1月2日から休みなしに働いてみたら流石にバテタ。それで今日の午後は休みとする事にした。午前中木本さんとのコラボレイションの先を考えたいと考えていたのだが、仲々頭が切り換えらずにいた。頭を切り換えると言うのは建築設計他のお金が動くリアルな仕事から、余りに芸術世界故に仲々に金があまり動かない木本さんとのコラボレイションの世界らしきへと頭の波長を切り換えるのが難しいと言う事でもある。
広島山中で独り鉄の造形に取り組んでいる木本君の事を想うと様々な事が巡る。近頃TVのCMにバルセロナのサグラダ・ファミリア教会の現場で働いている外尾悦郎さんが良く登場する。つまらない科白を言わされて照れている風が、スレていながら、かすかに初々しい。初心を忘れるなよ、良い作品作れよとつぶやく。すっかりカタロニヤ風の人間になった外尾悦郎さんが一筋縄ではゆかぬ人間に育ったのは知れた事だ。わたしは彼のバルセロナ暮しの初期に知って友になった。良いカタロニア人のスレ方をしてきたなと心強い。カタロニア人は金にも強いのだ。特にバルセロナは名うての商都である。
外尾さんとバルセロナで飲んだくれていた頃、良くゴシック街のユダヤ人街の袋小路を踏み迷っていたが、何処のバールにも巨大なワイン樽があって、その樽から汲んで飲むワインは上味かった。何年か前に外尾さんは考えるところがあってカソリックの洗礼を受けたようだ。たしか洗礼名はミケランジェロ、うんぬんであった。
木本さんは外尾さんと同じ位の腕があるし、スピリッツもある。いい根性をしている。しかし、残念ながら良き日本人なのである。典型的な現代日本人。つまり無宗教人なのである。そこがカソリック信者となったミケランジェロ・外尾と比べて弱い。
話は飛ぶ。何故飛ぶかと言えば、この文章は今、千歳烏山の南口のラーメン屋、長崎屋で書いている。隣りのテーブルでタクシーの運転手さんと、ここの常連さんが、口角アワを飛ばしてホラを吹き合っている。その最中で書いているので異常に高揚してしまっているのである。こいつ等ジジイ、オジン達は絶対に病気にはならネェな。馬鹿とカラストンビは病気にならない。
木本さんの金属オブジェクトでこれ迄の最良のモノは厚生館愛児園に依頼された、鬼子母神像であろうと信ずる。
この作品に於いて木本さんは実に、それ迄の平板なモダニズムから少し脱け出そうとしていた。子供たちの平安を祈ろうとするクライアントの希求に助けられて、芸術家は自律した魂を持たねばならぬが、それだけでは駄目だ。同時にそれを捨て切らねばならない。少くとも、その心構えは持つべきであろう。自分独りの誇りを捨てて、何者かに帰依してゆく能力も又必要なのだ。
木本一之さんの鬼子母神像はわたしが今、現在、気持ちの巡礼を続けているアニミズム周辺の旅の道標として残した産物の一点である。この作品を作ったのは木本さん。わたしはいささかのディレクションをしただけである。
何故、ディレクションしなければならなかったかを考えたい。
一、木本さんは美大教育による典型的なモダニストであった。それは京都の美大出身の外尾悦郎や桑沢デザイン出身の山田脩二と全く同類である。ここで、いきなり淡路瓦師山田脩二が登場してしまったが、この馬鹿者に関しては又、追い追い述べることにしたい。ちなみに山田脩二と外尾悦郎は極めて相性が悪い。双方、まだまだ我が強すぎるのである。馬鹿者共である。
モダニズムは日本のアーティストに於いては大方借り物に過ぎない。原理的にはである。で、わたしは木本さんの骨格からモダニズムの骨を少し抜きたいと考えてきたのである。モダニズムの美学とは、本来的に芸術家、表現者の主体を絶対視した社会的表現という抽象的観念の産物である。
わたしが只今、漂着、あるいは漂流しているアニミズム周辺とは、その世界の辺境にある。全く異世界ではあり得ないが、その最周縁に位置している。しかも広大な過去の世界とのパイプも太い世界なのである。近代の自我、自己、個人を中心に据えた世界ではない。しかし、けれども中世から近世にいたる、神、あるいは倫理的世界の価値を軸にした家、家族、国家を中心にした共同体の倫理にも非ず。わたしの想い描くアニミズム世界とは近代の産物である産出されたイメージとしての物質(商品)を仲介とした、物質と人間の関係世界に近いモノがある。
その考え、イマジネイションを木本さんの手を介して表現したいと考えたのである。その為には少くとも、わたしとのコラボレイションに関する世界では、木本さんの教育されてしまっているモダニズムの平板さを少しでも矯正する必要があった。外尾悦郎がアントニオ・ガウディが究極的に帰依していたカソリックに拠り所を求めざるを得なかったように、木本さんにもかたくなな自己を捨てて欲しかったのである。
ニ、木本さんはメタル造形の基本を美大卒業後、ドイツのメタル造形マイスターの許で修業することで得た。それはわたしなりに理解するならば、ヨーロッパに於ける、アーツ&クラフツ運動とバウハウスのグロピウス等によるモダニズム運動の岐路に身を置いた歴史を持つ事でもある。
ウィリアム・モリス等の意識的な活動によって近代デザインはその幕を開けたと、わたしは考える。その近代とは、労働と表現の総合性にあった。人間の生活はマルクスの言う労働によって支えられ同時に分化されてもあるが、同時に表現活動でもあるという、小さなユートピア志向でもあったのだ。グロピウスの標準化主義、普遍主義はそれと鋭く対立してしまった。総合的な表現世界への希求が弱かったからであるし、ゲルマン民族の強い抽象的論理性の故であったかも知れぬ。
木本さんのキャリアの中にわたしはヨーロッパのアーツ&クラフツ運動の流れを視たのである。
それ等を今のところ統合すると次のような結論を得ざるを得ない。この結論は余りにも唐突に視えてしまうであろうが、実に正しい結論なのである、わたしにとっては。
一、絶版書房主催による、木本一之、石山修武、市根井立志、山田脩二、その他の展覧会を、春、3月、完成する予定の至誠館なしのはな保育園、さくら乳児院の建築内で開催する。
ニ、その展示会をXゼミナールで取り上げる事をXゼミナール同人に提案する。
三、3月完成の建築を、意識的なスタートとして、わたしのアニミズム紀行の旅を再構成する。
四、その展覧会のプロデュース、他の一部を向風学校の安西直紀に任せる。
バウハウス・ギャラリーから石山の諸作品が日本に返却される頃がベストであろうが、乳児院、保育園の開園前が、あるいは開園早々がベスト・タイミングであろうが、その時期に関しては明日夕方に至誠館理事長と相談させていただく事にする。
アニミズム紀行のリアルな旅を読者、諸兄姉に体験していただけるようなお膳立てを工夫したいと考えた末の事である。
今年もよろしく願いたい。一冊でも多く買ってもらいたい。
アニミズム紀行5は600部近くを刷ってようやく残部二百数十冊となった。そろそろ、例によって残部数を公開する事にしたい。