビールの歓談。私は風景よりも弁当とおしゃべりの方がストレス解消になるな。二〇時前東京駅で皆と別れ、二十一時前、世田谷村に戻り、すぐ眠りに着く。朝四時過からだから、これ位で良いのではないか。夜型から次第に朝型の生活に変えているのは上手くいっているようだ。

十月十九日 日曜日

七時過目覚めて、少し本を読んでいるうちに又眠った。九時起床。新聞を読み、昨日のメモを記す。十時過了。今日は韓国紀行を読み直して、手を入れたり、鬼沼のスケッチしたりで休もうと決めている。

朝食、安良里のハンマから送ってきたサンマを食べる。「犬になった彫刻家若林奮」読みながら少し眠った。再読すればする程に妙な処に引き込まれる本である。次第に若者が長年関心を寄せざるを得なかった何かが解りはしないが、感じられるようになってきた。

十三時、久し振りに銅版画一点を仕上げた。七月にTVカメラの前で手掛けていたものだから、三ヶ月振りの銅版彫りであった。手を随分入れた。少し力が戻ってきた様な感触がある。展覧会後、最初の一点となる。

十四時十五分、私のカバーコラムの記録を読み返し、「絶版書房2」の処女出版「韓国紀行」の編集作業を、大方終了する。「韓国紀行」を「アニミズム周辺紀行」と改題するのを決める。カバーコラムの「音の神殿」シリーズと8点を選び出し、韓国紀行とアッセンブルする事にした。現代風なスタイルになる様な気もする。

十五時、小原稿を書いて、小休とする。十七時半過、再び編集作業。冒頭にマルセル・デュシャンのローズ・セラヴィを置く事とし、次に私の田の事を。

十九時前、ほぼ荒くはレイアウトを完了した。疲れて今日はこれ迄とする。これ以上やると、夜全く眠れなくなるだろう。

R152
十月十六日

十時厚生館愛児園で木本君を待ちながらざくろの街灯を見る。隣の新しい計画の敷地にも重機が入って大きなスペースが生まれていた。木本君は星の子愛児園にやはり行ってしまったようで、私もそちらに廻る。近藤理事長等と広島から来た「ざくろの街灯」を荷おろしして、立てる位置の検討等。もう一本を第二愛児園へ。お茶をごちそうになる。再び厚生館愛児園に戻り、私は隣の土地を理事長と見て廻る。近藤家ゆかりの品々も見せていただく。この土地の建築には心血を注ぎ込むつもりだ。子供と女性と人間の伽藍を建てるぞ。

立てられたザクロの街灯の写真を沢山撮った。時計草(英名:パッションフラワー、受難の花というそうで、理事長に教えられた)の花が美しい。街灯も良いけれど、この園の生垣はすばらしくなった。

近くの食堂で昼をごちそうになる。木本君と理事長は初対面でああったかも知れない。たっぷり、いただいて、お別れ、世田谷村に廻る。木本君からお借りしていた「立ち上がる伽藍」の台をトラックに積み込み、世田谷美術館へ。あいにく、N、M両氏共に休みであった。ダニ・カラバン展を木本君に見てもらい、レストランでコーヒー。「鬼子母神」他の打合わせ。不思議なもので、制作者と対面していると、良いアイデアが次々と生まれてくる。木本さんの思考法はどうか知らぬのであるが、独人で山の奥の工房で作る孤独のプレッシャーは大変なものがあるだろう。しかし、瞬発的に生まれたアイデアは、消えるのも速いから、我ながら御用心。

再び、世田谷村に戻り、丁度五時に開いたソバ屋宗柳で木本さんをねぎらう。七時、広島へトラックで戻る木本さんとお別れ。八時頃、寝てしまう。今日は色々な事が考えられた。

十月十七日

五時起床。再び万年筆を失う。2本目である。又、猫の仕業か、あるいは私のボケか不明。昨日のメモを記し、「鬼子母神」のスケッチに手を入れる。六時半了。色のイメージが少しハッキリとしてきた。子供と女性のためのアイコンなのだが、とても面白い作業だ。これが大きくなれば伽藍だからな。小休して、新聞を読み、昨日撮った写真をチェック。「ザクロ」で一冊本が作れそうだ。

七時前、万年筆、二階の床で発見。やっぱり白足袋の仕業だな。

R151
十月十五日

十時半大学。十時四〇分先端建築計画特論講義。十二時十分迄。十四時打合わせ。十五時迄。雑用を済ませ十六時前研究室発。今日は少し頭を別の方向に飛ばして解放させてやりたい。

十七時研究室。近江屋で「二代目絶版書房」の打合わせ。第一回配本の大方を決める。凄いスピードでやる。NTT出版の世田谷美術館講義録の進行状況はどうなっているのかな。多分、切りつめるのに苦労しているのだろうと思う。

「絶版書房・2」の第一回配本は 10 月末。11 月初旬と2冊連続とする。自分でも驚く程の記録が我コンピューターに蓄積されている。その記録を再編集して1回配本 50 部〜 100 部を、読者の皆さんにお分けしようという試みである。出版業界は今、大変な苦況に落ち込んでいる。私たちはネットと活字を具体的に結びつける試みを始める。是非、買って下さい。続々と出す積もりです。

二〇時世田谷村に戻る。宗柳で夕食。おやじは元気そうであった。

十月十六日

七時起床。四時に目覚めて、三階の床が余りにも白いので天を仰ぐと、月があった。李白の詩を想ったが、帰るべき故郷はない。八時前「絶版書房・2」の考えをより、つめる。第一回配本は「韓国建築スケッチ紀行(仮題)」+「十勝・音更・水の神殿の設計メモ(仮題)」の予定である。

東大・横手義洋先生より封書が届いており、鈴木博之先生退官記念出版の件である。やはり、案の定、あの形式での連続講義がそのまま本になるわけも無く、やはり、それぞれの講義者がきちんと執筆するという事になったようだ。大変だけど、これはやらなくてはいけない。私のは第一部「現代の視線」第三章・装飾、現代の装飾となっていた。私の世田美での連続講義では「ウィリアム・モリスとコンピューター」に当たる。誰が最終的に考案したのか知らぬが実に上手い構成になっていて舌を巻く。東大出版会より、2009 年 9 月出版予定との事である。これも、必読であろうな。

九時十五分世田谷村発、厚生会愛児園へ。広島から木本一之さんが、「ざくろの街灯」2点をトラックで搬入するのに立ち会う予定である。世田谷美術館に展示した、「ざくろの街灯1」はすでに愛児園のゲートに建っているので、それを見るのも楽しみである。小さなモノでも、なにしろ心を込めたものが、世に立つのは嬉しいものだ。モノからは決して離れられない。

R150
十月十四日

十一時半研究室。十二時半本部大隈会館2Fで二〇年勤続の表彰を受ける。二十二名の先生方、職員の方々と一緒であった。そうか、もう二〇年も大学に居たんだと、ボー然とする。二〇年前に、五年程やってみるかと、気楽に考えて大学に来たのだが、アッという間に人生の1/3を占める迄の時を大学で過ごす事になってしまった。白井総長、堀口副総長等とお話しする。

十四時前研究室に戻り、小休する。流石に連休を全て動いて休み無しは体にこたえるな。

そう言えば某理事のあいさつに、健康管理を呉々もするように、定期検診は必らず受けて下さい、とあったが、私は二〇年間、大学の定期検診は一度も受けていないから、完全にブラックリストに入っているに違いない。大学のは受けてないけれど、自分で最近は実施しているので、マ、それ程時代錯誤的存在ではないと、自覚しているのだが・・・通用せんだろうな、この理屈は。

十六時過迄休んだり、グダグダしたり、十八時から三年の設計製図指導。

宮崎現代っ子ミュージアム藤野忠利さんより、久し振りにメールアート便が届いた。中に FUJINO AKO さんの英文に訳された絵本があった。「 AKO-SAN'S RIBBON 」帯はピンクの Alright !!! 。 Alright の日本語は、よっしゃ!!!となっている。訳者は D.P.Dutcher 、とっても良い英訳で力がある。鉱脈社の発行。鉱脈社は良く頑張っているな。

二十一時半迄製図。大半のグループ製図を見る。一つ、二つ際立つモノが抜け出てきそうだ。ここ迄来ると、才質が次第に浮き上ってくる。良く延びている者のは、やはり率直にアドヴァイスを受け容れて、自分なりの工夫をこらす事が出来ている。どうにもならないのは、人の言う事をあんまり聞いていないか、聞き分ける能力が無いかである。

私も教師生活二〇年、少しは学生の事、特にその才質と持続力の実体くらいは見抜けるようになってきた。人の言う事は聴くものです。

二十二時半世田谷村に戻る。

十月十五日

六時起床。「二代目絶版書房」の企画を具体的に考え始める。メモを記し、設計製図のヒント12を書く。八時前了。九時二〇分世田谷村発。

R149
十月十二日 日曜日

七時半起床。おむすびと味噌汁の朝食後、ささいな仕度をして発つ。九時二十八分の上越新幹線ときで新潟に向う。早福岩男さんに電話して、明日午後にお目にかかる事になった。楽しみである。現代の職人で取材して以来の友人である。

車中にて、昨日来の三徳山三仏寺投入堂に関する、三つの小論を熟読する。皆、学生の頃読んだものだが、年を経て読み返すと全く別世界が読み取れるから不思議である。この小論は院生の一人が修論に「修験道」をテーマとする事になり、彼が集めたものである。三つの小論とは、それぞれ三仏寺投入堂について、堀口捨己、大岡実、田辺泰といった歴史家、歴史の素養のある建築家が書いたものである。比較して読むと実に面白く、深淵をのぞき込むが如くの風を感ずる。面白過ぎて、新連載の「美について」に急遽書いてみる事にした。「立ち上がる伽藍」についても実は面白いのだけれど、恐らく遠廻りに過ぎて、何が美についてなのか迄辿り着くまでには時間がかかりそうだ。あわただしいネット読者は遠廻りを嫌うだろうとサービス精神を発揮してしまう。

まあ、それはさておき、越前浜の夜は三人の小論に現われる美の問題の相対性について書く楽しみが生まれた。あそこの夜は長いからな。

十一時半前新潟着。市役所の顔見知りの方が迎えに出て下さって、車で越前浜に向かう。道々色々と話す。十二時、越前浜の民宿に着き、地元の方々の手作りらしいが、一見それらしくなくランチ弁当。食の趣向だけには気をつけて下さいとつぶやく。十三時半レクチャー。「自給自足農園」について。『at』に書いた小論をレジメとして参加者に配布する。参加者は石山研関係の人が多く、来年は皆とラオスに行こうかと考えたりした。まだ思い付きである。

十五時半レクチャー了。歩いて宿に戻る。画用紙と道具を持参したのだが、描く気が起きない。民宿の室にこもり、「水の神殿」のスケッチをすすめる。こちらは少し計りはかどった。民宿のオヤジさんのすすめで風呂を使い、再び部屋にこもる。何かしてないと、ろくな事しか考えぬので、メモを記した。十八時半より夕食と地元の方との懇親会がある。

二十一時過眠りにつく。

十月十三日 体育の日、休日

六時起床。美について、七枚書く。面白くなりそうだ。七時半朝食。

その後、神戸からワークショップ参加の冷水隆治さんと佐渡を見渡す浜辺に出てスケッチ。冷水さんは良い水彩画を描かれた。九時半、六グループ二十二名の発表会。六グループ全てにコメントする。たった二日でも一緒に生活すると、大体、それぞれの個性は解るものだ。勝手な誤解であるにせよ。ハードで密実なワークショップを開催してきた自分史を持つ私にとっては、この新潟のワークショップは淡白であるが、今の時代にはこれ位が良いのかも知れぬ。

十二時前全て修了。記念写真をとり、冷水さんと共に新潟駅へ。役所の方に送っていただく。ソバ屋で昼食、冷水さんとみっちり話す。冷水さんは六十一才、RIAで設計されていたが、今は画も描いておられる。私の早稲田バウハウス・佐賀ワークショップ以来の附合いである。もう八年になるそうだ。ネパール・キルティプールのワークショップにも参加された。

彼の画業について、少し考えていた事を申し上げる。ニューヨークで個展迄開いた画家には余計なお世話であったかも知れぬし、私も余計なコト言ってるなと自覚しながら、でも申し上げた。冷水さんの年齢を考えれば、最後の変わるチャンスであると思ったから。勿論、我身の事も念頭に置いてはいたが。

私が勝手に予想していたよりも、余程彼は画については、しっかりした考えを持っているのに、いささか驚いた。良い驚きであった。十四時半ソバ屋を出て、駅へ、飛行機で伊丹に飛ぶ冷水さんと別れる。又、元気に会えると良いな。 TAXIでホテルオークラへ。メモを記し十五時過、早福さんと約束の喫茶室へ。

十五時二〇分早福岩男さん、奥様と再会。十数年昔の現代の職人取材以来のお附合いで、夏には御夫妻で世田谷美術館迄足を運んで下さった。文化財指定の明治期のサロンがある大型の木造三階建鍋茶屋、通り、周辺一帯を案内して下さった。

実に興味深い鍋茶屋通りであった。これは新潟市の歴史の財産である。早福さん夫妻とゆっくり話し始めていたら、私が取材時にまだ乳児であったお孫さんが今、世田谷村近くのマンションに住んでいるとの事。それに私の父方の故郷と早福夫人の生まれがどうやら同じ村のようで、縁というモノの不思議さを思った。鍋茶屋の食事はおいしかったが、流石に昼を喰べたばかりであったので腹に入らなかった。申し訳ない。話し下手な私でも、アッという間の三時間程であった。早福夫妻の人柄であろう。名残り惜しいが、十八時四十五分お別れ、新潟駅へ。十九時十八分の新幹線に乗る。

三条を通過、昔ダムダンに居た故田辺吉祥の眠る町だ。亡くなる間際、「会いたい」と言っていると伝えられたが、果せなかった心残りがある。

いささか、疲れて新潟行は終った。やはり年齢なりの、ゆったりとしたスケジュールを組まないといけないな。二十三時前、世田谷村に帰着。すぐ横になったが、眠れない。

十月十四日

十時半世田谷村発。大学へ。

R148
十月十日

十二時研究室M2ミーティング。一人学生が新聞社に就職が決まり、本格的なジャーナリストとしてスタートする事になった。聞けば親友であった故佐藤健の影響もあるとの事である。それ故修士論文のテーマも「修験道」、まだ若いのでこの先何があるか知れぬが、私としては死んだ友人が残してくれたものだと思って、大事に育てて社会に送り出したい。人生は本当に不思議な縁の連続である。来週から関西に修験道体験に出掛けるとの事、暮の佐藤健酔庵での会にも連れていってやろう。他のM2の修士設計もテーマが少しずつ固まってきているようだ。

十四時半三年設計製図。今日は学生全体の空気にとって重要な日なので、気合いを入れて臨んだ。学生の空気、最近のサークル的な空気を突破させるのが目的で、良いモノは七点程しかなかったけれど一点一点綿密なアドヴァイスをした。抽象的で高度な話しをしたって製図に反映できないのはすでに知っているので、徹底的にリアルに指導した。

大方、Aランク、Bランク、Cランクに分けられていて、Cランクのモノにはかなりキツイ、ダメを出した。今度は今のところ原則全員発表なので、Cランクのモノにも必然的に目配りが必要なのだ。東大には申し訳ないが、対抗戦はAランクの学生は勿論Cランクの学生の底上げにも大いに役立つのを知った。六〇も半ばの老教師になって、こんな事に血道をあげているのも、我ながら笑ってしまうのだが、今の早稲田のみならず、学生のみならず、若い建築家、設計者、デザイナー、アーティスト、ようするに社会全般を見るに、こういう馬鹿気た事が必要なのだと、自分のうつけ振りを正当付けようとする。二〇時半迄。六時間かかった。まだまだ足りないのだが、余り私が長居すると学生の気持が冷たく固まりそうかなと思い退席。アトは若い先生方に任せた。

中川武先生のミニレクチャー「共同体について」は学生はほとんど理解できぬものであったろうが、良かった。勿論私は理解した。近江屋で一服して世田谷村に戻る。今日は丸一日先生の日であった。

十月十一日

株価が大幅下落して、恐らくこれは世界恐慌の入口かも知れないな。

R147
十月九日

十七時半教室会議終了。小役人みたいな統制に、本当に早稲田建築はくるまれていってしまうのかね。要するに、今やコワレかかっている経済のグローバリゼーションの如きに、従ってゆくのか早稲田も。問題の中枢を見なければならぬのに、早稲田建築を見下しているんじゃないか,自らが。

十八時、新宿味王で一服。二〇時世田谷村に帰着。

十月十日

八時半起床。一度四時半に起床して読書し、又眠ったのでこんな時間になった。

UCLAのA主任からの依頼、清華大学からの依頼等と相対的に考えるに、建築教育はここしばらくの対応の仕方次第で大きな格差が出現してしまうな、大学間で。早稲田建築は本物の危機感を持って対応しなければ、置き去りにされるぞ。

設計製図のヒント」を書いている位なら、設計教育の特化を目指した動きをした方が良いのだけれど、でも今の学生の現実には現場での対応も急務なのだ。

昨日、北海道十勝音更の「水の神殿」のクライアントから設計変更の要求があった。クライアントは一生懸命だから考える事はリアルで適確である。WORKは面白くなってきた。今日は、明後日の新潟での「自給自足農場について」のレクチャーの準備をしなくてはならない。

酔仙山田脩二と何か共同の大がかりな仕事を残したいと考えているので、今日、明日に大筋を決めて淡路島に送りたい。本当はデッカイ伽藍を一つ作ればそれで良いのだけれど、大伽藍の仕事はまだ来ない。

今日の午後の設計製図はチョッと気合いを入れてやる。昨夕、別件で東大の難波主任に電話したら、「東大はムチ入れてるよ」と言っていたし、全体をアシストしてくれている山路君に、「今年の早稲田は苦労してる、駄目だよ、東大ペースだろう」と言ったら、「又、そんな事言って、油断しませんよ」との小さなやり取りがあったから、アレはキチンとやっているのだと知れた。早稲田は今日立て直さなくてはどうにもならないだろうな。

R146
十月九日

十二時研究室。雑務、連絡、十三時半アベル、チリ建国二百年祭展示会打合わせ。かなりリアルな感じになってきた。十四時教室会議。インターンの問題他、仲々大変そうだ。設計教育の自立が少々、怪しい方向に向かっているのだな。環境の長谷見先生が主任になられた。これで工学系の主任が二期連続続いている。

R145
十月八日

世田谷村のFAX機がうまく働かず、一人でジタバタする。シャープの機械に、ブラザー社の印刷リボンが入っていて、その交換が上手くいかない。緑色のリボン回転ギアが、説明書(ブラザー社の)ではすぐ抜き取れるとあるのだが、ビクともしないのである。それだけで、リボン交換が不能である。どちらに不備があったのかは解らないが、少なく共ブラザー社の説明書は不親切だし、そもそもシャープ社の機械に何故ブラザー社の説明書が入っているのか不明である。

M0ゼミはそんなわけで途中迄しか交信が不可能で一人一人電話で相談という事になった。今年のM0ゼミはかなりユニークなテーマ枠でやっているので、社会性もあると考えて、ネット公開する事にした。我サイトはもの狂おしいものになってきてるな。更にネットをフル回転させてみる。

夕刻近く、世田谷村発、磯崎新アトリエへ。十八時磯崎さんにお目にかかる。広尾に引っ越しされて、お元気になられたようだ。すぐに夕食に出る。美味な小さな和食屋である。食に関しての磯崎新の趣向、知識、見識は計り知れぬものがあり、残念ながら、私や鈴木博之、藤森照信、それに安藤忠雄を含めて、食べられればいいや、場所(店)もいとわずの風とは全く異なる。

実に念入りにメニューを検閲、読み込み、料理人に尋ね、それから丹念にオーダーする。食事に合わせた酒を頼む。ワインの時はワインに合わせた料理をオーダーする。と言った具合で、私なんかはどうひっくり返ったって、対応の仕様がない。少し前に世界中の料理探訪のコラムを日経新聞に連載していたのを記憶しているが、下手ものから正統まで何でもこなすのである。もうこれは才能というしか無いのではないか。時に浅田彰の如くの京都人が京都の老舗の、うなぎのせいろやらを持ち込む事があったが、浅田彰もどうやら味覚には相当デリケートらしい。

話しが飛んでしまうが、柄谷行人は味はよく解らない方ではないか。どうでも、喰べられれば良い方だろうと目星はつけている。鈴木博之は味には恬淡としている。藤森照信は若い頃は量あらば良しの類いであったが、今はどうやら小食になってきている様だ。安藤忠雄は今でも食はスピードであるとの方針で、何しろ喰べるのが速い。渡辺豊和は全く喰べているのを視た事が無いから、アレは霞を喰って生きている。難波和彦はワインにはうるさいが、まだまだ磯崎の比ではない。うちの白足袋は二種類しか喰べない。固形のビスケット状のものと、魚をくだいたペットフードで、最近ペットフードも安全に難ありらしいので、何処製のものかチェックが必要である。

食に関して、私は実に雑駁そのもので、これから微に入り細に入る事はないであろう。世田谷村の自然食と、二、三の大衆料理屋があればやっていけるし、第一味に深入りする程、経済が豊かではない。

と変な事を考えながら磯崎新と食事したのだが、食事も上味であったが、話しが更に上味であった。イスラムの話しが良かった。少なからぬ知が西欧近代の知に対してのイスラムに注目しているのを実感した。私はその原理は解るのだけれど、細部が無いので話しを展開できない。渡辺豊和は狂気じみた直観でイスラムに没頭しているが、磯崎新は論理、哲学、社会構造からイスラムに着目している。二十一時迄。広尾まで一緒して、地下鉄を乗り継いで世田谷村に二十二時過戻る。

十月九日

七時起床。昨日の夕刊、今日の朝刊に眼を通す。昨日の毎日新聞夕刊文化欄に鈴木博之が北京オリンピックのスタジアム(鳥の巣)を書いていて、結びを李祖原設計の北京モルガン・プラザについて触れている。

鳥の巣も、李のドラゴンも、その根底は同じだけれど、李祖原の巨大建築には北京市へのコンテクスト(文脈)を第一にするという考えがあると述べている。鈴木がニューヨークの格子とシーグラムビルの間にコンテクストを視たのは、彼の地霊(ゲニウス・ロキ)は近代都市にも存在しているという歴史家の想像力、それの中にこそ地霊が生き続けているという事に他ならないのではないか。

近代に生き続ける都市の地霊への歴史家の想像力は、イスラム世界圏の歴史、文化をどう読み取るのであろうか。一度、聞いてみたい気がする。今は、歴史家の想像力に何かをゆだねなければならない時代なのだ。昨日の磯崎新の「フランス革命以降」は空白だった(もしかしたら聞き間違いかも知れぬが、私はそう聞いた)とは、近代精神の本格的な見直しを、それぞれに鈴木も渡辺もしようとしているからだろう。磯崎新も鈴木博之も、渡辺豊和と一緒にするなよと言うだろうが、私は雑食であるから、そう考える。八時半過メモ了。

R144
十月七日

五時半起床。六時半迄昨日のメモ他を記す。午前中連絡事等。十二時過発。十四時T氏来室。亡くなったW氏のマネージメントに関わっていた人物である。W氏の保有するエネルギーステーション関連の特許が中国を含め、イスラエル他六カ国程で認められ、それがアブダビ首長国から着目されたとの事。夢の様な話しだが、いかにもW氏らしいと感無量である。T氏はW氏とアブダビ迄出掛け、ビジネスモデルをプレゼンテーションしたそうだ。W氏はアッという間に亡くなってしまったが、この夢の如しの件をどうしようかと思いあぐねているらしい。

W氏は夢を追った人であった。その追いかけ方が尋常ではなくハラハラしたものだが、人物を私は好きだった。私の如き小心者には望み得ぬ破天荒さがあった。アブダビからエネルギーステーションプロジェクトの招聘があったら、協力しましょうという事にした。W氏が最後に残した、しかも心残りであったろう夢だ。

加藤先生と三年設計製図の指導方針について相談する。金曜日から、去年と同じように、幾つかのグループは石山の直接指導とする事の了解を得る。加藤先生も頑張って、もう少し情熱を表に出されたら良いのに。学生の元気の無さが伝染している可能性も大きい。

十八時新宿高島屋十三階小松庵で鈴木了二先生と映像ゼミの件等相談する。十九時過迄。その後近江屋で小休して、世田谷村に戻る。

R143
十月六日

十四時過たまプラーザ。山口勝弘先生にお目にかかる。お元気でいらした。水の神殿計画、バウハウス大学との計画等をお話しする。先生の記憶力は確かなもので、アメリカ・ブラックマウンテン会議とバウハウスの関係やらを話して下さった。

今の自分は五里霧中じゃなくて、五里夢中なんだよと、ユーモアも健在で、ダニ・カラバンのカタログを差し上げて、この人は何者ですかと、先生の評価を問うたら、「彼は私がイカルスを創作のきっかけに使うように、ベンヤミンを使っているんだ。」と驚くべき直観も述べられた。やはり、バッサージュ、ワルター・ベンヤミンが代表作である事が知れた。「とても写真を上手く使う」ともおっしゃったが、それが何を意味するのか、わからなかった。テープレコーダーに記録してあるので再現してみたい。

本の話しになり、「出版は今大変だよ、本は自分で出しちゃった方が良い」と。そして、再び『絶版書房』の話しをなさった。いずれ、「イカルスと水中ポンプ」に書くつもりだが、これはいけるぞと思ったので、その『絶版書房』の名前、いただけませんか、と願い出て、「いいよ」となった。「二代目絶版書房」を名乗る事にした。本の形式はとるのでこのページとは異なるので乞御期待。

宮脇愛子さんも途中からお茶に参加して、楽しい会だった。本物の芸術家は良い。邪気が無い。こちらの気持も楽になる。愛子さんのカタログにサインしていただき、引上げた。

十七時半大学に戻る。十八時学部生設計製図指導。沢山の製図の途中経過を見る。いささかの危機感に襲われた。これじゃ、東大建築に負けるぞという俗なものではない。先生方の指導の言葉が、自分の言葉も含めて、一向に学生達に通じていないという危機感である。

学生達の多くは建築をなめてるとしか言いようがない。なめるなよ、もっと好きになってくれ、というが如き一番の基本に立ち返らねばならないような、そんな感じなのだ。エスキスの量、つまり情熱が圧倒的に少な過ぎる。昨年と同様に、いずれ、つききりで指導しなくちゃだめだ、コレワ。学生もペラペラしゃべるだけ、先生もしゃべるだけではどうにもならないのだ設計は。二〇時半途中退席。近江屋で一服して二十二時半頃世田谷村に戻る。

R142
十月六日

七時半起床。たまプラーザの山口勝弘先生に電話して、おうかがいする事になった。宮脇愛子さんにも会えるかも知れぬ。山口先生の生きるスピリッツ、作る魂の強さは半端なものじゃないのを、このところ、日々実感するようになった。私もいづれ、長生きすれば車椅子で動かぬ人になるのだろうが、とても先生のように強い意志を持ち続け、作り続ける人間になる自信は全くない。

頑張らないのが、今の俗世間の流行らしいいが、山口勝弘の姿を、それは世間様が知らぬだけではないか。芸術家という職業らしきを、あんまり私は信用しなかったが山口勝弘の今を知ってから、それをかなりの度合いで改めた。凄い人間が世界には居るものだと知ったのである。

今、私のNHKのTV番組新日曜美術館を作った代島氏が日本中をかけ廻ってアウトサイダーアートの番組?映画を作っているらしい。彼が何故あんなにアウトサイダーの創作に関心を持ち、それを記録する事に情熱を燃やし続けているのか、私はそれに関心があるのだが。

私が山口勝弘や宮脇愛子に関心を持つのと、代島氏(すこぶる工房)がアウトサイダーアートの記録に執念を燃やすのも、底のところには相通じるものがあるのだろう。彼もアウトサイダー達に超越者を幻視している。あれだけの数のアウトサイダーに会い続け、ファインダーをのぞき続ければ必ずそうなるだろうと思う。

私が山口勝弘に動かぬ人、不動明王を視てるのと同じだ。山口さんは御自分のアゴヒゲをファラオまがいと言っているのも、自身の日々の変化を知り抜いているからにちがいない。そろそろ「砂時計とミイラ」のプロジェクトを始動させるべきだろうか、それを相談しにうかがう。十四時十五分に渡辺君とたまプラーザ駅で待ち合わせ、カメラとテープレコーダーの持参を依頼した。一刻、一刻の記録がとても大事だ。

今日は十八時より大学で設計製図の指導がある。

明日の朝日新聞に先日O氏と共に歩いた横浜黄金町バザールの記事が出る様だ。マア新聞記者は過不足なく都市計画者の如くにまとめるものだと、感心する。若い人はキチンと読んで、書き方の手本にしたらよい。そう言えばO氏は都市工学の出身であった。

R141
十月五日 日曜日

五時半起床。六時半迄メモを記す。昨夜は渡辺豊和の遺言原稿を読みふけり、頭がグルグルと廻転してしまい。地球の自転を感じる程に感覚が研ぎ澄まされる如きになってしまった。やっぱり渡辺豊和は凄い人物である。彼の遺言全集は私が責任を持って世に出す事を決意する。

本当に凄いものだ。出版社もまだ決まってはいない。まだ出版されていないものだが、景気づけに今日は半日ほどをかけて書評を書き記したい。

八時半、渡辺豊和遺言「建築からの伝言」 - 美(女)は万象を超え醜(男)は地獄で煮殺される - を再読。朝食をとり、休息する。

十三時過、序章とでも言うべきを書いて休む。我ながら異様な事態に身を投じているのを自覚する。これで同時に設計も進めるのだから、遺言を書いている渡辺豊和よりも私の方が先にコロッとゆくのではなかろうか。それ位の覚悟でやってみたい。

十五時過。一ノ関ベイシー菅原正二よりFAX入り、西口教授亡くなるの報を聞く。たった一度だがベイシーで会った人物ではあったが、印象に残る方であった。菅原も“強者”を失ったと書いてよこした。

世田谷村西の道に張り巡らされたクモの巣の数はおよそ三十五張である。キャンプ場と間違ってるんじゃないか、クモ共は。これでは獲物を捕るにも過当競争だろう。

R140
十月三日

十時半研究室M0ゼミ。女性がかなり高度な問題に取り組もうとする気質と能力を持つのを実感する。この女性陣をどう育てられるのかが、私の楽しみな課題だな。M0ゼミの簡単な要約をネットに公開する事にした.かなり飛んでる研究をやっていると思うよ。

十三時M2ゼミ。修士設計指導。男子学生の一人がジャーナリスト志望で、修験道の研究をやりたいと言う。佐藤健の遠廻りな影響なのか、妙な人生の巡り合わせを感じる。本気なら附合うが中途半端はダメだよ。

水の神殿、GAギャラリー出展の模型をチェック。もう少し手を入れたいのだが、このプロジェクトはあんまり手を入れても仕方無いところもあるのだ。水と氷の建築だからな。

十五時学部三年設計製図指導。佐藤滋先生と石山のミニレクチャーと課題指導。今年の三年生も女子が優秀だな。4チーム程のプレゼンテーションに才質を感じた。人材は芽をつまぬように、育てていかねばならない。十七時半途中退陣。

十八時前発、地下鉄を乗り継いで広尾のドイツ大使館へ。十九時半よりドイツ統一記念のレセプション。西谷理事と合流し、ツィンマーマン・バウハウス建築大学学長と再び会う。大人数のレセプションで実のある話しは出来なかった。

二十一時会場を去る。二十二時世田谷村に戻る。あーあ疲れた。

十月四日

十時前起床。隣家より注意されて、繁茂しているクズのツタを切る。自然との共生も市民社会に於いては仲々苦労だ。十時四〇分取り敢えず修了。鎌を振り廻して汗をかいた。蜂にも襲われた。しかし、何年か前に植えていたジャスミンの樹が大きくなっていたのも発覚した。

西の道の宙空に架けられたクモの巣砦のトンネルは益々異様な風景を作り出している。鬼グモ、黄金グモ、他の変な大きなクモ、四、五種類のクモがそれぞれのネットを二〇程張っていて、獲物を待ち構えている。資本主義社会のネット投資ビジネスみたいなものである。しばらく観察してみよう。

十二時前、一時間程をかけて「設計製図のヒント」7を書く。面白くて一向に苦にはならぬのが不思議である。

十五時過発、世田谷美術館へバスを乗り継いで出掛ける。ダニ・カラバン展見学。N氏に会う。 ダニ・カラバンの展示会はキレイに仕上がっていて、私の展覧会とはまるで趣向を異にしていた。 アプローチには斜めに傾いたハシゴが複数かけられ、天井のミラー状とあいまって、恐らく天国へのハシゴらしきなんだろうか。チョッと露骨なアナロジーで学芸会っぽいなの印象。

あの使い難い、扇型の部屋にはクツを脱いで観る趣向のオブジェの小庭が、外の美しい林を借景にしつらえてある。これも、関心がなくパスした。私の展覧会で「ひろしまハウス」を置いた円型のガラス壁は開け放たれていて、程良い距離にレストランが見えて、ここは良かった。

それからが中枢で、ダニ・カラバンの製作の動機とでも呼べる小作品、資料が密度高く、小模型と共に展示されていて見応えがあった。大きな部屋の半分位迄か。

それ以降は映像のオンパレードで、パスした。一番見たいと考えていた、ベンヤミンへのオマージュ作品も抽象的な映像で良く解らなかった。すでに存在している、場所に密着した作品を人々に伝達する困難さを痛感した。しかし、解らないなりに、これがダニ・カラバンの最良の作品なのではないだろうか。ベンヤミンに対するオマージュの中身をもう少し語る展示方法があるのではないか。

最後の部屋も映像、パスした。もっとモノが視たかったのだ。会場には私の展示会とは少々種族の異なる若い人達が映像に見入っていた。今風のキレイでのっぺりした、清潔そうな人々である。ダニ・カラバンのランドスケープの作品も要約するならば極めて視覚的でヨーロッパ的なモダニティの美を規準としており、彼の表現の中心はやはり彼自身なのである。彼は共同体への思索が空虚である事を自覚しているのであろうか。作者の主体が表現世界の一切である如きヨーロッパの近代を感じたのである。限界がある。ユダヤ人、砂漠の民、ヘブライを原基として持つ特異性、新種の、それこそ普遍性は感じる事が出来なかった。

今、私は北海道十勝地方、音更で「水の神殿」のプロジェクトをすすめている。それでダニ・カラバンの仕事を見てみたいと考えたのであるが、それは砂漠の民の砂漠の思索に触れてみたかったからだ。 ネゲブの記念碑の大作が実感できなかったのは残念であったが、私は水を主題にFIELDを作ろうとしているので、造園は初心者ではあるが、ダニ・カラバンとは歴然と異なる世界を考えているのを知ったのが収穫であった。

ただし、世田美の連続講義で申し述べた、唐桑の仕事は現代美術、得に環境美術のミミッチさを超えているという大見栄の素が、やはり私はある種の共同体らしきを信じたいと願っているのだと言う事で、「水の神殿」および「時の谷」の建築での物語り性を強く大きく育てあげなければ、ヨーロッパの作家主義を超えるのは難しいことも良く理解できた。

短い見学であったが大変勉強になった。軽井沢の宮脇愛子さんのアトリエでイサム・ノグチの小さな椅子のオブジェクトを見て、座ったが、イサム・ノグチとダニ・カラバンの違いも一瞬のうちに直観できた。いずれ書いてみたい。

この夏は酒井忠康氏の若林奮に関する著述を読み続けたので、若林奮の仕事の意味も少しづつ、解ってきた様な気がする。若林奮の作品はランドスケープにならぬ、小さなモノの方がズッーと価値が高いし若林のアイデンティティーが歴然としているとも、ダニ・カラバン展を見ながら考えたのである。イサム・ノグチや若林奮を考えさせられたという事だけでもダニ・カラバン展は良かった。

見学後、レストランでN氏とビールを飲む。展覧会後も度々、理由をつけてはお目にかかっているので、面倒臭い奴だと思われているやも知れぬが、お許しいただきたい。

十八時過世田谷村に戻る。渡辺豊和より遺言原稿が届いてビックリする。

R139
十月二日

七時前起床。寒い。青空が広がっている。昨日はいささかくたびれた。長かった夏休みが完全に終了した。「設計製図のヒント」6メモする。十三時過研究室。十五時梅沢良三先生と鬼沼の構造打合わせ。十六時過迄。十七時半新宿南口味王。十八時フリーの編集者長井さんと会う。元「室内」の編集者で山本夏彦翁の秘蔵子であった。

「設計製図のヒント」ネット上の連載が驚くべき事に、「世田谷村日記」のヒット数を超えるという異常事態が起きた。十年来初めての事態だ。現在の一日の総ヒット数は一万五千ヒットと落ち着いてきた。十項目程の読物、観モノがあるのだが、その中でも世田谷村日記のヒット数は群を抜いていた。毎日更新するからだろう。

東大との共同課題に取り組んでいる早稲田の建築学生のために、と考えて、何気なく始めた連載であるが、これが異常な読まれ方をしている。誰が読んでいるのか知れぬが、学生達だけでは無い数字がはじき出されている。そこで長井さんに会って、これを素ばやく本に出来ないだろうかと相談したのである。

連載開始まだ数日で何を浮いた話をと、笑うかも知れぬが、実に笑えぬ数字があるのだ。これがネット時代の情報の流れなのかも知れない、と直観している。

難波先生も合流して気のおけぬ会になったが、楽しい会は早めに切り上げるのが良いので、サッと終りにして世田谷村に戻った。

十月三日

七時半起床。メモを記す。毎日、書くのは意外に楽しいもので、それが良く読まれている原因なのかも知れない。十年やってるから、ネットの文体になっているのかも知れないので、本にする時は長井さんにだいぶん手を入れてもらわなければならないだろう。出版社もまだ決まっていないが、何処かが名乗り出てくれるだろう。

世田谷美術館での連続講義の出版はN社K氏が進めてくれている。私も膨大な記録に目を通し続けているが、こういう時代だからこそ、「書物」は大事なのだ。若者の気持を本に少しでも近づけるように工夫するのは、年寄りの道楽を超えたものがあるような気がするな。

他に、研究室の渡辺君に百部限定のネット本を十冊企画しろと命じているので、研究室は情報デザイン研究室の如くになっている。

勿論、実物の立体の設計も続けている。九時半世田谷村発。今日は又、忙しい日になる予定だ。

世田谷村の西の道路の宙空に沢山のクモが、隣家の樹とうちの樹の間に、巣をかけ渡していて、それが実に美しい。この道はクモの道になった。余程通り過ぎる虫が多いのだろう。

R138
十月一日

十一時前研究室。十二時発十三時留池アークヒルズ森ビル。37 階のクラブで、ドイツ・チューリンゲン州首相主催の昼食会。ディーター・アルトハウスチューリンゲン州首相、ユルゲン・ラインホルト大臣、駐日ドイツ大使、日本ドイツ大使等と昼食を共にする。ツィンマーマン・バウハウス大学学長が一緒だったので何とか会話になった。久し振りに肩のこる会食であった。

日本からは国会議員が数名。環境族というべき人なのだろうか。名は記さぬ。十五時迄。恐らくは、こういう行動を外から見ればロビーイスト的活動なんだろうな。

十五時半前新橋ホテルコムズ近くのコーヒーショップで時間をつぶす。今日は夕方人に会って、会食のハシゴなのだ。仲々キツイな、コレワ。政治家はかくの如きを一日に五件、十件とこなすのであろうから、彼等はタフなのだ本当に。タフすぎて頭に知恵が廻り切らぬのだろうな。凄く眠気が襲ってきて、喫茶店で仮眠。

十八時前F氏と共に尾島俊雄研究室訪問。その後、近くの料理屋で会食。尾島先生は意欲に満ち溢れ若々しかった。

R137
十月一日

八時過起床。メモを記す。昨日は十五時研究室。大雪山・水の神殿打合わせ。十六時ツィンマーマン・バウハウス建築大学長来室。久し振りだが、お元気そうであった。二件程用件を話し合う。明日、昼食をドイツ、チューリンゲン州首相等と共にする事になった。F氏に寄っていただいて、近くのコーリア料理店で夕食を共にする。気さくな人だが、仲々のらつわん家であるのも知っているので、興味深い。二十一時頃迄。F氏に新宿迄送ってもらい、二十三時前に世田谷村に戻る。

設計製図のヒント」短期連載を始めた。連載としたら比較的多くのヒット数がある。ハハア、この数が大体の学生読者数であるなと考えた。又、アーティスト・北川氏からごていねいなメールをいただいた。黄金町バザールに関して印象を記したのに反応して下さったようだ。私はメールでの応信をやらないので、ここに記して応信としたい。何かとても重要な事は封書で送るのを旨としているので、読者諸兄姉にはよろしくご了承願いたい。

私の敬愛して止まぬ渡辺豊和氏との交信は、渡辺氏がコンピューターを捨ててしまったので中断しているが、いずれ何かの形で復活させたい。渡辺豊和とはどうしても共同の何かを残しておきたいのだ。今の如き軽み薄味が横行する時代には、彼の如き、本物の狂気じみた想像力の存在は実に大事なのだが、世の識者達でさえ、それが解らぬ位の体たらく振りであるのが残念だ。

しかし、学生達に渡辺豊和を読めとは、私は言わない。何故なら学生レベルではとても理解不能であるし、渡辺の想像力の飛行振りが、反時代的である事も確かな事だから。

十時発研究室へ。昼食会で渡せと言われた資料を用意して、六本木ヒルズに廻る。今夕も銀座で会食があるから、体には気をつけねば。渡辺君に水の神殿の事、すでに大方は任せてしまった、この仕事は新しい領域に属するものでもあるので、彼の仕事振りが新分野を開くであろうことを期待している。GAギャラリーの展示会に出展するので御覧いただきたい。

OSAMU ISHIYAMA LABORATORY
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