石山修武 絶版書房交信 2011

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111215

絶版書房交信50「ネジ式」その3

我々は今、東日本大震災・津波の後の静かな停滞の只中に在る。更には福島原発事故の後の、どうにもならない人類のと言って良い深淵のなかにも在る。わたしはアメリカとの戦争を知らぬが、前世紀最大最強の人工の津波でもあった戦争の虚無の闇を、今は少し体験できた。

技術の自律的進歩と、それがもたらす一時代昔の経済の繁栄らしきに大きな疑問を抱かざるを得ない。

充分に意図されたものでは無かったのは、少しばかり残念ではあったけれど、アニミズム紀行1の旅の始まりは、祖母春代がお百度参りをしてくれた、岡山和気の北向観音、そして祖母、祖父、故郷、それはそれは美しかったものだが、今はほとんどその美しさは破壊されている。そしてアジアのマナへの未熟な旅に続き、1970年代のネパール、キルティプールへ。

それは日本の1950年以前が現前することによって激しくノスタルジックな生モノの風景があった。

それでアニミズム紀行7へと、ようやく綱渡りの如くに渡り続けている。

アニミズム紀行7は1950年代の東京郊外の風景に在り続けたアニマを少し描けた。

そして、その風景の結晶としての韓国河回村の2011年、東日本の大震災の年の風景につなげようとしている。

つげ義春がその天性の病気故に不十分であったノスタルジィの深さを測鉛しようとしている。

言い方を変えれば、そのネジ式の続編をわたしなりに描こうとした。だから、その本としての形式はつげ義春のモノを出来るだけ模写しようと試みている。

(つづく)

111214

絶版書房交信49「ネジ式」その2

今手許にある、つげ義春の『ネジ式』は2000年6月21日の復刻版である。株式会社青林工藝社発行、装丁は南伸坊2900円、450ページ程の分厚さのモノだ。紙質がザラザラしていて1968年頃の時代のテクスチャーを良く表わしている。

アニミズム紀行7もできればこの紙質を真似たいが恐らくコスト高になってしまうのであろう。

「ネジ式」その1の続きである。わたしがコルゲートパイプのボルト締めの赤裸々なところにひかれたのはどうしてなんだろうかと今更考えてみる。 コルゲートパイプの工業製品としての赤裸々さはともかく、よく眺めてみればこのパイプ状に中途完結させたトンネル状のモノを眺めれば、波状にシワにプレスで変形された鉄板はとも角、それ等は全て大きなボルトで締め付けられて縫い合わされていて、その様も実に痛々しいのであった。

つげ義春は今でいうところの完全なオタク人間であった。赤面恐怖症でもあり、年譜を読めばほとんど重度のノイローゼにもなり、自然にそんな人間の常でもある自殺を企てたりもしたようだ。恐らく自然にそうしたのであろう。

わたしは本来的にノイローゼにはなり得ない脳天ボケ人間である。生き続ける事に疑いも悩みもかき抱いた事もない。それを突き詰めれば記憶力の問題になる。

要するに実に忘れやすい人間なのだ。極端な事を言えば、それ故に瞬間、瞬時の積み重ねで生きざるを得ない。だから長い連続性に欠けやすいのだ。

つげ義春の「ネジ式」と題された漫画には実はそれ程気持が動かされはしなかった。

メメクラゲなるモノに左手をかみつかれ、僕の左手からの出血が止まらなくなる。それで芸リツ的にジタバタするのが描かれる。盛時の横尾忠則の感性と同じようで、つげのほうがもっと病気である。

その病気振りと1968年に代表される学生達の幼かった気分とが共振した。学生達は病気ではなかったけれど、それを自己演技するのに短期間陶酔していた。その集団的ナルシシズムとつげの病気とが気脈を通じたのである。

わたしは病気でも無く、又その芸リツ性に憧れることもなかった。

ただその激しいノスタルジイのようなモノの気分は少しばかり感知していた。

2000年復刻版、つげ義春作品集、「ネジ式」の表紙にもなっている目玉の看板が並べ立てられた街の姿は、1970年代のカトマンドゥにはごくごく普通の風景であった。恐らく、それは日本の街々でも1950年代以前、アメリカとの戦争中でも、それ以前でもそれ程に珍しく殊更な風景ではなかった。ネジ式の主人公が右手で、メメクラゲにかみ切られたという左手を抑え、つまりは流れ出る血を抑えながら、つまりは痛みを持て余しながら、彷徨する程の事ではなかった。けれども、つげ義春の哀切極まる病気の、つまりは近代の感性はその街の風景を一生懸命にペンで描き切らねばならなかったのだ。

つまりである。コンビーフのカンヅメを開けるネジ式で自分の身体から流れ出る血を締め付け、止めねばならなかったつげ義春がいて、それに我々は血脈を視た。

わたしはバッキー・フラーのネジ式、つまりボルト締め、ビス止めに夢中だったし、川合健二のコルゲート・シートのボルト締めにも、渡辺保忠の『工業化への道』も愛読したが、それ等は自分の歩きたい道とは少しズレていたのだった。

それはわたしの一般的に言えば処女作とされる「幻庵」での矛盾の内在に先験的に示されていた。

(つづく)

111213

絶版書房交信48「ネジ式」その1

アニミズム紀行7は着々と出版準備が進んでいる。

学生時代つげ義春が一世を風靡した。世の中が闇雲なエネルギーに溢れているような時代であった。つげ義春の一冊の漫画本が回し読みされた。

「ネジ式」であった。わたしも当然その今想えばファッションであった熱気の中に居た。学校を出てすぐに川合健二の鉄の家に出会った。川合はこの家は全てボルトで締められているから、いつでも再びバラバラにできて必要ならば鉄屋に重量で売る事ができるんだと言っていた。川合健二、花子夫妻の家の前の小さな草地で、わたしは荒木弘道さん等と「治部坂キャビン」と名付けられた小さな鉄の小屋の組み立て実験などをした。今想えば膨大に時間だけは有り余っていたのであろう。

キャビンは愛知県と長野県の県境にある治部坂という山の斜面に半ば埋められた。

地中に埋めるのはコルゲートパイプと呼ばれる鉄のレディメード商品に合目的であった。コルゲートパイプは地下の簡易下水、排水用に生産されていた戦後日本の、一種の国土復興の末端インフラストラクチャー用の部材であった。川合健二はあるフィールドの末端、辺境にすでに在る技術、及びその成果品としてのモノを組み合わせるに天才的であった。治部坂の実験はその考えを基にして成された。

今、思い返せばわたしはその素材の質量感、野卑で強い感触も好きだったが、むしろ川合の言う全てがボルトで締められているのだ、の理屈も妙に好んでいたのだった。院生の頃、渡辺保忠先生の『工業化の道』の愛読者であったから、その近、現代の章のR・バックミンスター・フラーに関する論述にいたく感じ入っていた、強く影響されていた。それで、アフリカの原住民の手でも(つまりは知識でも)容易にアッセンブルされ得るというフラーの仕事の原理的な面に触れた部分に反応したのであった。

アニミズム紀行7はそれ等の今とも連続している考えをベースにする。 端的に言えば、つげ義春の「ネジ式」の続編を目指そうと考えたのである。

(つづく)

111207

絶版書房交信47「アニミズム紀行7について」

昨夕、長野屋食堂で編集会議を持った。アニミズム紀行はいずれ、プロジェクト志向、つまり過去を熟視する事をバネに将来を視るへ、方向を明らかにしたいとは考えていた。

アニミズム紀行5・キルティプール編はその気持ちの一端が現われていたのだが、読者には幻想、幻視の類と思われたに違いない。でもそれも良かったと思っている。できないかも知れないと思いつつ進めるプロジェクトにはそれなりの価値があるものなのだ。できるのが充二分に知れたプロジェクトはやはり能力の限界迄使い切る事は無い。安全運転の予定調和の中で創作者も、それを見守って下さる人々も安心した道を歩く事になる。それはそれなりの商売としての価値はあるだろうが、他の価値はない。

わたしの仕事は今更言う迄もないと自覚しているが、やはり何かを切り拓いているの自覚が生まれないと、どうしても自身の力も充分に出ない。

アニミズム紀行はわたしの創作の機関紙であるから、その紙片から何かの創作する気配が生み出されていたいものだ。

アニミズム紀行5はその先行編であった。

アニミズム紀行6はその整理編でもある。

創作は荒野に踏み入るものであるから、当然周囲はあんまり視えなくなる。

背の高い草や、ヤブを切り分けて進まねばならないから。

でも、それを続けていると自分が何処に居るのか分からなくなるのは自然だ。

大昔、沢登りや岩登りに夢中になっていた頃にそれは何度も何度も体験した。

だから振り返って自分の居場所を整理し、来し方を振り返るのは必須なのだ。

アニミズム紀行7では韓国河回村への2度の訪問のスケッチが多く登場する。ここには何か未知のモノがあるの直覚だけが頼りの、これは決断であった。今在るモノのスケッチ、ああいいなの直覚だけが頼りのスケッチは、わたしに言わせれば未知の、未来を描くに等しいものだ。

イメージドローイングよりも実はより複雑な意味を持っている。

過去に成されたモノへの尊厳、愛情の表明と、それと同時に、それをなぞり、模写する事による、わたしの今の考えの表現ともなる。

確然として眼の前に在るモノを描くのだから、そうならざるを得ない。

ところで、開放系技術の考えは最近になって得られたものではない。

20代の半ばだったか、川合健二の考え方の模写でもあった。長野県治部坂の小キャビンの設計、建設を終え、書いた文章にネジ式工作ノートみたいな小文があり、実に幼いものであったが、アレが始まりでそれを少し気取って開放系技術と読んでいるに過ぎぬ。

アニミズム紀行7に多くのスケッチを登場させようと考えたのは、ネジ式の言葉の創出者とも思われるつげ義春の名作『ネジ式』の本の形式を再び、年を取って模してみたいと考えたからだ。

模写の連続から、かろうじて創作らしきがあぶり出されてくる。

アニミズム紀行7は面白いモノになるだろう。

そして、その面白く感じる、感じさせる気持の動きさえ何かの模写であるのも、すでに確かなモノであろう。

だから、こうして、面白く読んでいただく為の予告を用意しなければならない。

若い世代の才質が描いたスケッチも登場させる。その、つまりは若い才質の小文もわたしのコレクションとして見ていただく。

111113

絶版書房交信46「場所のオリジン」

昨日六本木に用があってしばらく歩いた。帰り道は建築史家の鈴木博之さんと御一緒であった。

六本木の交差点、かつてここでは学生時代、寺山修司や藤圭子とすれちがった。

寺山修司はコートを着ていたかどうかは忘れたが、エリだけは立てていた。あの人には何時何処へ行っても青森のうすら寒い風が吹いていたのであろう。

同じ青森でも棟方志功や長谷部日出雄の奥行きのある陽性ではなくって、やっぱりツベルクリン反応はいつもどうしても陰性みたいな、そんな陰がつきまとった。

藤圭子もお人形みたいな顔なのにドスのきいて、かすれの入った声が唄う新宿流れ者に典型な消しようも無い陰があった。

娘の宇多田ヒカルですか、あれとは違う根のような大地のように張りつめていて、彼女はその表面を流れる風の如くであった。

そんな事を想い出しながら六本木の交差点を過ぎ通りを暗い方へ、暗い方へと歩いた。

アマンドも姿形が変わり、何だか韓国の街みたいだと感じた。

韓国も日本同様に民族の伝統をかなぐり捨てて、カリフォルニアになろうとしている。ボストンやニューヨークにはなろうにも変化出来ぬので、やっぱりロサンジェルスみたいな街に憧れているんだろう。

六本木はウエストコーストの買春街みたいになっていた。

歩いている人々も不良外人、間抜けな不良東京人みたいなのが多いようだった。

寺山や藤みたいなのには一人もすれちがわなかった。

東洋英和のレプリカが、それでも残る通りも、昔の面影は失せ始めていた。

若い人がゾロゾロ吸い込まれていく場所があるので博之さんに聞いたら、「ブルーマンショーだよ、これは。マンションの販売催事ではないぞ」

と教えてくれた。

若い人は全く何を考えているんだろう。きっと何も考えてはいないんだろうとゾロゾロの連中の顔を瞬時観察した。

最近急速に保存の問題に関心が傾いてきていて、歩きながら博之さんに色々と尋ねた。

私は鈴木博之さんとは数はそんなに多くはないけれど、感銘深い旅を共にしてきた。

台湾高雄の運河上の小トリップでの会話も忘れられぬものだが、やはり圧巻はシチリアの旅であった。アグリジェントの遺跡に少し風が吹いていて海はフェニキア時代からの時間を感じさせた。

ここに来る前に訪ねたパレルモ市の丘にあるカタコンベでみた無数のミイラ、とりわけあどけない少女のそれでも美しい亡がら等を思い起こしていた。

どうしても建築史家との旅はそういうモノが中心になる趣きが強いのであった。

いささか熱心にわたしはエトルリアの遺跡に関して彼に尋ねた。ギリシャを掘ればローマが出てくる。ローマを掘ればエトルリアが出てくる。それではエトルリアを掘れば、ただのモヘンジョダロみたいなガレキが出てくるだけなのか。


トルコのアナトリア高原の外れだったかの山、ネムルト山(Nemrut Dağ)の2,134m程の頂上にそれこそロバ、ラバの背に揺られてボロボロになって辿り着いた事があった。

そこにあったのは巨大なピラミッドとエトルリアの神殿遺跡であった。巨大な神々の像が冷たい風に吹かれていた。

ガイドブック程度の知識しか持たぬままに訪ねてしまった遺跡であったが忘れようの無い記憶として残った。

あのピラミッド、しかも山上の巨大なモノ、そして神殿を築いた遺跡はトルコの軍人が銃を持って見張っていた。

何故ならトルコという近代国家以前にここはエトルリア民族の帝国である事が歴然として残されている場所だからだ。

ギリシャのパルテノン神殿の下を掘ったら、やっぱりエトルリアの小さな神殿が出てくるやも知れぬ。そうするとパルテノン神殿の妻飾りの彫刻を大英帝国が略奪して、文化相がそれを返却せよと申し立てていたりの正統な論理が怪しくなるからだ。

今でもエトルリア民族の末裔であると自認し、公称している人々がありや無しやは知らぬが、彼等がもしや居て(論理的には存在する)、ここはわが民族の祠があった場所だからパルテノン神殿は撤去せよの理屈は無いわけではなかろう。

鈴木博之さんが主導してきた場所の論理、その歴史に支えられざるを得ない論理はやはりオリジネーターの存在にゆき当るのである

この辺りの事を博之さんとはエトルリアの遺跡を巡りながら聞いてみたい気持がある。

都市が都市の上に積層してゆくヨーロッパ文化を、地震や津波で何もかも跡形もなく流されてゆく文化の住民が遠くから考えているのである。

11月9日

111110

絶版書房交信45

今年の3年生の設計製図の秋の課題は東大建築学科との合同課題である。5年目にして初めてとは言わぬが良い課題、すなわち高度な、でも背延びすれば届くであろう課題を課した。

先日、女子学生を相手に課題に即した話をしていた。女子学生は日本の暦(こよみ)の時間、つまり太陰暦と、グリニッジ標準時間の、すなわちグローバルに標準化された時間の差異に関して想像を働かせる才質の持主であり、わたしも安心して雑談できるのであった。女子学生は与えられたサイトに三つのさざえ堂状の建築を構想して、その二つを優美な木造の架け橋、つまり夢の架け橋で結ぼうとしていた。わたしは課題の中心テーマの一つでもある九品仏の浄真寺境内にあるカヤの樹との視覚的な関係を少し考えてみたらとアドヴァイスした。

アドヴァイスしながら、同時にこの無意識に近い、それ故に最良に近いモノであろうアドヴァイスは今進めている北海道十勝のヘレン・ケラー塔増築計画に使えるなとも考えていた。

すでに建っている盲人の人々を想定した塔と新築する部分とを連結する架け橋とも呼ぶべき、細長い宙を飛ぶ階段室の部分。ここからの幌尻岳の視せ方がこの建築の要であろうと気が付いたのである。

九品仏境内の700年のカヤの老樹と、勝るとも劣らずの日高山脈の幌尻岳が主役の建築なのだ。

つまらぬ家なんかからその主役を視せるわけにはゆかぬ。それ相応のデザインが必要になろう。

会津のさざえ堂の二重螺旋スロープを内包した塔の窓のデザインは仲々のモノだけれど、アレに負けぬような奴を考案しなくてはならぬ。

女子学生が製図課題という架空のモノ、その夢の架け橋に与える細部デザインと、わたしの課題でもあるヘレン・ケラー塔への宙を飛ぶ階段ブリッジのデザインとこれは仲々のつば競り合いになるではないか。

勿論勝ち負けはハッキリするだろう。わたしの方が負けてしまったら建築はやめないが、製図教師は引退だなあと考える。

そうでも思い込まねば設計製図なんか教えてられないのだ。人間は得てして上りだけを想定して階段状を考えやすいが、十勝の建築の架橋階段はむしろ下りを重視して考えなければならぬ。何故ならこの建築は時に盲人の人々が体験して下さる。闇の中を下ると言うのは凡庸な眼開きの世界からは至高の時空体験であるような気がする。

又、上る時は左手に幌尻岳、下る時は右手になるのも留意しなくてはならない。

当然、手すりの感触も大事だ。

111110

絶版書房交信44

絶版書房交信が42で停止していてだいぶん間が開いている。実は43は「42のつづき」と題してすでに送附してあるのだが、それが何処かに紛れたか消失してしまったのであろう。妙にそういう小さな謎は気になるものだ。

まあ絶版を旨とする出版の広告を兼ねての小文集であるから、いちいち消えたり隠れたりをとやかく言う迄もないと考えてはいるが、しかし紛失物を探す努力くらいはしてもらいたいものだ。

そんなわけで交信は44番という、縁起でも無い番号から再開する事にした。先日盲目の鍼灸マッサージ業・前田康夫さんにお目にかかる事ができた。毎日新聞に出ていた「3枚の地図」の文章と、それに対する藤本義一さんの文章がきっかけであった。3枚の地図を要約すれば、盲人にとっての風景は眼がかろうじて風景をとらえていた時の1枚、失明してからの風景、そして今の現実の風景の3枚の地図の折り重なりの中に生まれる厚みのある記憶=記録そのものが地図の全体なのだという事である。

今書いているアニミズム紀行7において、わたしは小学生時代を過した場所を1日かけて旅をした。旅といっても中央線三鷹駅の南口周辺なのだが、実に面白い旅であった。こういう旅をしてみると、未来への旅でもあったアニミズム紀行5のキルティプールの地図が、わたしには切実なものとして感じられるのである。前田康夫さんの如くにわたしは失明の体験が無い。それでかすかな記憶を頼りの、つまり道標としての地図作りという途方も無い想像力の駆使の体験がない。

でも、キルティプールの丘を舞台に描いた風景はわたしにとってはとてもリアルなモノであった事はたしかな事でもあった。

アニミズム紀行の旅は、はるかな旅になるだろう。遠征である。

アニミズム紀行7を手にしてから、再び紀行5を再読して下さる事を願う。

111028 早朝

絶版書房交信43「42の続き」

線画中にはある計画が描き込まれてはいるが、それはさて置く

主題は帽子である。

帽子、すなわち能のマスクならぬ脳のシェルター。

角かくしではない脳プロテクターである。

ルネ・マグリットと帽子に触発された四谷シモンの人形は、四谷シモン自身の人間の面白さには届いていなかったがやっぱりとても面白かった。人形師の気持の中に芸術家がいた。

四国の鎌田さんは我々のクライアントの一人だが、その鎌田さんが四谷シモンの人形他のコレクターでもあるのを知って驚いたのだが、それはそれとして、いずれ何か展開してゆくのかも知れないし、ただの袋小路であるのやも知れぬ。どっちでも良ろしい。

わたしは、ドリトル先生の帽子と宮沢賢治の帽子とルネ・マグリットの帽子に通じる水流を視たのである。

バーカ、それがどうしたと言われても、もう照れたり、いぶかしんでいたりの無駄はしたくない。シンプルにやりたい。

で、その水脈を辿る旅を始めている。

111028

絶版書房交信42「アニミズム紀行の行方」

石山研ウェブサイト、英文のページに「ドリトル先生動物園病院」の連載を始めている

画用紙に描いた線描の絵に小文をつけたモノで始めた。

日本文で表現すると、これは妙な世界になってしまうと直観したので英文とした。

絵は何処迄続けられるか解らない。しかし、描いている内にこれは今は小休しているが何年も前から始めていた銅版画を続きであるのを自覚した。

わたしの銅版画のテーマは荒地の精霊たちであった。遠くにヒマラヤらしき峰々を望み、砂漠でもなく渺々たる原野が広がり、そこを舞台に明らかに遺跡と覚しきが擬人化されてうごめく、そしてアンモナイトが多く登場した。

今、始めている線描画の感触は銅板を彫る鉄ペンではなく、ボールペンみたいなペンが作り出すモノで、銅板を彫るよりはズーッと速い。一点2時間程で描き上げられる。

銅板はやっぱり半日、一日、そして数日かかり、一度放置して数ヶ月後に再開するという気の長さを要する。

主題は勿論、大震災津波で生まれてしまった荒地の再生である。

これはアニミズム紀行のこれからの行く末も啓示してくれている。

未来を描いている自負もいささかある。

111021

絶版書房交信41「実にバカバカしい。」

ここは誰と交信しているのか定かではない交信欄である。

いずれは友人達も含めて全ての知人は幽明界の人となるであろうから、その時には、ハッキリと霊界交信と名を変えるべきか。

こんな事をぶしつけに書いたりすると、先ずは友人達よりもわたし奴が一足お先にとなりかねぬから用心するにこした事は無い。

次第にと言うべきか、ようやくにしてと言うべきであろうが、モノを書くと言うのは生きている人間達に向けて書くというよりも、亡くなってしまった人に向けて書くのだという感が強くなってきた。遅まきながらの自覚であろう。

知人達というのは、いつでも会える時には有難味が薄く、会えなくなってからその有難味にようやく気付くのである。つまらぬ事を書いているようだが実に大事な事で、その自覚をハッキリとキモに銘ずる為に日々を暮していると言っても良いくらいだ。

最近遅まきながらコンピューターで他人のサイトをのぞくようになった。それで気付いたのだが、このサイト群の全ては亡き人との交信みたいなモノなのだ。皆、全てそれぞれの過去を記している。つまりは死んだ事、過ぎてしまった事が記されているに過ぎない。

これは要するに、すでに霊界通信と同じではないかと気付いた。まことに、人間は電子の集合体でもあるから、その電子がパチパチと点滅するのを表現しているのが、それぞれの人間の考えたり、やってる事でもある。そう達観してしまうと、実に生きるって事も死ぬ事も大した違いはネェなと思い知るのである。

全てはメモの如くである。

こんな事をメモすると、愚か者奴がと思う又、愚か者が居るのだろうがそれも又仕方ないのである。

実にバカバカしいが、もともとバカバカしいのである、人間は。

賢い奴なんて何処にも居る筈もない。と、一瞬ホトケになった如くだが、又今夜もこれでは眠れぬかなと、眠りは死と同じなのに眠りたいのではある。実にバカバカしい。

111018

絶版書房交信40「テレビ」

何故、最近幾つかの食堂に入りびたっているかと言えば、実はそこにテレビがあるからでもある。前回述べた男女の格闘技まがいへの関心ばかりではない。

わが家にはテレビがない。それにはもう慣れた。何の不便も不満も無い。

でも、テレビのある食堂に行って、それを眺めると不思議な懐かしさが無いわけではない。

このキャスターまだこんなモノに出てるんだ。よせばいいのに。とか。

この太った男まだうまそうにメシ喰う役続けてんだ。体こわさないのか。

とか、何しろはるか遠くからテレビ内の不思議を眺めているような気分だ。

この感じを少し気取って書いたのが江戸川乱歩の最高傑作、確か、さし絵の中を旅する男だったかの小説である。絵の中に入り込んで旅をしてしまうというお話である。

作家と呼ばれる人種の大半はこんな風に現実が視えてしまっているのだろうか。

それはともかく。

テレビはレストランには置いてない。食堂にはある。

それで、それぞれの食堂のテレビの流し方には、それぞれのクセがあって面白い。

烏山の長崎屋は客が勝手にチャンネルを変えちゃうのが良い。

でも競馬中継だけは変えさせない男もいて、ほとんど賭けても駄目なのに、その必死さが面白い。

新宿南口の長野屋食堂は来ている客の多くは場外馬券の客だが、全く競馬中継を流さぬのが面白い。しかも、ここのオカミさんの話しはテレビより余程面白いのである。

新大久保駅前の近江家のオカミさんは、時々お新香をどっさりサービスしてくれるから好きだ。しかし、ここにはテレビは置いてないのである。

テレビを置いてないのは、やっぱり料理が売りだの自信なのであろうが、客がテレビを見続けてしまい席の回転率が悪くなってしまうというのもあるのだろうか?

しかし、何の工夫も面白味もない料理番組を眺めながら実に平凡極るメニューを喰べるってのも、何だか日常の奈落の時を過しているようではある。

フトした繰り返しの時間が恐ろしく視えたりする事がある。

111017

絶版書房交信39「食堂リングと化す」

夜更け、ゆきつけの食堂で何だろうこの人達はと想わせるようなご婦人達に会った。

もう疲れて店を閉めようかと、静かに話してる店の老夫妻のところに、ガーッと戸を開けたてて入ってきた。全部大盛りで3、4品頼んだ。二人連れの同じ職場の同僚らしい。注文の声もデッカイ。話しもヒソヒソ話しではなく、大声である。今風の男性よりも余程声にも姿形にもエネルギーがある。

何者だろうかと興味が湧いたが尋ねるわけにもいかぬ。

次の日も又、同一の人間ではないが、少し年を取ったやはり堂々たる婦人お二人に又お目にかかった。ガーッとやっぱり大食してドーッとつむじ風のように出ていった。

眼を丸くしているわたしを視て、食堂のオバンが言った。

「昨日のお二人の先輩たちだよ」

「ヘェ、で、何者なの」

「S病院の看護婦さんだよ」

ウームとうなった。

「ヒョロヒョロしてたら看護婦はやってられないよ。時には人を背負って走らなきゃならないんだから」

眼からウロコがポトリと落ちた。

ああいう女性方が居るんだ。

「頼もしいな。ああいうのを嫁にしたらいいんだよO君は」

O君はバツいちで、この頃何かと求む女性でウロウロしている男だ。

「ダメだよOさんじゃ。あの人達ウチの息子狙ってんだから」

「ダアーッ」

と2度ビックリ。

食堂の老夫婦には息子が二人いて、このところやたらに一人の若い方のが店を手伝っているのが眼についていた。

子供が二人いるらしいのだが、でもどうやら奥さんとうまくゆかず、別れて、二階でオジンと同居しているらしいのを、つい先だって知った。

こっちの事情も興味津々なのだが、一気に食堂風景は一変した。

ラーメン屋はプロレスのリングに急転した。

挑みかかるビューティーペアーならぬ獰猛な熊と逃げ廻るヤサ男の対決になったのである。

それで同僚の看護婦の方々もヤサ男を観察しにきているのだ。どうりで眼つきがシゲシゲとしている。マザマザとも言える。これは当分、このリングの中の様相は見逃せないのである。

しかし、白衣の天使の世界も内実はモーモーたる噴煙だな。

鼻から煙を吹いてるよ。頼もしいね。凄い。

111014

絶版書房 38 「アニミズム紀行5に入れたドローイング」

昨日描いた6点のドローイングの墨の匂いと筆の感触を思い出している。思い返せば描いたドローイングの総数は膨大な数になるがアニミズム紀行4迄は全て手許にはすでに無い。皆誰かの手に渡った。


アニミズム紀行1で描いたドローイングははからずもキルティプールの丘の姿であった。南にブッディストのストゥーパが5つきちんと曼荼羅状に配置された丘。北に5重の塔を持つシヴァ神殿の丘。そのシヴァ神殿の北の陽当たりの良い草むらと僧院の廃墟がアニミズム紀行5の舞台であった。アニミズム紀行1からアニミズム紀行5迄ドローイングも旅をしたわけである。

全て無意識にやった事である。しかし無為空心の中で行う事には深い意識が潜んでいるものである。

昨日のドローイング6点、しかもアニミズム紀行5へのモノ、そしてプノンペンのナーリさんが10月12日にウロナム寺院にどうしても戻ると、どうやら病院を抜け出して死んだ、その身体から飛翔したであろう気持のようなものを描いた。

これはもう描けないだろう。時間の流れと現実からは姿を消した人が描かせた。

10月14日 石山修武

111012

絶版書房 37 さらばナーリさん2

覚悟はしていたから、平気だと思っていたらとんでもない。月並みだが深い哀しみのようなモノが襲ってきて、とてもじゃないが眠れないのであった。

ナーリさんが亡くなった。母が亡くなった時はその最期につきそい、死を目の当たりにすることができた。親不孝者ではあるが、それだけは良かった。ナーリさんの別れは遠過ぎて、カンボジアまで駆けつけるわけにもいかず、すでに今夏に一足お先の別れはすましてきたような気持もあり、浅草にいる兄弟から知らせが入った友人からの知らせも、何だか他人事のようでうわの空の出来事であるようだった。

その後、しばらくして哀しみのようなモノが襲来したのだ。

虚脱感であろう。大きなモノを失ったのを実感した。

わたしのような生真面目な凡人とは似ても似つかぬ、本物のフーテンであった。本人もフーテンを自覚していたが自身を旅人(たびにん)さんと呼んでいた。

いい言葉だな、旅人さんてのは。旅びとでは甘くセンチだけれど、旅にんさんは物哀しさを自覚しているところがあって、死んでしまったから恥ずかし気もなく言うが、とても良い響きがある。

ナーリさんは何処へ行くにも身軽だった。フーテンの寅さんのトランクも持たず、風呂敷包みをひとひら風に舞わせて、ある時は小さく何かを包み、ある時は頭にハチ巻きで巻いていたり、旅の身支度はそれっ切りなのであった。荷物を全く持たぬのである。それが旅人さんの自慢でもあった。

あんな人にはもう二度と会う事はないだろう。旅人さんは60年代日本のヒッピーのはしりであった。

例えばネパールの首都カトマンドゥをヨーロッパのヒッピー達のたまり場にして、少し前までは、とてもにぎやかな原宿の竹下通りみたいなおみやげモノの通りにしたのはナーリさんの功績であった。

カトマンドゥのジュニー・シェルチャン等とそれを成した。

わたしの家には一片の紙切れがあって、それは小さな額に入れて飾ってある。ナーリさんがまだ死病になる前に、近いうちにアフガニスタンに行ってそこを最期の旅人さんとしての地にすると話し、それではそこは何処なのか地図を描けと描かせたものだ。それが形見みたいになった。

カンボジアで地雷で足をフッ飛ばされた人達に手こぎ三輪車を作るのを仕事にしていた。ウナロム寺院にあった日本語学校の1階にその工房はあった。自分の作った手こぎ三輪車をこいであいさつする足のない人間に会ったりすると、もらい泣きをしていた。涙もろい人情家であったけれど、時に凄味のある鋭い眼付をする事があり、それだけの人ではないなと察する事もあったが、尋ねなかった。

世間知らずの旅人さんと思っていると、時にハッとするような世界観を述べる事があり、それは月並みな正論、つまりは常識を超えるモノであった。日本のTV、新聞を視ない、読まないと風変わりな賢人にもなるのだと知ったりもした。

いっとき、ワールドツアーなるものを旅人さんは考えついた。車数台でキャラバン隊をつくりサポートさせて、手こぎ三輪車で世界中を廻り、地雷の生産使用禁止をうったえて歩こうというモノであった。

カナダ大使館に乗り込み、オタワ条約(対人地雷禁止)の正しさを論じたりもした。自動車会社にも乗り込み、そのツアーの車を提供しろと談判して脅迫だとていねいに追い返されたりもした。その際にはわたしの研究室のスタッフ迄伴い同席させたと後で聞き、驚いた事もあった。そんな事はザラにあったようだ。

そんなに滅多に会える人ではなかったが、会うと必ず妙な事件も起きるのであった。ホントに映画のフーテンの寅さんがそのまんま実社会に生モノとして出現してしまった風があった。突飛な行動にも必ず彼には彼なりの理屈があるのであった。

旅人さんを名乗るだけあって彼が紹介してくれるアジアのホテルは絶妙なのであった。

安くて、清潔で実に地の利も良いホテルを良く知っていた。

眠れぬままに、思い出話みたいなのを書き記しているが、書けば書く程に、痛切に思うのは、もしかしたらナーリさんの突飛さ、時代外れ振りがもしかしたら実は正しくもあり続けたのではないかの疑念がある。

我々のこの社会の常識、正義らしきの皮相振りには気がついてはいるのだが、それを大ぴらに認める事はしたくないのだろう。

ナーリさんと比べれたら自分は実に小人物であると知る。

今年の夏のプノンペンで、もう会えぬかも知れないとナーリさんをスケッチした。彼も「よして下さいよ」と言いながらも少しすましてポーズを取ったので顔は何だか仏さまみたいに描けてしまった。

これが別れになるのをやっぱり知っていたのだろう。

コンピューターのサイトに掲示した似顔絵がそれである。哀悼の気持を込めて皆さんには関係ない人物であろうが、この気持の空虚さを表示しておく。

黒枠がどうしても似合わぬ人なので、敢えて黄金色の枠で囲った。

アニミズム紀行2に聞き書きを残しておいて良かった。

又、アニミズム紀行5のキルティプールの丘の物語りにも、それらしき人物を登場させていた。

さらばナーリさん。

10月12日 石山修武

111012

絶版書房交信 36

仏師滝田栄さん入魂の地蔵菩薩を納める地蔵堂の建設に関して滝田さんと話した。

俳優滝田栄はNHK大河ドラマ、徳川家康等で良く知っていた。

仏師でもあるのは知らずにいた。

先日、その地蔵菩薩に初めてお目にかかった。

「三陸海岸被災の鎮魂は地蔵菩薩に限る」との直観があり、海辺で4ヶ月半で彫り上げたそうだ。

なんとなく、地蔵菩薩だと言うのは解るような気がする。阿弥陀仏や薬師如来そして観音菩薩ではない。

もっと我々に身近な、同じ背丈と言ったら言い過ぎなのだろうがそんな仏がいい。

となると、地蔵菩薩になるのだろうが、わたしは地蔵さんの由縁を知らぬ。李祖原は地蔵も又、インドから来たんだと言っていた。

その御堂を建立するのだから、きちんと由来位は知りたい。

日本各地にはそれこそ無数のお地蔵さんが居る。

何故あれ程の数を作り出したのか、アニミズムの最たるモノでもあろう。

10月12日石山修武

111010

絶版書房交信 35

食堂巡りのついでである。行きつけの店の定番が決まると、当然ゆきつかなくなった店も出現する。商店街から少し路地を入ったビルの2階のネパール料理もあんまり行かなくなった。ナンはうまいし、オバちゃんもネパール人らしく無愛想で良いのだが、ここは天然の無愛想なのであり、それがやっぱり行きつけの、迄辿り着かせなかった。

店内にヒマラヤ山群の写真などもあり、それなりに気をつかっているのだけれど、何かが足りない。この何か、うまく言えないがマア気配とか、感じ、になってしまうが、これが少し足りない。洗面所にバカでかい陶器の洗面台があって、少しヘアークラックが入っているのが一番良いのだが、それが店全体に、料理にも反映していないきらいがある。

あの小さな微細なクラックの価値に気付いたら良いが、仲々大変だろう。

料理は安いし、世田谷風のピリッとしていないところも好いのであるが、何時か化けるのではないかと期待している。

ちなみに、今のところ愛用している長崎屋ラーメン店の絶品の一品は「おはぎ」なのだ。春と秋のたった2日しか出ない。これは絶品である。

喰べると、原爆が投下された日の空の高さを想うことができる。

10月10日石山修武

111010

絶版書房交信 34 「体育の日」にもの申す

うちの近く、つまり近隣での知り合いを少し作りたいと考えて、烏山駅前まちづくり協議会に顔を出してみたが、これはどうも肌が合わずに今は疎遠になった。要するに協議などは何もなく、ワケのわからんコンサルが居て、ワケのわからん会議の廻し役がいて、世田谷区役所からの役人も出て、これは区役所が決定しようとする計画の追認組織に過ぎぬのがすぐに了解された。そんな既存のシステム自体に手を着けようとすれば大変なエネルギーを費やすばかりである。だから別のルートを作ろうと考えて「世田谷式生活・学校」設立となった。テーマはクリーンエネルギー、植栽都市へ、である。

それはそれとして、しぶとくやり続けたい。

では近隣の知り合いを少し増やすという本来の目的はどうか。

わたしは碁も将棋も散歩もしない。ゴルフもしないし、カヌーもしない。バードウォッチングも出来ない。だから結局、飲み喰いの径でゆくしかない。

前から近くのソバ屋宗柳のオヤジとは、何となく友人であった。早朝に店の前を通り過ぎようとすれば「チョッとお茶でも」と言われて、ビールなんかをご馳走になったりの仲だ。でも早朝からビールを飲むようになったら体が持たない。大体本人が「ビールは体に悪い」と飲まぬのだ。非常にはやっている店だが、午後遅くなるとオヤジは「チョッと買物へ」とか行って自転車で何処かへでかける。「何処行ってんだ」とオカミさんに聞いたら「ラーメン屋ですよ、あそこで息抜いてんです。私が知らぬとでも思ってんのかしら」と言う。ヘエと思って、その長崎屋へ行ってみた。常連ばかりの小店で、そこで長崎生まれの、被爆者でもあるオジンとオバンに出会った。いいところなんだが、ここの中華の油がわたしにはどうもなじめない。それで、納豆オムレツとかを喰べる事になった。でもラーメン屋で野菜喰わせろも店にはイヤ味だろうと遠慮して、それで長崎から広島に時々行った。被爆地巡礼である。

長崎屋からすぐ近くの広島お好み焼き屋とのかけ持ちとなった。

ここの青年の鉄板料理人が無愛想な奴で、何となく性が合うなと思ったからだ。

無愛想な奴に何とか口を聞かそうと涙ぐましい努力をして、遂にこれはアキラメた。そのまんまが良いのだ。

だから今のわたしの近隣コミュニティとやらはメコンデルタならぬソバ屋、ラーメン屋、お好み焼き屋のトライアングルの中にある。

まことにつまらない日常なのである。

これだけつまらぬ日常が続くとアニミズム紀行の旅は当分つづくだろうと、これだけは自信がある。

10月10日 体育の日。変な命名である。せめてひらがなで、からだの日にしてくれ。体育は精神に良くない。

10月10日石山修武

111008

絶版書房交信 33 山口先生の手紙2

山口先生の手紙
111006

絶版書房交信 32

クズの葉が枯れ始めた。覆い尽くされていた梅の樹、他の樹木の姿が次第に又現われている。

平安時代にはクズの葉裏の白い色調が尊ばれたと言うから、クズはどうやら近代化以降の貿易やらで移入してきた外来種ではなさそうだ。平安時代の京都周辺の山々の樹は今とは異なり異様な程の生命力、すなわち闇の深さを内懐にはらんでいたと想像される。

今の山の姿とは違った世界であったろう。俊乗坊重源が平重衡に焼かれた大仏殿を再建するに、巨材を求めて周防、今の山口県の山まで分け入ったのは知られている。巨樹はすでに都の周辺には無かったのである。

そんな時代からクズは山に植生し、樹々に寄生していたのである。寝殿造りの邸宅の庭に樹木にも世田谷村のクズと同様に寄生し覆いかぶさっていたのだろうか。

でも、その状態はあんまり絵図巻物には登場していない。だからクズの葉裏の灰白さが喜ばれたと言っても、どうかなとも思う

町衆や当時も居たであろう植木職人、庭師達に喜ばれたとも思えない。やっぱり殿上人の眼に触れぬ前に切っておこうの配慮はあったろう。だって梅やみかんの樹にからまれるのは誰がどう考えても良しとはしなかったからだ。

京の寝殿造りの庭にはクズの葉はそれ程多くは無かったのではないか。

それで、都にいるのにあきて、山の姿を見物に行く折々に、森をおおい尽さんばかりのクズの葉を眺め、風にそよぐ葉裏の灰白さにいささかの感興を得たに違いない。

今、世田谷村の庭の風景は枯れたクズの葉で、まるでメキシコの骸骨の踊り狂うが如きの有り様で、これはクズと呼ぶよりも完全にゴミである。

平安の殿上人がこんな光景を好む筈もない。ベトナム戦争の枯葉剤作戦を想わせるイヤーな光景に近いのだ。時代が下って、江戸の松尾の芭蕉さんだって、いくら枯れ好みと言ってもこの状態には眼をそむけるであろう。

日本独自の庭園が生み出された室町の頃の、庭を圧倒的にとり囲む山端の森の状態はいかばかりのものであったのやら、出来れば知りたいものだ。

111004

絶版書房交信 31「さらば旅人(たびにん)さん、1」

キルティプールを遠く下に望む、カトマンドゥ盆地を囲む低山の頂に近い民家群。その1棟の2階の土の床に手織りの敷物をしいて寝床にして眠ろうとしている。雨季明けの空は雲におおわれ、星も月も見え隠れしている。この空模様では明日の夜明けのヒマラヤの峰々の眺望も望みは薄い。長い夜になりそうだ。ろうそくの灯りでの読書にもあきた。眠れぬまでも横になる。

キルティプールの丘の調査に入った我々の総勢は25名程、それにこの民家の持主関係の炊事係、他が5名程の、ここはわたしたちの1週間程の生活のベースキャンプである。

先程迄炊かれていた豪勢なたき火もすっかり消えて、辺りは何の物音もない。皆も眠りについたのであろう。

突然上階の屋根裏部屋から、しゃがれ声の唄声が洩れてくる。酔っての事だろう。唄は延々と続く。軍歌のようだ。

「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の、赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下」

壊れてしまった蓄音機に廻るレコードのように、今だったらCDなんだろう、延々と唄はくり返される。

低地とは言え、ここはネパールの山地である。あんまり相応しい唄ではない。

屋根裏部屋にはプノンペンから、わたしにつきそって来てくれた友人が上った筈だ。フーテンのNの通称がある。いいよ、いいよ、大丈夫だからと言うのにわたしの身を守らねばと言い張って、ここ迄ついて来ちまった。

ずーっと繰り返される唄を何とはなしに聴いている内に、物哀しくなってくる。

唄い続けているフーテンのNさんの心情がさらけ出されているからだ。

フーテンのNさんは筋金入りのドロッパー、すなわち60年代70年代にかけての日本人初期のヒッピーであった。喰うに何困らぬ家の生まれであったが、それを捨ててフーテン言うところの旅人(たびにん)さんになった。

アジアを中心に世界中をさすらった。途中はとり敢えず全部省くが、今、只今はここでこうして酔って、行った事も無い軍隊の唄らしきを歌っている。

フーテンらしく、気障な男で、「アッシは野垂れ死にです」が決まり文句だ。

何処で何時、どう死んだって、どうって事は無いと言う訳だ。

言葉の裏に、この唄だ。40年程をまともに帰っていない日本への望郷の念止まずなのだろうと、わたしも実につまらない男で、センチメンタルの見本のような事を考えた。

次の朝、やっぱりヒマラヤの峰は見えぬ雲の下、でもキルティプールの丘の都市を眺め下ろしながらの朝食。

「昨夜は日本恋しくて、泣いていたようだね」とからかった。

「イヤー、聴かれちまいましたか、ヤッパリ、でも想っていたのは日本じゃネェーんです。アッシが野垂れ死にするのは、日本じゃあネェ。ネパールでも、カンボジアでもネェーんです。アフガンの部族社会で死にテェーんです」

今朝、プノンペンに電話したら、アト1、2週間の命ですと、それでも誰か介護してる奴がいるらしく、言っている。

残念ながらアフガンでは死ねぬようだ。

遊牧民の部族長に知り合いがいて、何度もアフガンへの潜入、移住は試みたようだが、はね返された。

旅人さんも、ドロッパーもやはりアフガニスタンの遊牧に生きる人間達にとっては絵空事であったのだろうか。

10月4日石山修武

111002

絶版書房交信 30

磯崎新が「イセ―始原のもどき」を書いた時、何処までアニミズムそのモノに接近したのか、それも非常に気になる。少くとも伊勢神宮の創建を通説よりも大分、新しいとの渡辺保忠の説(『伊勢と出雲』平凡社)には同意していた。この問題は大和王権、すなわち天皇の王権の確立の問題と同一なので重要なのだが、重要な問題であればある程にヴェールがかけられタブーとなるのも又真理である。

堀口捨巳と大岡信との三仏寺投入堂に関する論争も平安時代の熊野信仰の枠の中で論じられているけれど、修験道の始祖とされる役行者が空を飛び大峰から、はるばる出雲に近い三仏寺境内に迄何故空を飛んだのか、その神話の由縁、何故は叡慮の外である。

修験道を要するに、これは山の宗教、山に神を見るアニミズムそのものである。その始祖が空を飛ぶ神像、異能者として像を作られた由縁が解らない。空を飛ぶ、すなわち遠い距離をつなぐという事。熊野大峯と出雲の神域をつなぐ等と思い付きを記せば、梅原猛まがいと笑われるのであろうか。

南方熊楠が熊野の山で裸で、ふんどしにわらじばきの姿の写真があるが、これを眺めていると熊楠が修験道者の如くに視えるのだが、どうか。

天皇が朝鮮半島からのシャーマンの移植者の流れを汲むとするならば、日本の山の神を信仰する民は、それよりもはるかに古層の記憶の所有者であったに違いない。

伊勢神宮成立以前の日本の古代には多くの役の行者が空を飛び廻っていたのではなかろうか。

こりゃ、相当疲れているな、早く横になろう。

10月2日石山修武

111002

絶版書房交信 29

大江宏を巡るシンポジウムの為に、大江宏を調べていたらやはりと言うべきかどうかアニミズムに関する言説があった。大江は磯崎新や堀口捨巳の如くに自分の考えをキチンとした形をもって残さなかった(多くを)。

アニミズムに関しては父親の大江新太郎が日本の正統的な神社を手掛けているし、大江宏もそれを継承しているから、考えてみれば至極当然な事ではある。日本の名だたる神社の多くの様式継承者であるから、その中心のアニミズムをも深く継承、体得していたのである。

しかし、その実体=経験を書き残したとは言えぬ。

伊勢神宮内宮神楽殿を手掛けた時に、どのような事を神社庁から言われ、あるいは指示されたのか。あるいは木工職人達が木をあつかうにどんな儀式をなし、あるいは呪術、呪文の如くを施したのか。それを書き残しているのをわたしは知らぬ。わたしの不勉強であるのかも知れぬが、残念である。

あるいは書き残してはいけぬ事であったのか。

石上神宮社務所鎮魂殿は何の神を鎮魂したのであるか、等はもしかしたら重大な事であったのかも知れぬのだ。日本の古代史の究明にとって。梅原猛は石上神宮の神は出雲の神であったのではないかの説を唱えたりもしていたようだし……。

大江宏は神社建築という実体を介して日本の古代史への径への道標を得られたのではないかとも思うのである。

石上神社鎮魂殿の地鎮祭ではどんな呪文が唱えられたのか等は知りたいものである。

10月2日石山修武

110929

絶版書房交信 28

読者の御一人から、アニミズム紀行に入れたドローイングのコレが欲しいの連絡があって、とても嬉しい。時々、アニミズム紀行の本に直接書き込んでいるドローイングをまとめてデジカメに納め、サイトに掲載している。まだまだヤル気満々だぞの意気を示したいからだ。

その雑多な中からコレが欲しいの指名があった。残念ながらそのドローイングはすでに発送済みで申し訳ない事であったが、そういうアニミズム的感覚に溢れた方がいるのを知り嬉しかったのだ。

わたしのドローイングは最近アニミズムそのものである状態に突入している。考えてもみたまえ。ツーンと匂いのする墨もたっぷりに使い古して丁度手に馴染んできた筆を振り廻して、一人喜々として本に落書きならぬ、描き込みを続けているのである。何しろ描き込んで絵面から生の匂いが必ず香り立つのである。これをアニミズムと言わずして何をアニミズムと言わんやである。

使い古した筆を大事に使うのがわたし流の味噌である。新しいのではダメなのだ。筆に生命が、精霊が宿っていない。だから皆さんに送り届けるドローイングにも何かが宿らない。それでは手描きのドローイングすなわちおまじないを届ける意味が無い。

わたしのおまじないは、勿論本を手にして下さった読者の一人一人が生命の力に満ち溢れますようにという前向きなモノですから御心配無く。コンピューターの画面には精霊は宿りません。ドローイングを手に入れよ。

9月29日早朝 石山修武

110928

絶版書房交信 27 「「グリム」中里和人、写真」

世田谷村日記594にも記したが、書き足らずに中途半端な感もありもう少し論じてみたい。それだけの価値がある写真集である。

ここに記録されているのは、例えばルソーやボーシャン等のヨーロッパプリミティーフの仕事が、乱暴な話しだが野ざらしの看板に描かれて、数十年の歳月が流れる。雨や風や時には雪や氷にさらされ、更には陽光の直撃も受け、美術館の中に死物として保管されるのとは異なり、人間に稚拙ではあるけれど一生懸命な表現が時間と自然にむしばまれる。そんな結果、つまり総合的な表現そのものが、中里和人のカメラによって写し出されているのである。

ワルター・ベンヤミンの言うアウラよりも余程広大な自然、時間の侵蝕による表現に気附いた写真家の仕事である。

わたしには中里和人を世に知らしめた『小屋の肖像』よりも余程ラディカルな仕事だと思われる。

ここに表現されているのは歴然としたアニマ=生霊であり、その集合としてのアニミズムそのもの、しかも近代という時間が生み出しているアニミズムであろう。夜旅などの、以前の仕事の中途半端でセンチメンタルな文学性はここでは跡形もなく、ぬぐい去られている。一切の感傷が除去されてアニマそのものが写し取られているのである。

それ故に人間の生の核、その意味、時間そのものが写し出されている。大変に恐い写真なのである。我々の誰もが刻一刻と生を積み重ねつつ同時に死に向かっている現実の断面が写し出されているからだ。

どの頁にも、再び言うが霊気が溢れている。ページをくる毎に我々は幽冥界へ降下してゆく。写真がそれをなさしめるのである。中里和人は新境地を拓いたのだ。

同時に、ここ迄表現してしまったら、次は何処へ行くのかといささかどころではない心配さえも湧き出るのである。

ポーの大渦巻の少年向けの本のさし絵を見た時の恐ろしさや、アッシャー家の崩壊の恐ろしさに似た恐さが実に写真で、たかが写真されど写真で表現されてしまっているのである。

25、観光案内、沖縄、備瀬の写真の恐ろしさはどうだ。

水牛車福木号と描き込まれた、恐らくは牛に引かせる小さな四輪者はまるで霊柩車ではないか。青白く変色した人間の霊達が乗り合わせている。こんなに恐い写真は見た事がない。

中里和人は今の、現代の恐怖を写したのである。

9月26日夜 石山修武

110927

絶版書房交信 26 山口先生の手紙

山口先生の手紙
110924

絶版書房交信 25 「再び山岳について」

山岳に対する考え方がひっくり返ってしまったのは、やっぱりヒマラヤ体験があったからだ。当り前の事ではあったが、何しろでっかい、そして高い。日本の山岳の全ての大きさ高さとは次元が違うのであった。

3000メーターそこそこと、8000メーターは数字的にはたかだか5000メーターの違いでしかない。北アルプス(日本の)に5000メーターを積み上げればヒマラヤではないかの考えもあるだろう。でも違う、どこかに歴然とした大きな境界線があり、北アルプスとヒマラヤとを別種の世界のモノとしている。その中間にヨーロッパアルプスや南米のアンデス山脈そしてアラスカのマッキンレーがあり、かろうじて北米のロッキー山脈もあるだろう。

わたしはヒマラヤの山頂には遂に立てなかった。でも6000メーター級の峠は何度も越えた。何年か前には車で越えた。夢の又夢でもある聖山カイラーサにだって車で行けるぞと、中国人実業家に言われて呆然ともした。五体投地で周囲を何ヶ月もかけて巡礼しているカイラーサへ、ハイウェイが建設されていると言う。何故反対運動が起きないのだろうか。

ブッディストもヒンドゥー教徒も何故反対の表明をしないのか。宗教の起源は反近代と連絡せざるを得ないことは歴然とし始めている。9.11を一つの境界線にしてその構図は明快になった。

スポーツ登山の発祥の地はヨーロッパアルプスである。中位の山岳に過ぎぬヨーロッパアルプスの名だたる山々はそれでも素人が登るのは困難である。アルピニストというスポーツ登山家らしきを必要とする。

日本の山々の頂上は全てスポーツ登山家ならぬ修験者、山伏たち、あるいはマタギの連中が踏破していた。スポーツ登山家は必要としなかった。

ここにそれぞれの地域、端的に言えばヨーロッパと日本の山岳に対する観念の相違が発生する。ひいては「美」「超越」そして「神」に対する感覚の違いも又発生しているのではないか。

- つづく-

9月24日 石山修武

110923

絶版書房交信 24

気仙沼でも、唐桑でも聞いた事だし、一ノ関のベイシーでも聞いた。

三陸海岸の被災地のまち、村を一人の台湾の僧侶が歩いて廻っているようだ。そして、まちまちに半端じゃない支援金を置いて去ると言う。人々への噂になる位だから、余程の感銘を被災地の人々に与えているに違いない。

李祖原と唐桑に行ったら、唐桑臨海劇場の古いカツオブシ工場をそっくり貸してくれた大船主の亀谷さんも仕切りにそれを話した。

そして李さんに「台湾の人ですか、まことに有難い事です。御苦労様です」とあいさつしてくれた。

この台湾の僧侶に是非会いたいものだ。

一遍上人の生れ代りではないか。あるいはまさに李祖原と共に実現したいと考えている、海のかなたからくる神の顕現かも知れぬ。貧しい遊行僧ではないのが現代的である。何しろ大金を支援金として喜捨して、そして去るらしい。大金持ちなんだな。台湾の仏教会は。そこのところが素晴しい。考えてもみたまえ。寺や神社にわたし達が喜捨するのではなくって、寺や神社が人々に、社会に喜捨して廻っているのだ。これ程、反資本主義的行動は他に聞いた事もない。

全く、今こそうち出の小づちをふるう、そして黄金をザクザクと生み出してくれる福の神の出現が必要なんだぞ、と言いたい。皆さん、もっと絵葉書を買って下さい、チリもつもればザクザクの山となるのです。

台湾の聖人一人が神話になるのは寂しいと思いませんか。

皆さんも絵葉書同朋衆として後を追いましょう。

9月23日 石山修武

110920

絶版書房交信 23

絶版書房交信19が我ながら中途半端で気になっていたので、今更交信19を書き直すのも面倒で、そんな事したら交信の良さも消えるだろうとの言い訳をしながら、交信23で加筆する事にした。

19の続きとして読んで下されば幸いだ。

又、『アニミズム紀行5』の絶版がようやく視界に入ってきたのでまだ入手されていない人はそろそろ腰を上げて買ったらいいと言い置く。


田部重治によれば、日本の山は秩父に始まり、秩父に終ると言う。秩父の名峰は和名倉山であろう。わたしは単独行で和名倉沢に入り込み、途中で引き上げてきた記憶だけが残る。秩父は谷が良いのだ。さて、富士山よりはMt.アトスがはるかに格上であると言い捨てたのに戻る。

わたしの大嫌いな太宰治、彼の墓は三鷹市の禅林寺の墓地にある。三鷹市の上連雀の玉川上水で、坂口安吾が言うには、たしか情死考だったか、すたこらさっちゃんという呑み屋の女性と入水自殺した。三鷹の上、下の連雀町は江戸時代振袖火事と呼ばれた八百屋お七の伝を生む火事により、神田の連雀衆が移住してきて、この名が付けられた。どうやら女は鬼門の地域である。あの粘性が嫌いなのと、しょせんはただのナルシストであったような気がする太宰はそれでも時に名文句を残した。捨て科白はナルシストの特技でもある。

「富士山には月見草が良く似合う」もそのひとつである。

たしかにそうなんだよねと、ガキの頃はしきりに感心したものだ。

今はどうして感心したのかいぶかしむだけだ。

ただ月見草はひょろりと背が高く、そしてそれ故に風が吹くとヒョロヒョロと良く揺れる。だから背景に揺れぬ、鈍感さを持つ何かが無いとバランスがとれないのだ。それには富士山みたいな形が一番であろう。

キリマンジャロになったら、やっぱりヘミングウェイが言うように豹でなければならぬし、南米のアコンカグアであればコンドルだ。

マッターホルンなら有名な幻の十字架。聖山カイラーサならば五体投地する人間と相場が決まっている。

で富士山はやっぱり月見草くらいが丁度いいのである。

実に寂しい限りである。

9月20日 石山修武

110919

絶版書房交信 22

昨年「ドリトル先生動物倶楽部」を立ち上げた。でも、今年の3月11日の東日本大震災、津波により恥ずかしながらそれは頭の中からほぼ消えてしまった。

ところが、本日2011年9月19日、被災地唐桑のための家のスケッチをしながら、突然その計画を思い出した。

人間の頭は実に我ながら不可解な動きをする。被災地のための半仮設住宅の如きを考え、絵にしている作業の中から、オヤ、これ、すなわちこの考えは様々に広く展開できるなのアイデア(思い付き)が生まれたのである。

でも、この思い付きはほぼ1年の時間=歴史があって生まれた思い付きである。もしかしたら少しはマシな思い付きであるかも知れぬ。

そう考えて見直すと、勝手ながら様々な流用、転用が可能なモノ(アイデア)であるような気もする。

考えを要約するに、モビリティーと伝統的なと考えたい、納屋、倉庫状の小屋を組み合わせただけのものである。

言葉で説明しても解りにくいだろうから、これは絵を出した方が良かろう。と言う訳でトップページの唐桑の家のヴィジュアルと共にプレゼンテーションすることにする。

この形式はかなり大きなフレキシビリティーを持つだろうと考えている。つまり、この家は「ドリトル先生動物倶楽部」の動物病院としても使えそうなのだ。

9月19日 石山修武

110916

絶版書房交信 21 「東北山岳伽藍都市構想」

絵葉書プロジェクト3弾、4弾に登場した東北山岳伽藍都市、東北山岳都市のドローイングはアニミズム紀行にとっても大事なものであった。この絵葉書は二葉ともすでに絶版で入手は不可能であるがコンピュータサイト上で検索は可能である。留意されたい。

山深い温泉地の良いところは大地の処々から湯気がモクモクと噴き上げられているのが眼に視える事だ。地球内のマグマが持つ熱エネルギーを実感できる。ついでに湯に入れば身体全体で地球と一体化できるのがとても良い。健康にも良いのだから知覚感覚視覚の一石三鳥でもある。

東北の最北端下北半島の恐山には度々出掛けた。いたこ、すなわち死者を呼び寄せるシャーマンの存在で良く知られる。しかし訪ねてみればシャーマン達も又、この特異な場所の力に呼び寄せられているのである。大地から噴き出る湯気、ガス。それによって草木の一切は姿を消し、鉱物質の砂漠状の風景が出現している。

砂漠の黒いマリアの如くのシャーマンがいて死者を呼ぶ。この光景はあらゆる宗教的営為の原基なのではなかろうか。己れの渇望を祈りの形にするのではない、死者という最大の他者との交信を心から、深奥から演技する形がここにはある。

東北山岳都市のサイトである秋の宮にはシャーマンは今はいない。しかしここには小野小町伝説がある。小野小町は一説によると、山中の洞穴に暮したと言う。美人伝説の俗見に包まれてはいるが、小野小町はシャーマンであったのではなかろうか。

それらをもとにして山岳都市、山岳伽藍都市は構想される。身体の、そして精神の医療、両生集落である。

9月16日 石山修武

110916

絶版書房交信 20 「秋の宮温泉郷 山岳都市計画ベースキャンプ」

アニムズム紀行6に登場した東北山岳都市計画のためのベースキャンプである。

大きく、そして長期にわたるであろう計画にはどうしてもベースキャンプの機能が必要になる。すでにその一部を紀行中に御紹介した福島県猪苗代湖畔の鬼沼計画に於いても前進基地は実現されたのだが、この度の計画は東日本大震災との関係もあり、より大がかりな計画になる。

秋田県秋の宮温泉郷は山深い秘湯である。縁があって訪ねている。

秋田県山形県は岩手、宮城、福島等の東日本大震災の被害を受けた地域に隣接している。これから先、いい加減な事は言えぬが被害の大きかった地域では幾たりもの人々が太平洋岸の諸地域からの移動を余儀なくされるのではないかと考えられる。

その際にはこの秋の宮は重要なポイントになるだろう。中継点として、仮設の集落の如くが必要になるだろうが、それには最適な土地柄がある。又、災害からの復興には長い時間、年月を要するのは確実で、その現場の労働に従事する方々の慰労所、保養所も必須なモノになる。

謂わば労働のための短期保養所である。良質で大量の温泉が在る。その温泉を中心とした仮設的な集落を考えている。

9月16日 石山修武

110915

絶版書房交信 19 「Mt.アトス」

18で書いた事の続きだ。

ギリシャのアトス山近くの僧院で眺めた星空は凄絶であった。夜空全面が白い波の如くに光っていた。

でもそれはわたしがここはギリシャであり、Mt.アトス、すなわち神話世界の中心であるオリンポス山に間近であるという観念を持っていたからだろうと今では考えている。観念とは奇形の想像力の到達点でもあろうが、それが美というモノを時に捏造するのではないか。

Mt.アトスはしかし富士山よりは品格らしきがあった。

星の光の個別性に関して何言う能力も無いが、山に関しては少し言えるような気もする。

9月15日 石山修武

110915

絶版書房交信 18 「月を待つ」

昔はどうであったか定かではないが、今は夜空を見上げるなんて事はほとんどした事が無い。星や月を眺めてどうなのか、何か役に立つ事があるのかと考えれば、それは歴然として全く役に立たぬ。哲学と同じようなものだ。

星や月を眺めて健康増進になる事はないし、狼男やドラキュラじゃあるまいし精力がつくわけでもない。

しかしである、この三日程、うちの月下美人が不思議な咲き方をして、それでわたしはその出来事と月の満ち欠けの問題とは無関係ではないと知ったのである。本当かねと問われれば本当でもあり、そんなことはないとも言えるのだ。人それぞれの価値観に通じる。

美というモノもそうなのだろう。人それぞれに美しいと想うモノは異なるし、そんな事を感じぬ人間も多いだろう。

月下美人と月の満ち欠けの関係を想う事は、とどのつまりは人間は皆全くちがう生き方をせざるを得ぬという厳然たる現実を知る事につながってしまう。哲学もそうなのだ。普遍という観念はいつでっちあげられたのだろうか。

今夜は月下美人は一輪も咲いていない。咲いた残りかすだけが20も風にゆれている。

そして月は歪んだ形で中天にかかろうとしている。

実につまらない時間がここにはある。

ドキドキもしないし、何の高揚も無い。飛躍もしようが無いのである。「近代」というのは個々の人間の外に広がる世界であるが、マ、これは確かに普遍らしきであろうか。しかし個々の人間とは切り離されていよう。

9月15日 石山修武

110915

絶版書房交信 17 「アンモナイト」

何年か前である。わたしはそれこそ夢中で銅版画に取り組んでいた。銅板をカリカリと刻み込む作業は根がいったが好きだった。でもこれにのめり込むと危険だなの理性が働いて、銅版画家になる事はなかった。

刻み込んでいた銅板にはそれこそ多くのアンモナイトが出現するのに自分でも驚いた。アンモナイトのコレクターでもないし、アンモナイトの不完全な螺旋の形に魅せられていたわけでもない。

ただ随分昔にヒマラヤの奥地で巨大なアンモナイトの化石群に出遇った衝撃がこうさせているのは自覚していた。

9月21日付の日経新聞夕刊プロムナード「三陸海岸唐桑の友へ」にその間の事は書き記している。

何故アンモナイトと唐桑の友人達が結びついてしまうのかはそれを読んでいただくと解るだろう。

いよいよ我々のウェブサイトは新境地に入り込みつつある。ほとんど錯乱しているのかも知れぬがいくつかの情報・メディアのアッセンブルによって手に触れる事ができぬ建築状のモノをつくり出そうとしている。

9月15日 石山修武

110915

絶版書房交信 16 「アニミズム紀行7の解説のインデックスとして」

本能的に関係づけたいと考えていたのだろう。わたしが頭脳で考えるらしき意識は、いつも身体を裏切る。

もう少しわかりやすく言えば、書こうとする頭は常に記す指先つまり身体に裏切られる。逆のようで逆ではない。

でも、もうあんまり無駄な事はできない。それ程才質にゆとりがあるわけではない。

アニミズム紀行7は原稿用紙50枚弱で停止させている。

まだ、紀行5、6が売れ残っているので、このまま突き進めば在庫が増える一方だ。

だから、紀行5の残部を公開できるようになったら紀行7は前に進める。

紀行6は、実は大変な自信作なのでいずれ必ず売れるので心配はしていない。

で、この通信にナンバーを振ったところから、つまり今日のコレが16なのだが、それからアニミズム紀行7と重層させてゆくつもりだ。

つまり、本文の注釈になるのか、あるいはそれらしきに使い込んでゆく予定にしている。

この16便はその意味ではアニミズム紀行7の解説に「構成」の項を設けて使うことになるのであろう。

9月15日 石山修武

110915

絶版書房交信 15 「感触」

わたしの祖父の小田寿太が亡くなって、岡山の吉井川沿いの集落、佐伯の墓山に土葬されたのは鮮烈に覚えている。

円筒状の棺桶での屈葬であった。一番可愛がられていたんだからと、最期のお別れに額に手を触れた。冷たくはない、何だかフニャリとした手応えであった、手の指の感触はまだ指先に残っている。

祖父母の家から墓山まで棺桶はしんばり棒に吊されてカゴのようにかつがれて送られた。

これは古墳に違いない墓山のふもと近くで、おじのこれも又亡くなった道太が参列者にあいさつを述べてそこからは葬列は身内だけになった。

道太おじはわたしに似てホラを吹く人であった。でもその演説は子供心に立派なものであった、とほのかに憶えている。

墓山を登り、すでに大きな穴が掘られていたその中へ樽棺は降ろされた。まさに地中深くへ戻ってゆく感じがした。

それからしばらくして土葬が禁じられた。

皆火葬場で焼却され灰となるようになった。小田寿太の葬送と土中への掘削埋葬が、わたしにとっての鮮烈な死者との別れである。祖父は又何か虫のようなモノかな、に生れ変っているような気がする。

9月15日 石山修武

110915

絶版書房交信 14

昨夜はうちの月下美人は3つ花を咲かせた。

太陰暦で言えば14夜15夜16夜の3日間にそれぞれ6、11、3、総計20の花を咲かせたのである。

昔、蒸気機関車を小さなハンマーでたたきながら点検していた乗務員の如くに、月下美人の樹を点検して。上の方は眼が届かなかった処もあるが、花の芽はもう無いようだ。月下美人の花は奇妙な形をした細長い葉の縁から、それこそ唐突に出現する。先端は注意深く避けられている。何故こんな変な花のつけ方をするのかは知らぬ。植物学者は知るのだろうか。

勝手な推測をすれば、夜行性の虫や鳥になるべく目立たぬようなDNAの配慮があるのか。

例えば、南国育ちの蘭や、ハイビスカス等は虫やらの眼にわかりやすい様な花のつけ方をする。葉からこっそり花の茎をさし出すようなことはしない。

月下美人がそんな事をしたら夜の世界の虫や夜行性の鳥にたちまち精を吸いとられてしまうだろう。だから目立たぬように葉の変形の如くを振る舞っているのだ。美人の辛さだろう。

こういうデザインは面白いと思った。

9月15日 石山修武

110914

絶版書房交信 13

先程伝えた三陸海岸唐桑の友人の家、あるいは集会所のプロジェクトですが、アメリカの超ローコストバージョンのモービルホームと、唐桑地域伝統の木工技術の一部がアッセンブルされているモノの絵ができたら、それをアニミズム紀行7の表紙としたい。

アニミズム紀行7の表紙は三陸海岸気仙沼の安波山計画と唐桑ハウスの組み合わせとする。その表紙のデザインから入るのもひとつの方法であろう。

アニミズム紀行7の表紙のレイアウト、及び原イメージづくりのスケッチのスタディを始めたい。それを絶版書房交信の扉とするように大枠を決める。

この部分を唐桑の友人達が毎日楽しみにのぞけるようにデザインするように。

勿論、シュツットガルトのBoshに送付可能なような配慮が最低限必要です。

9月14日 石山修武

110914

絶版書房交信 12

絵葉書プロジェクトの最新のモノ、第13弾、第14弾の12点は全てわたしの手描きのドローイングである。

筆とクレパス、一部に色鉛筆で描いた。

わたしの筆圧は強い。すなわち軽妙で細心なディテールの妙が出せない。それにそれ専門のトレーニングを受けていないから規矩と覚しきを知らない。

筆は、金子兜太さんがふすま大の和紙に自作の句とチョッとした絵を描き込むのを観察して、これは使う筆が少し古めで、使い古され、新品の体を成していないところが命だなと勝手に思い知った事がある。

金子兜太さんの俳句はとうてい及びがたいが(わたしは句会妙見会の会員でもある)、この俳画くらいは何とかなるなと思ったのである。

クレパスはさくらの24色。クレパスのわたしなりのコツはこってりと塗り込む事。軽いタッチなどは法外である。

ルオーの厚塗り程のエネルギーでメタメタに塗り込むとどんなモノでも何とか見られるものになる。

それに絵葉書にしたドローイングは研究室の皆が一度コンピューターで濾している。それでわたしの手の、そして気持の荒さ、稚拙さが濾されているのである。

先日、世田谷の三軒茶屋で「世田谷式生活・学校」のレクチャーをした。

会場に行ったらキレイなパネルが立てかけられていた。

これは誰が描いたんだろうと一瞬いぶかしんだ。考えてみたら描いたのはわたしだった。

わたしの描いた原画がコンピューターで濾されて程々に平板に、つまり美しくなっていたのである。

でも、キレイと生命力との距離は遠い。

9月14日 石山修武

110913

絶版書房交信 11

昨夜十五夜の月。月下美人は6輪の花を咲かせた。今宵十六夜の月。9輪程が今か今かと花を開かせるのを待つ。この樹の精が数学への偏心を持つならば、月が中天に高く昇り始める頃、恐らくは21時頃に7輪か9輪の花を咲かせるであろう。

偶数の花ではあり得ない。又、グリニッジ時間以外ではあり得ない。何故ならばJ・L・ボルヘスの日常の時間は近代西欧の時間によって刻まれていた。例え、月下美人が南の国の出生の起源を持ち、古代ヒンドゥー時間をその樹内に記憶し続けていたとしても。

「おのれの理を誇るのを避けるために、相手の詭弁をしりぞけようとしない論客がアル・ムターシムの友であることが予感される、第19章の論争である」『アル・ムターシムを求めて』 J・L・ボルヘス

この短文はボルヘスの記述の中の数学への、そして幾何学へのアニミズムを指摘しようとしているが、はるかに遠い

9月13日 石山修武

110912

絶版書房交信 10

パキスタンのカラチから夜行列車で10時間程だったか、モヘンジョダロの駅に着いた。駅員は誰も居なかった。大体ここがモヘンジョダロの駅なのかさえ定かではなかった。列車に同乗していた人々が、多分そうであろう、ノープロブレムであると言ったから降りてしまった。勿論、車内放送もあるわけが無い。30数年昔の事だがきっと今もそうにちがいない。

駅の待合室は、これは立派なものであった。英国式の木製家具が備えてあり藤の編床のベッド迄沢山備えられていた。

プラットフォームに出ると、それこそ満天の星が音のする程に輝いている。

そして遠くの地平線に稲光り。雷鳴の如くの音が巨大な闇の空間に響き渡る。凄まじい響きであった。

イヤ、しかし雷鳴にしてはおかしい。妙に音の響きにうねりの如くが延々と続いてある。——————なんだコレワ。

大音響の細部を聴きわけられるようになって、

もしや、これはカエルの大合唱ではないかと気付いた。カエルの合唱が雷鳴の如くにモヘンジョダロの駅に響いていた。

夜が明けて辺りの光景が視えてくる。

見渡す限りの水田であった。人の影も無い。絶対の田野である。何処にも遺跡らしきも見えない。何時間かして、ようやく牛車と農夫が一人通りかかって、その牛車にゆられて遺跡に辿り着いた。

9月12日 石山修武

110911

絶版書房交信 09

9.11、日経朝刊「文化」欄に詩人の長田弘が「夜と空と雲と蛙」を寄せている。日記にも記してダブるがこれは小品だが名作である。

福島生まれの幸田露伴、高村光太郎、山村暮鳥、草野心平、今は天上界、地下界のいづれかに居るだろう詩人たちとの、まさに交信である。

死者と生者との交信がこんな形であり得る事自体が現代の創作とアニミズムとの必然的な交信を暗示している如くである。

草野心平は蛙の言葉の翻訳者であるの自負と充足を持ち続けたと長田弘は記している。

長田弘は死者とのアニミズムの中で交信し、それが現代でも極上の表現になっているのが実に心強い。率直に記せば、時にこれは行き倒れに終るかなと、わたしのアニミズム紀行の一人旅の行末を案じないと言えば嘘になるが、わたしが最もうとんじてきた日本現代の詩人の仕事に共感するものを得られた事は力になる。

9月11日 石山修武

110909

絶版書房交信 08

通信が1日休みとなった。でも書けなかったので仕方ない。書けない時には書けないものだ。

うちには今、実は熊がいる。これは嘘ではない。

でも緘口令が敷かれているので書けない。書きたくても書けない事がある。

うちの廻りの路上からも上空からもすっかり鳥が姿を消してしまった。鳥や虫そして生物には驚く程の予知能力があると言うから、これは不気味である。

伊豆西海岸松崎町の森秀己さんに電話して最近の松崎町の鳥や虫の動向を尋ねてみたい。

電話したら不在であった。不在が一番の心配の種である。

110907

絶版書房交信 07 「宝船」

宝船紙袋を考えてもらっている。

気仙沼安婆山鎮魂の森計画があるので桜色と藤色は外せないだろう。安婆山には桜の樹と藤の花の樹を植えたいと考えているからだ。

たかが紙袋、されど紙袋である。ヴィジュアルにキレイだけでは人の心を打たない。色にだって物語りがあるのだ。紫式部は紫であって紅であってはならぬ。紅式部なんて読みたくも無い。やっぱり紅は紅はこべ、これも紫はこべではいけない。

桜色、藤色を軸に他の色を考えたら良い。いきなり松竹梅ではどうにもならぬが、ほっとけばそのあたりに落ち着いてしまう。

七福神があるからも7色は考えやすいが、これは多過ぎる。

3では少な過ぎる。4は縁起が悪い。

又、高額な商品の袋の色と、1500円くらいのお手頃な値段の色も考えなくてはならない。

宝船のシンボルマークは今トップページに出しているやつではない無い方が良い。新しく描けとは言われても、もう描けない。

あの日の2時間くらいが、あんな遊びをする気持だった。

ノルマになったら、デザインになってしまう。

昔、OGの柴原さんだったかな、袋ではなくって「結び」で良い修士論文を書いたのを記憶している。

石山修武

110905 深夜

絶版書房交信 06 「クレヨンしんちゃん」

世田谷村の近くの商店街に、持ち帰り自由の広告物として置かれていたうちわ。これが仲々すぐれたデザインなのであり、当然持ち帰った。クレヨンしんちゃんの顔が大写しのうちわである。

これは最近見たものの中では飛び切りに良いデザインである。しんちゃんの顔の輪郭、目鼻口耳らしきのフォルムの組み合わせが、何かフワリとした空気の動きみたいなのを上手に表現している。輪郭のハッキリしたフォルムなのだが、全体としてブカブカフワリの動きがある。家に持ち帰って早速壁に飾った。

隣りには岡本太郎展のポスターが貼ってあるのだが、例の眼をギョロリとむいた太郎の顔が本当に古めかしく視えてしまうのだ。

クレヨンしんちゃんの目玉はクルリと描いた丸の内は空虚である。太郎さんの目玉は目の中に実体としての目玉、つまり瞳がある。それが妙に時代を、つまり古めかしさを感じさせるのかも知れない。

今日描いた建築のスケッチはクレヨンしんちゃんのうちわに影響されているようである。全く、人間の内底にあるのかも知れぬ創作欲なんてものは、クレヨンしんちゃんのうちわにそこそこ気持をふるわせる類のモノなのだ。

記憶に誤りが無ければ、クレヨンしんちゃんの作者は赤城山だったかの絶壁から落下して亡くなったのではないか。

クレヨンしんちゃんの目の丸の空虚はそんな作者の運命を表わしているようで、とてもヨイのだが実は恐ろしい悲哀を表わしているようにも思う。赤塚不二夫の数々の造形とは別種のモノである。

石山修武

110904

絶版書房交信 05

『梅原猛の授業 仏教』の解説、鎌田東二を読んでいる。

J・L・ボルヘスを読む度に自分自身の非才を痛覚し、こんなモノを書く人がいるのにドン臭い駄文としか言い様のない例えばこんなモノを書いている自分が情けなくなる。

ボルヘスは凄過ぎて読む人の非力を悟らせるばかりである。その点、梅原猛の神懸かり的言説は何者かが乗り移っているようで、非力な人間にも何かが乗り移る可能性がある事を示していて、へきえきとはするが絶望はしない。ボルヘス宇宙は虚無の涯だが、この鎌田東二の文は三丁目の横町宇宙みたいな風があってホッとする。

文中、イスラム神秘主義研究家の井筒俊彦氏をチョコッと登場させて梅原猛の少しばかり単純な東洋思想対西洋(キリスト教、イスラム教)思想を批判しているところがこの解説の味噌であろう。

石山修武

110903 深夜

絶版書房交信 04

前便で記したグレアム・グリーンがJ・L・ボルヘスに会う為にブエノスアイレス迄の長旅をしたという件だが、どうやらわたしの記憶違いであるらしい。調べてみるとどうやら誤りのような気がする。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは1899年生まれである。

グレアム・グリーンは1904年生まれであるから、そういう旅がなされても決して不思議ではない。

でも、「ボルヘスは旅に価する」と言ったのは1933年にブエノスアイレスを訪ねて、パリに戻ったドリュ・ラ・ロシエルの言のようだ。

何故こんな誤りを犯したのだろうと思うに、文学の世界にうといからであろう。

何か変だなあと考えてもいたのは『第三の男』の作者グレアム・グリーンと『伝奇集』のボルヘスとは余りにも文学の領土がかけ離れているではないかといぶかしんだからだ。でも、どうして頭の中で回線が混乱したのかの方がもっと不思議で面白いのではないかとも考えるのだ。

この誤りはグレアム・グリーンの側に因があるのではない。やはりボルヘスの側にある。

ボルヘスを読んでの印象は、この神秘としか呼びようのない博識、作家の作家と言われる迄の、文体の内の図書館性とでも呼ぶべきモノ。それはわたしのような者にも感知し得る。そして、これは敵わないとも思い知る。神の恵みを得た人間が世界には居るのだと知るのである。

要するに作家の作家であるのだからボルヘスはグレアム・グリーンは包含し得る。随分楽にしてしまうのだろう。

でも、わたしの犯した誤記憶はボルヘス流に言えば夢の夢であった。どんな誤り、誤イメージ、誤記憶にはそれを幻想、夢として考えるならば、又さらなる根拠があるのではないかとも思える。

ボルヘスは事実のメカニズムには関心が無いと表明している。

かくなる創作者はやはりマナを背負っている。その力がとりついているとしか思えぬのである。

アニミズムの原点、究極でもあろうマナリズムを要するに、これは創作の詩の中の詩の原泉であろうと、再び誤りを犯そうとする。

今日は疲れた、もう休もう。

石山修武

110903

絶版書房交信 03

グレアム・グリーンだったと思うが、南米にJ・L・ボルヘスを訪ねる旅をした。

すでにボルヘスはブエノスアイレス国立図書館長であったが盲目になっていた。

二人は会い、静かにしかし猛烈に話し合ったと言う。共に深く、死の世界あるいは死生の狭間の空間を標榜していたからだろう。

グレアム・グリーンは長編小説および短編に於いて。ボルヘスは詩及び散文的詩編に於いて。

どのような話しがなされたのか知る由も無い。

英国に帰ったグリーンはただ「ボルヘスは旅に価する」という言を残した。

本来の旅はやはり人を訪ねるモノなのだろう。

アニミズム紀行5で少し描いた屋根職人はマナの人間としての顕現でもある。

本来、職人と深く敬愛の念を持って呼ばれる人種はそんな特別な能力、才質の持主なのである。

石山修武

110902

絶版書房交信 02

アニミズム紀行5の舞台になったのはキルティプールの丘である。

今年の夏の暑さには流石に参った。極く自然に年を取って行動半径が小さく縮んできている。それはそれで仕方が無い。ブンブン音がする程に走り廻っていたのも夢のようだが、後には砂ぼこりも残っていない。大半の体験は跡形もなく消える。

紀行には登場しなかったがキルティプールの丘の北端にキルティプール地方局事務所がある。もう昔の事だが、この事務所で我々20数名はキルティプールの丘調査の許可証を個々に受領した。これを身につけていないと仲々調査は難しい。

恐らく今は毛沢東主義者達がカトマンドゥ盆地の実権を握っているようだから、この丘は厳しく情報管理されているにちがいない。

丘のふもとにはトリブヴァン大学があり、この丘は度々学生達を中心とした反体制運動の拠点になってきた伝統がある。

紀行5に登場するクリシュナ老人の背景にはそんな、この丘の地政学を持たせようとしたのだけれど、力不足で書き切れていない。

中村保さんという写真家がいて、ネパールには、くわしかった。

何処かの出版社からネパール集落を航空写真でとったものをまとめて本にした。あれがライフワークになった。

中村保さんはゴルフ場で何やかや金もうけの話をチョコチョコまとめるようなタイプの人で、どうしてこの人がネパールにとりつかれたのか全く解らないようなところがあった。ネパールは写真家も登山家も何者も、全く金もうけとは無関係な場所だからだ。

その中村さんは静岡県出身であった。

あんまり、会う事もなくなったある日、風の噂で亡くなったと知らされた。 病死だった。最期は静岡の山の中の小さな小屋を構えて、そこで亡くなったようだ。

静岡の山がきっとネパールの低地の山々に似ていたのだろうかとも思った。 でも静岡の山地から眺められるのは富士山だろうから、それだけは残念であったろう。

ヒマラヤの白い大雪嶺を視た人間には富士山はまことに、小さな砂山くらいにしか視えないからだ。

中村さんは静岡の終の棲家の窓から、はるか遠くヒマラヤを幻視していたにちがいない。

110901

絶版書房交信 01

新聞にようやくマナへの関心が載るようになった。メラネシア地域のアニミズムの根本である。

要約すれば、要約は時に危険な過ちを犯すけれど、敢えて。人間は皆、何かの力を表現している筈で、その力をマナと呼ぶ、につきる。

禅問答のようで実にあやうい。

『アニミズム紀行5』にはツバメと会話する屋根職人が登場するけれど、かれはツバメの巨大な能力を背負っている。ツバメの地球規模での周遊能力、つまり渡りのエナジーこそを海洋民族の種族はマナと呼んだ。海洋民族は人類の初源だろうと想われる。ノアの方舟の神話や、大洪水の神話、そしてそれへのランボーを嚆矢とする天才詩人達の直観だけがそれを裏づけるばかりなのだけれど、アニミズム紀行5の全体は批評に堕さぬようにそれを描こうとしている。

110623

絶版書房交信

「三陸の青い海への鎮魂と、船出へのエールを

 東日本大震災の被災地に寄せる私の思い

   アーチスト 山口勝弘」

の便りを6月22日に受け取った。アーチストと自称している奴にロクな人間は居ない、がわたしの持論だが、別枠というのはいつの世にも、何処の世にもある。不倒翁山口勝弘先生がそれだ。

許可を得てここに公開させていただく。

許可を得る為に電話したら、「自分でも恐いくらいの出来なの」とおっしゃっていた。先生のおっしゃる事である、余程凄い出来の作品なのだろう。

秋にはDVDを作るとも言っているので、それも又、絵葉書プロジェクトの一環として販売させていただくつもりである。

2011年6月23日 石山修武

[私の創作メモ]

三陸の青い海への鎮魂と、船出へのエールを

東日本大震災の被災地に寄せる私の思い

   アーチスト 山口 勝弘

東日本大震災と巨大な津波による惨状を報道等で見るにつけ、私の中には、三陸の海に尊い命を奪われた方々への鎮魂の思いがこみ上げてきました。

かつてピカソはナチスの盲爆に抗議して「ゲルニカ」を描きました。

私は、三陸の海に命を奪われたたくさんの人たちへのレクイエムとして作品を制作しました。

考えてみれば、この大宇宙の中で、私たちの棲む星は、水の環境の中で生命を育んできました。今回の想像をはるかに超えた出来事は、海の水による災いでした。この星は、ほとんどすべての水を「海」という壮大なプールに保存し、人間はその水の恩恵を受けて生きてきました。

三陸沖で発生した巨大な地震活動によって海の水は津波となって陸地に押し寄せてきました。星の引力と水の重力によって、三陸の人たちの命が奪われました。私はその瞬間の風景を思い浮かべながら、鎮魂の思いをこめて絵を描かずにはいられませんでした。

私はこれまでに、古代ギリシャ人が飛行を試みたという伝説の「イカーロス」に空気力学の原理を学び、それを作品として発表しました。空気にも、水にも、それぞれ力学的な裏づけがあります。私は「イカーロスの伝説」をDVD作品としました。今回は、フラスコに青い水を注いでフラスコ越しに三陸の海を想像しながら絵を描きました。フラスコの水のかなたに、陽が昇り、人は漁船に乗り組み海に出て、また陽は沈み、また陽は昇る。海と人の、このサイクルはいつまでも続くのです。人間は、悲しい災害の記憶を抱きながらも海の水から多くの幸を得ているのです。三陸の海は未来へと続くのです。地球の海は一つに繋がっているのです。

私は子どもの頃、父親から「お前の先祖は、淡路島南端の阿那賀で半農半漁を営んでいた海賊・村上水軍の末裔だ」と聞かされて育ちました。瀬戸内の美しい風景を見るたびに、私は海への郷愁を感じてきました。それだけに、三陸の大津波によって海に散った尊い命への鎮魂と、やがて海に出て行く人たちへのエールをこめて8枚の作品を描きました。秋にはそのDVDを作る予定です。

110617

絶版書房交信

堀田善衛の『定家明月記私抄』を取り出して読んだ。何度も読み直している本だけれど、今度は言わんとしている事が身にしみた。恐らくは、というよりも歴然として東日本大震災の影響である。藤原定家が生きて日記を記し続けていた、19歳の時、治承4年、1180年より、48歳の承元3年、1209年迄のもの、原文は全て漢文で書かれた日記を文学者としての堀田善衛が日本語にほぐして、私見を交えて解説するという形式をとっている。

堀田善衛は第二次世界大戦末期、明日をも知れぬ身の時に明月記を読み、愕然とする。「紅旗征戎吾が事に非ず」の言に触れたからだ。戦争の事など知った事か、の定家のメモに目が覚める様な思いに撃たれたのである。定家がこの言を吐いた時勢はまさに明日をも知れず、世は乱れに乱れていた。定家19歳の時である。今で言えば大学1、2年生である。2つの意味で驚かされる。この「紅旗征戎吾が事に非ず」は中国古典の引用、そしてもじりである。先ずはその教養の早熟に驚く。そして、その職業歌人の職の始まりとは言え、定家のアイデンティティである芸術至上主義、表現は表現されたものを模倣し、洗練するの枠内で究極を極められるべきだの、彼の方法への意志が見事に宣言されているからでもある。早熟で片付ける問題ではなかろう。近代化による人間の長命化、高齢社会化によって得たものも大きいが、失ったものも同じ位に大きいのを知る。

2011年の今に置き換えてみれば、「大震災なんて知った事か」の発言に通じるのだろうか。

わたしにはとてもそんな野蛮さに満ちた唯美主義的傾向はカケラさえも無い。

むしろ、ポーの大渦巻の如くに身を躍らせて巻き込まれている。

メールストロームの大渦巻の海底までも共に降りてやろうとも考える。

体力が心配だけど。

でも、そんなわたしなんだけれど一人位、大震災も原発もわたしとは無縁であると言い切る、表現者は居て欲しいと思う。

そんな御仁が居てくれなくては、表現者の闇は深くなる一方であろう。そして、多くの肉親、兄弟、夫婦、子供、知己を失った被災者の一人一人が今まさに対面しているであろう現実こそは、まさに紅旗征戎吾が事に非ず、の世界ではなかろうか。

無常の底を突き抜いて、地獄そのものを視て、体験してしまった人々は、そう心底を吐いても許される世界の住人なのである。

彼等は被災者と平板に呼ばれるべき人間の種族ではない。

世界の理不尽さ、巨大な矛盾、そして赤裸々な暴力の波をくぐって、生きて帰った人々なのである。アドルノのアウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮と同じ世界の人々である。

わたしのアニミズムからの、あるいはアニミズムへの旅はやはり東日本大震災・津波、原発事故で歩みを一度止めざるを得なかった。しかし、大震災からほぼ100日経った今、アニミズムの旅は更に深く、大きく続行せねばの確信に満ちているのである。

亡くなった多くの方々、動物達、樹木、他、神社仏閣のみならず、民家や橋や汽車、自動車、船の多くにも、今や生霊が宿るのを知るのである。

想定外と呼ばれる現代の科学技術の水準は実にお粗末極るモノであったのを我々は今や知る。

そして、アニミズムという不可視の小宇宙も又、考えてもごらん、つまらぬ想定外世界の住民である。神秘と一見視える程に今、我々は自身の想像力を拡張せねばならない。たかが生霊程度で身を縮こめてはならぬのである。

原子炉は想定外のメルトダウンの只中にある。我々の考える力も又、更に考え続け、タブーらしきにとまどう事なく、張り巡らされた思考への壁を溶融させる必要がある。

これからの気仙沼、唐桑への計画案の呈示はまさにアニミズム紀行そのものの変化へんげ、幻の類である。

110421

絶版書房交信

三陸沖大地震、大津波被災者支援絵葉書プロジェクトは第3弾のデザイン6枚組が終り、第4弾6枚組のデザインに入った。第3弾にはそこらのプロの写真家よりもズーッと上手い淡路瓦師の山田脩二さんの写真を一枚使わせていただく。それで第4弾はこれも又凄玉の写真名人、岩手県一関市のジャズ喫茶ベイシー店主菅原正二の写真を入れたいと考え、「できるだけさりげないのを頼む」と依頼したら、早速次のような文面と共に実にさり気ないが今の空気に実にぴったりなのが送られてきた。

それで文面だけを先に公開してしまう。

写真は更に良いので乞御期待である。

ちなみに平安コラム9のフランク若松とわたしを引会わせたのは菅原であった。そして、いつか誰も居なくなるのである。諸行無常ではなく、宇宙の定理なのである。だからこそ生き抜くのだ。

三陸海岸にこれからも生きる人々に今は言葉はいらない。メシと灯油と一輪の花を。

石山さん

では、極くさりげないのを一枚。

「9・11」直前の夏。この時はNYの「アバタースタジオ」でトミー・フラナガン、ロン・カーター、グラディ・テイトのレコーディングの撮影を頼まれ、それがトミー・フラナガンのラスト・レコーディングとなりました。セッションが終って別れ際、ロン・カーターがトミー・フラナガンを抱きしめているショットもあるんですが・・・。

ここはひとつ「人間」のいない無機質なのがいいか、と思いましてね。

ひとつよろしく!

4/19 ベイシー 菅原正二

110411

絶版書房交信

菅原正二様

昨夕は電話で失礼いたしました。4月7日深夜の大きな余震後何度かベイシーに電話したのですが通じなくて心配していたのです。我々の年代の人間はこれ迄、心配している、とか不安です、あるいは悲しい、泣きたい気持である、とかの心の奥にある生の感情を赤裸々に伝えることは控えたい、みっともない事だと言うような意識がありました。

米国との敗戦により、他力に近い力と形によって身についた、つけさせられた戦後民主主義とは微妙にズレたこれは感覚じゃないかと気付きます。

戦勝国米国の統治者、政治的人間ではない、あるいはその傾向が小さな民衆の典型はアフリカから移住させられた黒人達でありましょう。そんな意味からは敗戦国の当時若者であった若かった菅原さんが黒人が作り出した音楽である米国生まれのモダーンジャズにひかれていったのはギリギリの歴史的必然であった。ただの米国かぶれ者ではないと言う事です。これは大事な事だったと今にして考えます。わたしは不勉強で菅原さんのジャズ喫茶ベイシーの命名の元になったカウント・ベイシーの祖先がどんなルーツであったのかは知りません。

とにもかくにも言いたい事はですね、今こそ原東北人でもあり、筋金入りの直観力を持つ菅原さんの感性はとても重要なのです。米国のモダーンジャズを作り出した元アフリカ人、黒人達と、今、3・11以後の、つまり未来の東北人は酷似しているかに思えてなりません。

50数年前、菅原さんは病を得て東京でのジャズプレイヤーの径を断ち、北帰行を企てました。北の故郷岩手へと戻りました。その決断は今にして流石であったと思えてなりません。こんな時にはまともな人間は皆それぞれに自分の存在理由、つまり原点、アイデンティティーに想いをいたす者になるのだと思います。昨夕の電話で初めてわたしは菅原さんの途方に暮れた声の響きを感じ取りました。言葉でなくって、響きです。

ジャズ喫茶、モダーンジャズスポット、ベイシーは東北人の気持の原点であります。米国のモダーンジャズプレイヤーが深くそのルーツであるアフリカを想ったように、我々は今、東北を根無し草になってしまった消費者=市民のルーツとして考えられる機会を得たのだと考えます。

ベイシーの音を絶やしてはなりません。

言わずもがなを言う必要はありませんが、東北はやはりブルースの国なのでしょう。深い悲哀の中に生きるからこそ、アフリカにも遠く通じる自然の力と共に生きる国の深さを痛感いたします。

気仙沼、唐桑の復興には微力ながら力を尽そうと考えています。しかしながら義理と人情の深さを教えてくれたベイシーの復興も同様に大事過ぎる位に大事だぞと、3・11からほぼ一ヶ月、菅原さんが余計だった、これはこたえたとつぶやいた4月7日の大きな余震から3日を経て、ようやくにして気がついたのであります。 坂田明は坂田明できっとそれなりに考えているのでありましょう。わたしも坂田さんに声を掛けてみようかと考えたのですが、当面一人でこの復興計画については考え尽してみようと決めました。ベイシーの闇の中で独人、葬儀屋のローソクの灯で茫然憮然としておられるであろう大兄への、これはエチケットでもあろうと覚悟しました。鶴の恩返しならぬ、アヒルの義理返しをいかにするかを熟考します。勝手に好きでやる事ですから、余計な事だと言って下さっても暮々も妨害なさいませんように。

4月10日  石山修武

110322

絶版書房通信 2011年の10

石山さん

素晴らしいメッセージを早速ありがとうございました!

「朝日」の記者がそのうち何かいいコラムを考えてるみたいです。タイミングを見計らってということでしょう。

三陸海岸は地中海のような明るさもなく、わびしく、けなげにあったんです。トコトン悲しいです。

こんな時、石山さんに会いたいです。

3/22 ベイシー 菅原正二

岩手県一ノ関ベイシー店主からFAXをいただいた。先日、地元の朝日新聞から菅原さんに、石山に何かを書けと言ってくれと言われ、それで小さな文章を寄せたのに対する礼状である。しかし、普段の菅原正二を知る人間としてはギョッとする様な内容ではある。

こんな事を書いて来る菅原正二には初めて会った。その気持を想い、泣いた。まだ他人の気持に泣く情熱がすっかりすれからしになっちまった自分に残っているのに驚いた。

菅原さんには申し訳ないけれど、本当に無断で紹介してしまう。こんな時だ。彼も許せないことを見ぬ振りをするだろう。

男が、これ程の悲しみに、大津波、大地震のこと計りではなく、東北の町の、村の、都市の根深い哀しみを感じ続けて60年の歴史の重なりの哀しみである、コレワ。

三陸海岸にこれからも生きる人々に今は言葉はいらない。メシと灯油と一輪の花を。

110218

絶版書房通信 2011年の8

建築現場で様々なマテリアルにとり囲まれて、いささかの指示や注意事を伝えた。大きな建築物を一人で作り上げるのは、今のところは不可能である。技術がそのように、編成されていない。

現場監督や職人さん達にわたしの設計意図を伝えるのはとても難しい。わたしのスタッフにもそれは聞かせて建築家としての入門教育にしなければいけない。若いモノはほどほどの抽象図は理解するが、物質と抽象的な思考がどのように関係し得るのかを学ぶチャンスはそれ程多くはない。誤解を恐れずに言えばそのチャンスは年に数度に過ぎぬであろう。今日がそのチャンスであろうと考えて、二階テラスの長い廊下状部分のタイル割りについていささか綿密に指示した。監督、わたしのスタッフにも、当然職方にも聞かせた。この類の指示は実は建築表現に骨格を保持しつつ、アニミズムのもたらし得る力、すなわち根源的な生命力をいかに与えるかに、実は通じるのである。これが分離しているようでは一流のモノ作り、すなわちデザイナーになる事はできない。

えらそうな事を我ながらのたまっているのを自覚するが、自省はしない。

建築現場でスタッフにアニミズム紀行6のゲラ完稿を渡した。これで出版のわたしの役割はほぼ終えた。勿論6番目の出版物に関してだけである。アニミズム紀行7はすでにだいぶん進行しているが、このまんま安隠に進むとは思えない。又、途中で捨ててしまう可能性だって充分にある。すでにその実感さえある。

振り返って今朝の建築現場でのわたしの指示と現場の面々とのやり取りは面白かった。わたしが何故、質感は抜群だが精度はいささかの難ありの分厚いベトナム産タイルをわざわざ、南の国からコンテナにつめて搬送させたのか。

その経済性と表現効果、人間の感性に訴えかけるであろう何がしかの価値に対する総合的な計算を短い時間の中で決断しなくてはならない。その困難さと、決断し得るという可能性の大は実に常に背中合わせの事でもある。

この事は建築が出来上がった時に、ここの部分のデザインの事だよと、伝えれられれば伝えるが、そこ迄サービスするのもいけない事であるやも知れない。いずれ絶版書房の出版がもう少し進む事ができたならば、会って話をする人ごとに大事なところまで話すべきか、グローバルスタンダード位の散漫な標準レベルにとどめておくべきかの、日々のコミュニケーションの程度、深度までおもんぱかって決めなくてはならぬケースも多くなるであろう。そんな時には当然の事ながらわたしはアニミズム紀行読んでいただいていますか、否かを必ず問うであろう。読んでもくれていない人間には当然の事ながら水準を落し切った会話をなす事にならざるを得ないのである。

わたしの世田谷村日記に「ある種族へ」のサブタイトルが附されているのも同じ故である。自分の責任でやっている事である。意地汚い遠慮や計算はもうしたくない。

110214

絶版書房通信 2011年の7

アニミズム紀行6の完稿ゲラが出たのでじっくり読み直した。ドイツ、ワイマール行の途次に第一段階のチェックはおえていたので、多くのエネルギーは要しなかった。しかしスタッフが実に綿密な注釈を附してくれたので、それを読むのは楽しみでもあった。オスカー・ワイルドに注釈が入り、エドガー・アラン・ポーには入っていないところなどはどうしてかなといぶかしみもしたが、若い才質の感じるところに任せた方が良いのだろうと割り切った。

コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ。その「パスカビル家の犬」はドイルの最良のモノの一つであろうが、その質を支えているのはスコットランドの古層であるケルトのアニミズムであろう。オスカー・ワイルドはグレアム・グリーンの肖像に限らず、その作品群の根底に流れているのも、シェイクスピアに通じるアニミズムである。度々、日記でも触れたと記憶しているが、G・K・チェスタートンの作品の根底にはアニミズムがある。こんな啖呵を切る時の根拠は、文明に抗し、あるいはブレーキをかける、日本の哲学者木田元が言うように哲学の効用はただただ流れつづける文明の大河に少しでもブレーキをかける役割以上のものではないと言う認識を共有した上で、アニミズム的思考、あるいはそれを論ずる事自体は、ブレーキでしかなく、しかもその役割は最大級に重要なのである。G・K・チェスタートンの良質過ぎる文化的表現の才質は、日本に於いては夢野久作、小栗虫太郎といった異端の探偵小説作家に影響を与える事以上の事はなかったのかも知れぬ。その事の一部は江戸川乱歩が触れている。

アニミズムは少しばかりその一端を述べてきた如くに最深層すなわち民衆の、大衆の精神基底にしかその残骸を残し得ないものなのである。

コナン・ドイル、オスカー・ワイルド、G・K・チェスタートンのイギリス文化、文学のストリームは日本では江戸川乱歩、夢野久作、小栗虫太郎の流れに収縮されてきたのである。アニミズム紀行6の成果の一つは日光大猷院にスポットをあてて考えてみた事かも知れない。現在バウハウス大学ルーフライトギャラリーに展示している渡真利島月光・TIDA計画は2008年夏の東京世田谷美術館に展示したものが大きく更新されたものだ。更新とはウェブサイトから学んだニャアンスである。チャンスがあれば計画案は更新してゆくのが創作者にとってはとても役に立つものだと知った。本当は建築だって更新する事が可能になればどんなにその可能性が拡張できるか、計り知れぬものがある。更新できぬ、あるいはされぬ部分を我々は建築と呼び得るのではないか。

絶版書房は今のところ600部をマキシマムにしている。増刷はしないを旨とする出版形式をとっている。勿論コンピューターサイトとの連動は意図的に実験もしている。

しかし、一冊一冊を売る。読者に身銭を切って買っていただく難しさは身にしみてもいる。でもやり続ける。

庭の梅の樹が花を咲かせている。今年はクズの葉にからまれて精気を失っている様子なので、花はダメかとあきらめていた。周辺の梅木と比べても一向に見劣りはしない。まだまだ絶版書房㈼は花を咲かせる迄はいたらない。花を咲かせるって何なのかを言わなくてはならない。

絶版書房が花を咲かせるとは、つまり絶版書房の目標とは、何か。

一、大量生産大量消費型の書物に非ざる本の形のモデルを作りたい。

二、開放系技術論者の立場から、例えば小学生高学年クラスでクラスの雑誌くらいは出せる、そのモデルにもなり得るようにしたい。わたしの研究室はその想定しているクラスのモデルです。

アニミズムを言あげしようとする前にそんなことも考えている。

110207

絶版書房通信 2011年の6

Xゼミナールの表参道の商業建築群と明治神宮の森との、まだ何的と呼ぶべきかは知らぬ構造に関する議論がチョッと面白くなってきた。その面白さの要因の大半は四層構造の唯物論者難波和彦さんとわたしの考え方の開きから生み出されてくる。

アニミズム紀行5の読者にだけのサービスであるが、このXゼミナールに於ける議論はわたしにとってはとても重要であるのだ。鈴木博之さんの地霊論は彼が持続してきた場所論の今のところの帰結であろう。今彼が書き始めている近代和風庭園論はその細部である。鈴木博之さんは処女作品「建築の世紀末」に於いて、神は細部に宿るといいう真理を具体的にイギリス、ゴシックリヴァイバル他の成果、他にデザインとしての結実を誰がどう建築に対して求め、時には指示したかを示して、我々近代建築家の眼のウロコを落さしめた。この論述は読み直してみても、アメリカのデービット・ハーヴェイの「ポスト・モダニティの条件」等の近代以降の社会的表現を探る知性の動きにさえ先駆けていた。サスキア・サッセン等のシカゴ派の社会学者の思考方法とも強い親近性の関係の構造を見てとれるのである。

つまり、わたしは鈴木博之さんの地霊論に当初は単純素朴なとまどいを感じていたのだけれど、最近はもしかしたらこれは21世紀的な柔らかいイデオロギーになり得るのではないかと更に恐れたのである。鈴木博之の如くの歴史家は当然極めて創造的であろうとする。解説者だなんて仕分けしているととんでもない事になる。明治以降の和魂洋才の気持で建築を作ってきた日本の近代建築家達の良質な部分に、その次の気持の(普通は時代精神と言うのだけれど、鈴木はそのケレンを好まない)、気持ちに無意識に張りつめて欲しい形式の如くを植えつけようとしている、その仕草が手に取るように解ってきたのである。

わたしは言語を使うのを得手としtない。特に堅固な言語の構築の才は薄い。これは仕方がない。本来的な資質であるから。両親や先祖のDNAに文句つけても仕方ない。だから私は職人の如くに物質でそれを成そうとしているのである。つまり、わたしは鈴木さんに物質を使って対抗しようとしている。

何を言わんとしているか?

わたしは鈴木博之さんの地霊論に物質のデザインをもって対抗しようとするのである。異論を立てようとするのではない。そのスタジアム、あるいはレース場で言語のボートをこぐか、物質のデザインのボートをこぐのかそれは違うが、やはり、鈴木博之さんよりどうしても一歩先を行きたい。遅れるのはイヤなのだ。その点では明らかにライバルである。友だから蹴落したり、足を引っ張ったりは決してしないが、それでも1センチメーター、1ミリメーターでも前に行きたいのである。それでなければ生きてる甲斐はない。

難波和彦さんは現代日本では最も倫理的な建築家であろう。明治神宮の表参道に関するまだ小さな議論で浮かび上がっているのは、彼の四層構造の理論の二つに分けられた、マルクス流の上部構造の最上層が記号と呼ばれている一点にある。記号にアニミズム、地霊の生きる場所はない。

この記号の呼び方はクリストファー・アレグザンダーのパターンランゲージそのものではないか。むしろそれを生活学的な民衆性に包含しようとするものであるのか。あるいは戦後アメリカ民主主義の植民地性につながるだけではないかとも思われるが、それはゆっくりとやりたい。この記号の概念には今のところ何処にも文化の香気は見当らぬ、とわたしには眼に写る。

要するに、明治神宮、及び表参道の建築群を考えるに、その地主、あるいは投資者、発注者の意思、利己的な貪欲さの中に、それでもあるやに考えられるアニミズム的気持の深層構造を考えざるを得ないだろうと思うのである。わたしの言う、あるいは考えようとしているアニミズムは神秘主義的なものでは無い。それは明言しておかねばならぬ。さりとて勿論工学的な世界に属するとは絶対に言い得ない。

今、科学工学と呼ばれている思考の形式が、医学を除いて、あるいは防災工学を除いてそれ程に人間の生のために合目的であるとは考えられぬが、標準化普遍化はそもそも何の為の志向であるのかは不可解そのものでもある。

アニミズム紀行の旅は実に6号(※1)で述べている如くに創作論そのものである。批評ではない。批評に過度に軸足を偏向させ続けてきた今の創造的姿勢身振りとも異なる。批評の、歴史家の叙述の精度を踏まえつつ、少くともそれを意識した上で、それに対抗する・創作する、物質を介してデザインしようとする気持の全体性への意志が、色濃く在る事は確実であろう。

※1 アニミズム紀行6は間もなく出版されますが、きちんとアニミズム紀行5を下敷きに読んでいただきたい。

110204

絶版書房通信 2011年の5

世田谷村の庭の梅の樹が花を咲かせている。今年はダメかと思っていたら梅の、古木とは言えぬが50年以上の樹の底力であろう。昨年はクズの葉のツルが梅をおおい尽くし、それが樹木のエネルギーをだいぶん吸い取ったのであろう。

万葉集には桜をうたった和歌は無いと言う。精確ではないが、少くとも極度に少いのは確かだ。中国民族は梅の花を愛した。その文化を古代より移入してきた日本の古層に梅の花、その樹木のアニミズムが棲みついていたのである。桜ではなかった。

桜の花を愛し始めたのが何時の頃からなのかは良く知らぬ。西行の歌に代表される桜の花への愛好は、やはり武士の文化の興隆と関係あるのではないか。散り際のよさに象徴されるその価値観は信長の敦盛に表現された如くに生と死の境界の稀薄さ、夢幻という観念、能の夢幻能に通じる美学が基底にあったろう。

桜の花は散ってなんぼのモノである。アレが長く咲き続けていたらうっとおしいこと際限があるまい。梅の花は咲き始めが良い。散る姿は決して美しいものではない。恐らくは、こんな感じ方はわたし一人のモノではなく多くの人々に共有されているだろう。この共有しているであろう拡がりの中にアニミズムが棲みついている。

生霊と書くと、平板な感性知性の人間はすぐに前近代、神秘主義と短絡されてしまう。近代というシステムは強大だからそれはそれで仕方が無いとも言える。がしかし、生霊は実に多面的な表われ方をしているのも現代の特質ではある。桜の花の散るのを見てフッと心が動かされる。梅の花の咲き初めを見てアッと思う気持の動き、動きそのものの内に我々の生命の中核があるのだ。人間は諸細胞の集積、つながりと水の合成体であると同時に、気持を持つ。万人が持つ。その気持が何処から生じるのか、これは宇宙そのものの生誕の謎と同様に決して究明される事のないXなのである。精神病者と芸術家の類似性。あるいは幼児の独立した芸術性、生物性の謎は近代科学ではなお究明し得ぬ世界でもあり、それは宗教的心性、神秘性としてくくりつけては余りにも惜しいモノなのだ。

世田谷村の梅の樹が咲き、何年か前にいたツトムというウサギが根もとに埋まっているのを憶い出す。これはわたしのセンチメンタリズム故である。しかしそのセンチメンタリズムが何故動き始めるのかは、又別の問題なのである。驚き、感動、恐怖、畏敬、全て人間の気持の状態を意味するモノではない。人間の気持の動きを呼ぶ言葉でもある。言葉にも勿論アニミズムは棲みついているのである。

世田谷村には梅の花が来た。そして、隣地にはセキスイハウスも来た。工務店のハウスも来た。この光景の組み合わせの凄惨さの現実にもアニミズムは動めいている。

近代そのものの蔓延飽和の時間そのものがつまり歴史がアニミズムを呼び起こしているのである。

江戸末の忠臣蔵演劇は実在の事件を題材として歌舞伎十八番に迄仕上げられ表現として大衆の中に根付いた。浅野内匠頭が腹を切ったひとつの山場にも桜の花が登場する。事件の発端の殿中松の廊下には松の樹が登場する。クライマックスの大石内蔵助、四十七士の討ち入りには雪が登場する。松、桜、雪の精霊が事件を演劇表現に昇華させ得たのである。

シェイクスピアの天才にも比肩し得る表現になった。ありとあらゆる大衆性、民衆性の基盤はアニミズムにある。

近松、西鶴、芭蕉の出現により江戸末、元禄文化は完成され、それ以降は近代を迎える迄何もない。

日本の近代建築には近松の詩、西鶴の慧眼、芭蕉の絶対的止観のいづれも稀薄である。その稀薄はアニミズムの稀薄さに通じる。

110201

絶版書房通信 2011年の4 ワイマール便2

昨日ゲーテミュージアムの展示の中に、ワイマールのゲニウス・ロキのオリジナルと思われるオブジェクトの陳列があるのを発見して、驚いた。あのギリシャ風の円柱に蛇がからみついているモノだ。ゲーテミュージアムに収蔵されているのは蛇が脱落していて円柱にその跡が残されている。

エッ、もしやこれはゲーテのデザインになるものかと考える。ゲーテは何でもデザインできたから。可能性は充分過ぎる位にあるのだ。恐らくゲーテハウス(夏の家)近くにあるモノはコピーなのだろう。ワイマールの冬の厳しさは石彫を破壊してしまう。それでオリジナルのゲニウス・ロキからは蛇が剥落してしまい、それを復元模造したモノが河のほとりに設置されているに違いない。彫刻としてはそれ程芸術性に溢れたモノではないので、やはりゲーテ・デザインかも知れない。

ツィンマーマン教授に尋ねたら、ゲーテの考えに影響された何がしかが作ったものであるとの事。しかし、この説もメイビイ、つまり多分そうなのではないかの感じである。

何故、こんな事を書いているかと言えば、要するに、ゲーテという巨人の中にむしろゲニウス・ロキは棲み着いていたのではないかと考えるからだ。

ゲニウス・ロキというラテン語の実体は良く知らぬが、わたしが考え始めているアニミズム、すなわちアニマと極めて接近した、言葉だと思う。

日本では道祖神の姿として実体化されたりと民俗学的な表われも断片としてあるようだが、もう少しと言うかだいぶんよりより深層に届き、なおかつ広大な層に棲みつくモノであろうと予感する。

ワイマールは人間の眼で把握できるような盆地状の凹みの土地である。底には川が流れていて、その周辺にゲーテはイギリス式庭園を構想して実現している。つまり、ゲーテの個別でなおかつ巨大な資質そのものが、この場所にハッキリと詩性を感受させていたのであろう。ワイマールという場所特有の形象がゲーテをして多くのモノを産み出させしめた。その回路そのモノをアニミズムと呼ぼうとしているようだ、わたしの場合は。

人間に個別な、しかし時に普遍でもある、想像力そのものが物質としての他者、外在者を求め、つながろうとする、そんな深層の無意識の中の、しかし確実にあるだろう、大地を含む物質とのつながりである。

まだ良く考えられぬママなのだけれど、これは近代に固有の、人間の専門分化、あるいは細断性とは異る、全体性とも呼ぶべきモノを求めている意識であるやも知れない。ゲーテの総合性、全体性とR・B・フラーの、そしてウィリアム・モリスの全体性に通底しているポストモダンの可能性である。

110131

絶版書房通信 2011年の3 ワイマール便

昨日(一月二十五日)の日記にも記したけれど、ワイマール、バウハウス大学では多くを学んだ。特にアニミズムと呼んでいるモノの中心を巡回し始めているのを自覚できた。

初期バウハウスは二〇名の学生と十名の教師によって始められた。当時のランチルームがキャンパスに残っている。学生も教師も皆貧しかったので、貧しいランチを共にした。それは三〇名の完全な共同体であった。ミニマムなワイマール共和国らしきが現前していたのである。ワイマールの墓場の隣りに。

彼等は恐らく、この墓場の森を歴史の生霊として皆実感していた。ヴァンデベルデのデザインはその表われである。実にたくみなデザインであり、当然ながら職人達の能力や絵画、彫刻他の諸芸術の統合が目指されていたのである。アーツ&クラフツ運動の一環としてそれは始動したのである。

ワルター・グロピウスが設計した隣りの墓地内の記念碑はそれを良く表わしている。グロピウスの内部にも当然生霊らしきは棲みついていた。それでなければ、あの記念碑のデザインは成立しない。

何かがあって、恐らくはそれはグロピウスのイメージでは無い何かが動いて、グロピウスはむしろ転向したのである。グロピウスは内なる生霊を自身の、すなわち人間の生命の実体として、それを封印した。

冬のワイマールは多くが封印される。ゲーテの家夫、ジェニウス・ロキの蛇が巻きついている柱の像も、イギリス以外ではここにだけあると言うウィリアム・シェイクスピアの石像も、雪と氷による劣化が恐れられ、全て何かの素材で覆われる。すなわち封印されている。バウハウスの建築学生の多くも、森の中のグロピウスの、むしろイッテン風の作品を知らぬようだ。教師がそれを教えないから。つまり、封印されている。

どうやら、わたしのアニミズム周辺の旅はそのように封印されているモノ達を巡る旅でもある可能性が、今のところは大きい。

人間は皆、秘かに恐れているモノは集団的に封印する、そこまで言わずとも秘匿したがる、隠したがる根強い習性を持ちつづけているようだ。

墓場の森、そして森の中の墓陵そのものもそんな人間達の強い、それこそ普遍的でもある習性であるのだろう。人間は死の事実を直視できる程に強い精神を持ち得る生物ではない。直視できぬという自身の内さえも封印しようとする、あるいはし続けてきた歴史があるのだろう。

思わぬ事を考えさせられた。アニミズムの旅の役得であろう。

一月二十六日 早朝、ワイマールにて。

110124

絶版書房通信 2011年の2

一月二十四日から二十九日迄の六日間ドイツに行ってくる。ワイマールとシュトゥットガルトの二都市である。ワイマールはドイツ国立バウハウス建築大学のギャラリーでの石山修武建築展のオープニング、及びそれに際してのレクチャーの為に出掛ける。

わたしは展覧会というのに本質的な興味が持てぬ気質であった。それ故、これ迄の過分な機会を与えられながら、その潮時らしきをズーッと逃してきた嫌いが、我ながらあったのである。男らしく、率直に、もっとガツンと自分を売り出す情熱を発揮すべきであったと後悔していた。

二〇〇八年の世田谷美術館での展覧会はそんな、わたしにとっては画期的なものであった。

海外での展覧会の大半は、一九九二年のロンドン・ヴィクトリア&アルバートミュージアムでのジャパンフェスティバル、あるいは一九九六年のヴェネチア・ヴィエンナーレでの展覧会も、いずれも磯崎新の傘の下で、自分をかろうじて表現したものであった。しかも、双方共に爆発的にネガティブなエネルギーに満ち溢れていて、しかも磯崎新の力もあり、強い影響力を持っていたので、大きな話題にはなったが、むしろ封じられ、減速を余儀なくされた趣きもあったのである。

東京世田谷美術館での展覧会は、そんなわたしの、これ迄とは違ったポジティブな表現の可能性を社会に問うものであった、とわたし自身はとらえている。ワイマール・バウハウス大学ギャラリーでの今度の展覧会はそんなポジティブな表現の力を社会に示そうとし始めている、わたしの二度目の大きな展覧会である。

アニミズム紀行シリーズを出版し始めている研究室の絶版書房活動は、この展覧会と実は密接な関係を持っている。

バウハウス大ギャラリーでのわたしの展覧会のテーマ、つまりわかり易いキャッチフレーズは「マン・メイド・ネイチャー」である。良く知られるように、モダーン・デザインの創始点の大きな一つであるバウハウスのデザイン運動はそれ程に単純なものではあり得なかった。イギリス発祥とも言える、レッドハウスのウィリアム・モリス等を原点とするアーツ&クラフ運動の流れを汲むのではないかと思われる、ヨハネス・イッテン等とワルター・グロピウス等との激しい内部での確執を経て、バウハウス運動はワイマールからデッサウへと移動した。そして、デザインは今のグローバリゼーションの原基とも言えるモダナイゼーション、標準化、普遍化と言うある意味では平坦な道へと踏み切ったのである。

我々の絶版書房活動の、特にアニミズム紀行シリーズのペーパー活字による表現は、デッサウに移動する以前の、プレ・ワルター・グロピウス、つまりは芸術、生産、建築表現の三位一体、あるいは総合的芸術表現への径を再び探りたいというにある。

アニミズム紀行は単純な神秘主義的傾向の思念を象徴するものではありません。人間や、各種生命体のそれぞれの尊厳の個別性に向けた視線、あるいは視界の全体性そのものを言うのです。例えば、日本人思想家・鈴木大拙、あるいは西田幾多郎等はスエーデン・ボルグの神秘主義としてくくられる思想に多大な影響を受け続けたのは良く知られるところです。

わたしのアニミズム紀行5・キルティプール、でのわたしの終の棲家への設計図とも言える記述は、言う迄もなくスエーデン・ボルグの思想を、全てでは勿論ありませんが、一部を下敷きにしていました。

アニミズム紀行4、3で少し端緒を述べた、クロード・レヴィ・ストロース、にとどまらず、宮本常一、柳田國男、折口信夫等の民俗学者、そして、活動の初期的様相の内に、すでに環境論者の思想の枠をはるかに超えていた南方熊楠等への強い関心の気持の動きは、わたしにはとても重要な事です。

わたしという個別な種の内に何等かの普遍とは言わずとも、集団的な拡がりをイメージできなければ生きてる甲斐もありはしない。

高校生の頃、P・クレーの日記は熟読した。P・クレーの絵が好きであったわけではない。日記の文章が好ましくって、それで絵に入った。絵はそれ程入り込めなかった。モホリ・ナジの幾つかの断片的なエッセイも読んだ記憶がある。共に、バウハウスのメンバーであった事は知らぬ年頃の事であった。モホリ・ナジには、大学2年の時に再会した。建築史家の渡辺保忠が考案した、早稲田大学建築学科2年生の設計実習というプログラムをスタートするに当って、そのプログラムがモホリ・ナジ等が考案した初期バウハウス、恐らくはデッサウに移る以前のワイマール時代の造形教育をベースにしているとのレクチャーがあったからである。

無知な学生であったわたしはバウハウスを知らなかったが、そのガイダンスは良く憶えている。内的想像力を普遍的たらしめようとするプログラムによって発見、育成するのだとのガイダンスであったと記憶する。今、振り返れば、わたしの思い付きグセ、良く言えば発見的方法、悪く言えば支離滅裂グセはそのプログラム、つまりモホリ・ナジやP・クレーの初歩的、初心者向け、バウハウス・デザイン教育によって作られてしまったのではないかと思うのである。

アニミズム紀行は、しかるが故に、デザイン、表現の初歩的な気持の動きに関する論考であると考えている。それ故に、多くの非専門的な、デザイン、建築設計の枠にとらわれぬ人達、種族の方々に関心を持っていただく事を、わたしは要請したいと考えるのである。

ワイマールは実に特異な場所であり、小都市である。ゲーテ、ダンテ、ニーチェ等がその最期、つまり死を迎えるのを望んだ死の都である。多くのヨーロッパの巨人達の墓所の都でもある。そして、ヒットラーが最も愛した場所でもあった。ヒットラーはワイマールのエレファント・ホテルのバルコニーに立ち演説するのを何よりも好んだのである。つまり、ワイマールは両刃の剣にもなり兼ねぬ、諸々の精霊(アニマ)が動めく場所である。

体調も良く、気力に満ちていれば、そんな事はあり得ぬだろうと予測するけれど、ワイマールからいささかの通信を送ってみたい。

ただし、それを読んだら必らずアニミズム紀行は買うように、決然として、胸を張って買えと要求したい。もう買わなくてもいいんですよのウソつき社会学を装おう訳にはいかないのである。タダで、ヅルヅルと延び切ったパンツのヒモ状ソバ、あるいはうどんを喰って平気な、コンピュータサイトの読者諸君。たまには銭を捨てなさい。捨ててどうなるものではないけれど、捨てぬよりはマシなのである。読めとは言わぬ、読む振りをして、先ず、銭を捨てよと言いたい。その為の絶版書房なのである。

110106

絶版書房通信 2011年の1

1月2日から休みなしに働いてみたら流石にバテタ。それで今日の午後は休みとする事にした。午前中木本さんとのコラボレイションの先を考えたいと考えていたのだが、仲々頭が切り換えらずにいた。頭を切り換えると言うのは建築設計他のお金が動くリアルな仕事から、余りに芸術世界故に仲々に金があまり動かない木本さんとのコラボレイションの世界らしきへと頭の波長を切り換えるのが難しいと言う事でもある。

広島山中で独り鉄の造形に取り組んでいる木本君の事を想うと様々な事が巡る。近頃TVのCMにバルセロナのサグラダ・ファミリア教会の現場で働いている外尾悦郎さんが良く登場する。つまらない科白を言わされて照れている風が、スレていながら、かすかに初々しい。初心を忘れるなよ、良い作品作れよとつぶやく。すっかりカタロニヤ風の人間になった外尾悦郎さんが一筋縄ではゆかぬ人間に育ったのは知れた事だ。わたしは彼のバルセロナ暮しの初期に知って友になった。良いカタロニア人のスレ方をしてきたなと心強い。カタロニア人は金にも強いのだ。特にバルセロナは名うての商都である。

外尾さんとバルセロナで飲んだくれていた頃、良くゴシック街のユダヤ人街の袋小路を踏み迷っていたが、何処のバールにも巨大なワイン樽があって、その樽から汲んで飲むワインは上味かった。何年か前に外尾さんは考えるところがあってカソリックの洗礼を受けたようだ。たしか洗礼名はミケランジェロ、うんぬんであった。

木本さんは外尾さんと同じ位の腕があるし、スピリッツもある。いい根性をしている。しかし、残念ながら良き日本人なのである。典型的な現代日本人。つまり無宗教人なのである。そこがカソリック信者となったミケランジェロ・外尾と比べて弱い。

話は飛ぶ。何故飛ぶかと言えば、この文章は今、千歳烏山の南口のラーメン屋、長崎屋で書いている。隣りのテーブルでタクシーの運転手さんと、ここの常連さんが、口角アワを飛ばしてホラを吹き合っている。その最中で書いているので異常に高揚してしまっているのである。こいつ等ジジイ、オジン達は絶対に病気にはならネェな。馬鹿とカラストンビは病気にならない。

木本さんの金属オブジェクトでこれ迄の最良のモノは厚生館愛児園に依頼された、鬼子母神像であろうと信ずる。


この作品に於いて木本さんは実に、それ迄の平板なモダニズムから少し脱け出そうとしていた。子供たちの平安を祈ろうとするクライアントの希求に助けられて、芸術家は自律した魂を持たねばならぬが、それだけでは駄目だ。同時にそれを捨て切らねばならない。少くとも、その心構えは持つべきであろう。自分独りの誇りを捨てて、何者かに帰依してゆく能力も又必要なのだ。

木本一之さんの鬼子母神像はわたしが今、現在、気持ちの巡礼を続けているアニミズム周辺の旅の道標として残した産物の一点である。この作品を作ったのは木本さん。わたしはいささかのディレクションをしただけである。

何故、ディレクションしなければならなかったかを考えたい。

一、木本さんは美大教育による典型的なモダニストであった。それは京都の美大出身の外尾悦郎や桑沢デザイン出身の山田脩二と全く同類である。ここで、いきなり淡路瓦師山田脩二が登場してしまったが、この馬鹿者に関しては又、追い追い述べることにしたい。ちなみに山田脩二と外尾悦郎は極めて相性が悪い。双方、まだまだ我が強すぎるのである。馬鹿者共である。

モダニズムは日本のアーティストに於いては大方借り物に過ぎない。原理的にはである。で、わたしは木本さんの骨格からモダニズムの骨を少し抜きたいと考えてきたのである。モダニズムの美学とは、本来的に芸術家、表現者の主体を絶対視した社会的表現という抽象的観念の産物である。

わたしが只今、漂着、あるいは漂流しているアニミズム周辺とは、その世界の辺境にある。全く異世界ではあり得ないが、その最周縁に位置している。しかも広大な過去の世界とのパイプも太い世界なのである。近代の自我、自己、個人を中心に据えた世界ではない。しかし、けれども中世から近世にいたる、神、あるいは倫理的世界の価値を軸にした家、家族、国家を中心にした共同体の倫理にも非ず。わたしの想い描くアニミズム世界とは近代の産物である産出されたイメージとしての物質(商品)を仲介とした、物質と人間の関係世界に近いモノがある。

その考え、イマジネイションを木本さんの手を介して表現したいと考えたのである。その為には少くとも、わたしとのコラボレイションに関する世界では、木本さんの教育されてしまっているモダニズムの平板さを少しでも矯正する必要があった。外尾悦郎がアントニオ・ガウディが究極的に帰依していたカソリックに拠り所を求めざるを得なかったように、木本さんにもかたくなな自己を捨てて欲しかったのである。

ニ、木本さんはメタル造形の基本を美大卒業後、ドイツのメタル造形マイスターの許で修業することで得た。それはわたしなりに理解するならば、ヨーロッパに於ける、アーツ&クラフツ運動とバウハウスのグロピウス等によるモダニズム運動の岐路に身を置いた歴史を持つ事でもある。

ウィリアム・モリス等の意識的な活動によって近代デザインはその幕を開けたと、わたしは考える。その近代とは、労働と表現の総合性にあった。人間の生活はマルクスの言う労働によって支えられ同時に分化されてもあるが、同時に表現活動でもあるという、小さなユートピア志向でもあったのだ。グロピウスの標準化主義、普遍主義はそれと鋭く対立してしまった。総合的な表現世界への希求が弱かったからであるし、ゲルマン民族の強い抽象的論理性の故であったかも知れぬ。

木本さんのキャリアの中にわたしはヨーロッパのアーツ&クラフツ運動の流れを視たのである。

それ等を今のところ統合すると次のような結論を得ざるを得ない。この結論は余りにも唐突に視えてしまうであろうが、実に正しい結論なのである、わたしにとっては。

一、絶版書房主催による、木本一之、石山修武、市根井立志、山田脩二、その他の展覧会を、春、3月、完成する予定の至誠館なしのはな保育園、さくら乳児院の建築内で開催する。

ニ、その展示会をXゼミナールで取り上げる事をXゼミナール同人に提案する。

三、3月完成の建築を、意識的なスタートとして、わたしのアニミズム紀行の旅を再構成する。

四、その展覧会のプロデュース、他の一部を向風学校の安西直紀に任せる。

バウハウス・ギャラリーから石山の諸作品が日本に返却される頃がベストであろうが、乳児院、保育園の開園前が、あるいは開園早々がベスト・タイミングであろうが、その時期に関しては明日夕方に至誠館理事長と相談させていただく事にする。

アニミズム紀行のリアルな旅を読者、諸兄姉に体験していただけるようなお膳立てを工夫したいと考えた末の事である。

今年もよろしく願いたい。一冊でも多く買ってもらいたい。

アニミズム紀行5は600部近くを刷ってようやく残部二百数十冊となった。そろそろ、例によって残部数を公開する事にしたい。

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絶版書房 II