絶版書房交信


アニミズム紀行6、5のすすめ2

来年、2011年初旬に発行予定のアニミズム紀行6は、創作論の形をとった。NTT出版からの出版物「生きのびる建築」は今の時代、日本という場所への認識論の形をとった。

2008年の世田谷美術館での表現、わたしとしては精一杯の総合性を目指したモノ、及びその際の20数回にわたる連続レクチャーの一部をまとめたのが、「生きのびる建築」であった。わたしの2008年夏の真夏の夜の夢と、シェイクスピアを気取ってまとめた講義の前半部、ほぼ二分の一をまとめたのである。

その第二部は実践編としてまとめるべく仕度したが、どうもそれはかないそうにない。

それで、わたしは活字出版の補完としてのまことに微々たる絶版書房活動から、アニミズム5号「キルティプールの丘に我生きむ」開放系技術論ノート1を出版した。事実上のアニミズム紀行シリーズの船出だと考えた。これは読んで、見て、体験してもらうしかない。で、今度のアニミズム紀行6は、その5号の上に積み上げたモノである。

我ながら非力であるのは充分過ぎる程に自覚しているのだけれど、非力を自覚しても何も起こせるものではない。

非力な人間にも非力なりの、何がしかの妙な力はあるものだ。その妙な力らしきを、アニミズム紀行5で表現したのである。

わたしの初の創作論である、アニミズム紀行6は再び言うがこの5号を基礎にしている。

アニミズム紀行6、5のすすめ1

本日、十二月十九日、日曜日朝にアニミズム紀行6の第一稿を書き上げました。今度の6号は、私事ですが、書いている間に色々な事がありましたので、マア、それは我々皆に共有する事でもあるので、殊更事ではありませんが・・・。それはとも角、書き終えて本当に良かったのです。しかしそんな事は別にして、今度の6号で一番の経験は、一度かなり書きためた分量の草稿の大半を捨てた事でした。我ながら貧乏な才質ですので、本当はかなりの量を、書きためたモノを捨てるのにはかなりの勇気が必要です。しかし、6号すなわち絶版書房出刊6冊目の創作品ともなりますと、流石に書き、描いているモノの価値の何がしかは、かなり自覚できるようになるものです。それで、これは駄目だ、恥かしいモノでしかないと判断して、少なからず自己満足していたモノなのですが、それは捨てました。

良かったと思います。

人生は旅だなんて俗な例えはとうに卒業していた筈ですが、マア、ようやくにして元服くらい、イスラムでいえば割礼ですかねそれ位のところに到達した感じであります。遅い成長で恥の限りです。この6号でようやく、5号で目指した開放系技術世界の描写の一部を達成できたかと自負しております。あくまで自負ですから、覚つかぬ事おびただしいモノがあるのですが、正直なところようやく手をつけた感があります。

アニミズム周辺世界を巡る旅もようやくにして6号まで辿り着きました。

わたし自身の才質に取り得があるとするならば、ただ決してあきらめないと言う事だけだと思う。思うのではなくて、そんな半端な感じ一ツではなく、それはハッキリ自覚しているのです。思いつめた事は決してあきらめない、意固地で今風にはイヤな性格なのです。

で、アニミズム紀行4号位迄は、こんな事やっていて何の私に得になるのかと、少しは思い悩みました。でも意固地ですから、ストックしなかった。アニミズム5号で少し、光が視えたような気持になりました。

光というのは、興味を持って下さる人が、何がしかは居るに違いないの、確信を得たのでした。

正直なところ、4号迄は自分でも何が何だかよく光が視えていなかったのです。

ですから、4号迄は絶対に復刻版は作りません。でも、10年も経つと少しは、骨董品としての価値が出現するやも知れません。5号にして、ようやくわたしのこれからの橋頭堡を築けたかと考えるのです。

6号はその土台の上に建ち上げた創作論です。

つまり、我々は何故、生き続けようとして、作り続けようとするのかの根を探ろうとしているのです。

5号に続き6号も又力を尽しました。手に取っていただきたい。

12月14日、滋賀県立大学で講義の際、絶版書房アニミズム紀行5を3冊持参した。購入希望者いますかと問うたら沢山の手が挙がった。もっと沢山持ってくれば良かったなと考えたりもしたが、重いので、それは大変なのだろう。恐らくドローイングが入ったモノが3冊しか無かったのであろう。直接、本を持ち込んで買ってもらうのは初めてであったので、良い体験になった。

しかし、コンピューターで直接買ってくれる人間の顔を見ないで売るのと、顔をみながら売るのとでは要するエネルギーがまるで違うなあ。直接売るのも、大変だけれど大事なのを実感した。来年は呼んでくれれば出掛けていって行商するぞ。

アニミズム紀行6は82枚で延びがとまってしまったが、何とか今週には良いところまで辿り着きたい。

アニミズム紀行6作りもまとめにかかっている。同時に、ここ数年かけてモヤモヤと準備とも言えぬ妄想にふけってきた、その実践方法も手近にたぐり寄せる事が出来てきた。と思いたい。

当然の帰結でもあろうが、ア二ミズム紀行の辿り着くところはある特別なフィールド作りである。

バリ島の伝統的集落、そしてそれを構成する住宅の全ては敷地内にハウステンプルを持つ。又、各集落は神の山アグン山から遠い海側に共同墓地を持つ。その位置感覚とも呼ぶべきがバリヒンドゥーの文化、芸術を育成する原泉である。

寺院(神社)の位置、そして死者が集団として眠る場所である墓地との日常的な関係が、彼等のコスモロジー、宇宙感覚とも呼ぶべきをはぐくんできた。

つまりバリ島の人々はMt.アグンと共に生きてきた。

自動車やサンダル他の近代製品がそのコスモロジーを破壊した。

一度破壊された深い気持ちの伝統は再建不能である。

この事態は一島バリだけの問題ではない広く世界中の近代というシステムに呑み込まれている地域に、実は共通の問題なのである。

アニミズム紀行5で描いたのはその現実に対する極小のプランである。対する形は、批評でもなくファンタジーでもない。実行のためのシナリオである。それをモデルにしてアニムズム紀行6は創作論の形をとった。対にして読んでいただきたい由縁の断片を述べた。

ベーシーで2時間程過していたら、案の定グッタリ疲れたので近くのホテルで少し眠った。J・L・ボルヘスを読み過ぎなのだろう、ボルヘス症候群の空気に襲われた。眠っている夢をみてしまった。

ベーシーの近くのホテルの一室で、眠っている自分がいる。もう十九時に近いな。十九時にはベーシーに戻らなくてはと眠り切れない自分がコンコンと眠っている。眠っている自分をコレワ夢だと思いながら視ている自分がいる。かくの如きは生れて初めてだったんじゃないか。

あるいは無数に視ている夢を全て忘れているのか。

ジミー・コブの名の名ドラマーが82才で、一昨日ベーシーでライブをやったのを聴いた。

82才でドラムスをたたくのか?と不思議だったが、菅原もT夫人も良かった、凄かったと手放しで話したのを、聞いたような聞かなかったような。ジミー・コブは省エネ型のドラマーだそうで、エルヴィン・ジョーンズがエネルギーそのものであったのとは異り、最小限のエネルギーを使い、それが結果として凄い音やら精気を生み出したものと思われる。わたしは難聴のほとんど耳無し芳一状態の人間であるから、その音の精気を聴き分ける事は出来ない。しかし、彼等の話しを聞きながら、吹くはずもない、ベーシーの暗闇にサッと飛んだのだろうナイフの飛ぶ音が聴こえた。勿論、その音は言葉の音だ。

ベーシーに戻ると、沢山とは言えぬが幾たりかの亡くなった知人にお目にかかる事ができる。

フランク若松や西口教授・・・。彼等は生きている時よりも姿形がハッキリしていて、言葉にも響きがある。

それは良く聴こえるのである。

ベーシーの音は死んだ人間達のおしゃべりなのだ。

マイルスも、ジョン・コルトレーンも、チャーリー・パーカー、カウント・ベーシー、デューク・エリントン、凄玉は皆死んだ。モダーン・ジャズは1968年のコルトレーンでピークを迎えたアトは退廃の道をたどる。

ベーシーだけで彼等に会う事ができる。ここで、人々は死者達の魂の輝やきに、その精霊に触れることができる。ベーシーは実に音の墓地でもある。そういう凄玉達とフランク若松や西口さんと何変る事があるだろう。

皆同じだ。人間は芸術家であろうが、芸術愛好家であろうが何の差別もない。それが芸術の凄いところでもある。

作る人、それを菅原さんの如くに再生する人。そして、それを愛好する人。彼等は皆「ある種族」と言うべきである。

夜は千の目を持つのではない。

死者は幾千万の言葉を吐く。

12月12日 早朝一関

十二月七日現在、アニミズム紀行6は70枚、あえぎながらも辿り着いた。夏に書いた30枚か40枚程だったかを全て捨てて書き直したのが我ながら気持良かった。しかし、これは見栄も入りで、虚勢である。実はアノ中の10枚位を使おうかどうか迷い続けたのである。ゼロから再出発して、ここ迄辿り着くと、アニミズム紀行6は何枚迄で中断するかの決断が迫られてくる。一応99枚という事にしようと考えている。苦労に苦労を重ねているから99というわけだ。

我ながら下らない。

『atプラス』の表紙を年4冊描く事になったので、それも一つの機会として考えたい。何の機会かと言えば、表現の場を得るって事だろう。 6号の目処が大方ついたので、(油断大敵だけれど)頭の何処かに7号の事をもぐり込ませたい。

お陰様でと言うべきか、じくじたる想いの中で何とか3号雑誌の恥だけは逃れられそうで、それだけは嬉しい。

今週末には東北地方へ出掛ける。今、作りたいと考えているモノの実現を目指しての旅になる。その間の事を、毎時毎時の同時進行形で書いて、プツリと中断させるのも良いかなと今は考えている。

アニミズム紀行6に描きつつある事は何とか実現させようと、それだけがわたしの取得と言えば取得だから。

図版、写真の用意もスタッフが始めているから、来年1月には何とか本としてまとめられるだろう。一月二十六日のワイマール、バウハウス大学ギャラリーの展覧会の報告もいずれしなくては。このクリスマスにはわたしの処からの作品群の荷は海路コンテナーでドイツに着く予定である。

私事にかまけて、書房の運営にエネルギーを注げぬ2ヶ月であった。非力は承知だが情けない。ようやくアニミズム紀行6が何とかなりそうになってきた。アニミズム紀行5で描いたキルティプールの丘の終の棲み家から、ゆるりと丘を下る乗り物に乗って現実の都市へ降りてゆく、そこを今書いている。わたしの初期の作品であった「幻庵」「開拓者の家」は精神の、と言うにはおこがましいが、気持の、創作する気持の乗り物みたいなモノであったのを自覚し始めている。創作自体はある種の旅である。わたしはそれを最近、J.L.ボルヘスの著作から学ばされた。

ボルヘス自身はアルゼンチンの作家である。父親もブエノスアイレス国立図書館長であり、彼も二代に渡ってそうであった。又、親子二代にわたり失明した。

究極の読書家であったボルヘスは世界の書物を旅するのを常としていたが、視覚を失い、それは更に異様な書物への沈潜となる。

古今東西、古代から現代にいたる、更にねつ造された事実までボルへスは組み入れて、とてつも無い文体を作り上げた。

誰何言う事も無い詩魂そのものの表現物を作り上げた。

盲目の身体を使役して、それを続けたのである。

ボルヘスの眼がどれ程の闇の中を旅したのかは知らぬ。しかし、その旅は言葉を裏切り、時に空間を、場所を立ち上げようとする、立体創作の現場と連関するモノがあるのではないかと考えるに至った。

それでその連関と断絶の狭間に手をつけようと考えた。

つまり、アニミズム紀行5をベースとした創作論を書こうとしている。

バウハウス・ギャラリーでの展覧会の準備に際し、スタッフが世田谷村の倉庫から「開拓者の家」の模型を発掘した。それは、いささか薄汚れて、ほこりにまみれてもいたが、わたしの眼と頭脳には異様に新鮮であった。

間違ってなかったぞ、の確信を得た。気持の乗り物に再び乗ったのである。

耳管之宮庭園の旅−千夜千洞記」も始めたばかりで途切れている。しかしコレも又、いずれ一つの作品として結晶するだろうと思われる。

耳管、洞穴状空間、庭園、旅という今のわたしの手持ちの四天王がズラリとそろっているからである。

とり敢えずはアニミズム紀行6で一度、それ等も創作論として集約させたい。上手にまとまれば、再び拡散させる。そんな時間が残っているとは思えぬが、少し急ぎたい。

何もかも、原稿ネタはひとりで作っているので、そして更に多くのコーナーを設けたので、時にコーナー、絶版書房通信にポカリと気持が向かない時もある。しかし、わたしのサイトは全てわたしの責任でやっているので、多くの人間の助力を得てはいるが、その趣味、傾向の根幹はわたしが決めている。恐い事がある。ネットは酷薄である。絶版書房交信が更新されぬと、アニミズム紀行はすでに中断されたのかの声が遠くから、近くから聴こえるのである。

それで今日は、この通信コーナーはまだ続けてゆきますのつぶやきだけをお伝えしたい。

それから、

今少しづつ、いきなり急には出来ませんが、アニミズム紀行の読者に、ささやかな手描きの便りを差し上げ始めている。アニミズム紀行が手作りで、わたしのドローイングも一品一品の手作りだ。始めた時から考えてはいた事ですが、何号か迄進め得た時には、読者の一人一人と手描きの交信をしたいと考えていた。それで、読者数がほぼ手描きの便りを書くリミットに近づいてきたので初志を貫く事にした。まだ70名程の人に私信を出しただけで、出し終るのは来春くらいになるだろうとは考えている。石山から私信届くのはイヤだという人も居るだろう。そんな方々はわずかなりとも置いてある、GAその他の書店で買い求めて下されば良いのでご安心を。

絶版書房を続けるのも、この私信を続けるのも実は大変です。自分でも驚いたのですが、肉筆を書くに必要なエネルギーは大きなものがあります。恐らくは、受け取る読者の方々のエネルギーも少しは必要なのだと想像しているのです。すでに何通もの返信をいただき、ようやく本来の絶版書房の意味が出現しているような独人よがりの気分にもなっている。用心するにこした事はない。これはゆっくりとやる事ですので、読者の皆さんにはいつか必ず私信が届きますので、どうぞ悪しからず。

10月13日 石山修武

ドリトル先生動物園倶楽部の会員からの入会申し込みや便りはとても嬉しいものがある。郵便箱のフタを開けて、底に封筒が横たわっていたりすると、気持がポワーンと音を立てるような気がする。自分しか聴けない音である。封筒他の姿だけで、アッこれはドリトル先生だとわかる。そういう柔らかさがある。

たまプラーザに自分で自分を幽閉している、芸術家山口勝弘先生からの便りも、独特な趣がある。先生は左手が不自由であるので、手紙も葉書も全て右手だけでやり遂げる。左手で紙を押さえられないので、紙の角度は当然少しずれる。そのズレと字体のバランスが何とも言えずホレボレとする位に良い。

山口先生しか描けないスタイルになっている。

わたしは山口勝弘先生が病を得て、たまプラーザに引きこもり、それでも一向に表現運動を止めぬのを目の当たりにして、それでほとんど生まれて初めて芸術家らしきの存在そのものを視た。それが無ければ相も変らず、芸術家とか詩人なんて馬鹿にし続けていただろうと思う。

何度か入口だけは紹介したが、絶版書房のネーミングのオリジナルは芸術家山口勝弘である。先生が砂時計の詩を残した友人と共に始めた本屋の名前であった。それはいずれ詳細を記録することになろう。

コッポラのゴッドファーザーの2代目は非情な凄味があったが、わたしは非情でも、有情、空情でもなく、ただの惰情な小人物である。ただ、山口勝弘先生が考えついて、始まりをやってみせた絶版書房のネーミングの凄さだけはすぐにわかった。この名前さえあれば何でもできると直観した。当然、大事なのは今の時代に、である。

芸術の価値が金銭と同様に相対化され、売買されるような今の時代だからこそ、絶版書房のネーミングは光る。

と、思い込んでいる。一人で思い込んで誰にも相談せぬ。

だって、これは芸術なんだから、一人で思い込んで一人で遊び切るものだ。

9月26日 日曜日 17:00-19:00

佐賀県嬉野市嬉野町、嬉野温泉・大正屋で淡路島の風の又五郎こと、山田脩二さんの出版トークショーがあります。写真集「山田脩二 日本旅 1961-2010」が評判が良いようで、それに勢を得ての事でしょう。

佐賀や福岡、九州北部の方は行ってやって下さいな。

参加費は3000円だそうで、これには入浴+弁当+ドリンクがついています。

大正屋の風呂は掛値無しに素晴しいので、これは格安でしょう。どうせ、トークショーと言っても山田ハンが相も変らず酔っ払って、ベロベロトークでしょうから、真面目な話しを期待してゆくと馬鹿を見ます。筋金入りのただの酔っ払いの生態が観察できます。もしかしたら弁当はいいかも知れません。

大正屋の九十何才かのオカミと山田ハンは怪しい仲らしく、弁当は奮発したモノが出るのではないか。 まさか、コンビニ弁当ではないでしょう。ドリンクはこれはカンビールでしょう。2、3本自分で持ち込んだ方が良いかも知れません。

あんまり、大正屋にめいわくをかけてはいけないのです。

ところで、わたしの方の絶版書房アニミズム紀行5の売行きの方はどうかと言えば、まだ残り100冊を切りましたとは言い切りたいのですが、嘘になるので言えないのです。しかし、確実に毎週ポツポツと出ています。

山田脩二を習ってトークショーでもやりたいのですが、そんな知恵も力もわたしにはないし、大体、90才のねんごろなオカミとの噂も実も残念ながら無いのです。

しかしながら、こうなってくるとわたしも負けてはいられないのです。「山田脩二 日本旅 1961-2010」対「絶版書房アニミズム紀行5」の激しいつばぜり合いの構図がハッキリしてきました。

小沢が勝つか、菅か?どっちも負けたら、という位の競争になって参りました。

時々、この勝負のプロセスも面白いから報告したいと思います。エッ、面白くも何ともないですって、それを言ったら人生おしまいです、おさらばなのです。どんなに小さい事でも楽しまなければ時間を捨ててるようなものなのです。

トークショーに行く人は要予約です。

予約〆切は9月22日 大正屋トークショー係

電話 0954(42)1170 メール info@taishoya.com

畏敬する芸術家山口勝弘氏より連絡をいただいた。

以下に示す。公開に関して本人の了解は得ていない。又、怒られるかも知れぬが仕方ない。出来得れば皆さんの御力を得たい。かくの如き展覧会、開催をしてくれる場所の情報があれば得たい。これ迄も度々お知らせしてきたが、メディアアートの巨匠山口勝弘は今、川崎市多摩プラーザに自発的に断閉状態を決め込んでいる。しかし、日々は、毎週、月々に新しいアイディアは湧き出ずる事止まない。で、このたびはほとんど極限状態のアイディアを生み出すにいたった。何とか、どんな形であろうと実現させたい。いかなる情報でも寄せられたい。

2010年8月16日 石山修武

石山修武先生へ

最近のエコブームに逆らって、太陽エネルギーが全く無くなった時、この太陽系宇宙はどうなるかを考えた。その断末魔の時はもちろん地球の最期になります。そのための全人類の祈りを行う祠(ホコラ)計画を、どこかの画廊でぜひ発表したいのです。その計画イメージは出来ております。その祠は当然人びとがこの場に集って行われるものです。

私の考えでは地中海か日本の瀬戸内海を考えました。

何卒ご助力いただけると嬉しいことです。

10年8月18日 山口勝弘



カラーコピーが無いのでお暇な時お出掛け願います。

菅原正二様

大丈夫ですか、この暑さ。うちの猫もかなりまいっているようです。

バッハのクラーヴィエ曲集の平均律についてモダーンジャズのある部分に影響を与えましたか?否か、知りたい。

八月六日 石山修武

石山さん 8/6 ベイシー 菅原正二

バッハ自体がモダーン・ジャズだった可能性があります。アドリブ展開。音譜の速い上下運動。チャリー・パーカー、ジョーン・コルトレーン。

今夜は花火大会。すぐそこの磐井川で。ALSで寝たきりの高橋さんを車椅子ごとアパートの庭に出し、みんなで見上げます。そこは打ち上げ場所すぐ裏手なので花火の爆発音がJBLのスピーカーの如しです。やっぱ空気の振動ですね、脳に効くのは。だからといって「原爆」や「水爆」はちとやりすぎだったと思います。物には限度。

P.S.

ゆうべ、パリから感じのいい若いカップルが見えました。女はローラ、男はディヴィッド。女はアイルランド系、男はスパニッシュ系。苦労もあったんでしょうか「日本人は一民族でいいですネ」なんていってました。

午前二時頃まで遊んでいきました

今日は「田沢湖」に向かったはずです。

パリくんだりから日本まで来て「田沢湖」見たってつまんないと思うのですがネ。ま、男女のことに関しましてはワシどうでもいい季節に入りましたから。

このところ毎晩のようにジャン・ピエール・ベルモントのフランス映画をTVで見ちゃって「下らん」と思いましたね。

書きためているアニミズム紀行6の一部を公開しようかと考えている。読者の皆さんから少なからず、6はいつ発行されるのかの問い合わせがある。おまけにドリトル先生動物園倶楽部を創設したり、品川宿の壺振り猫の噂などもあり、アニミズム紀行の行方はどうなるのか?と心配されているのである。誠に面目ない。

昔、淡路島の山田脩二の紹介で、落語家の枝省さんにインタビューした事があった。人をそらさぬ人で、とてもサービスしていただいた。凄いな、この人は。と思ったのはハナシのネタの育て方についてであった。枝省さんは言った。

ワタシ(と言った記憶がある。ワシでもワイでもなかった、アタシでもなかった。枝省さんの話しはすみずみまで、実にキチンとしていた。アメリカに英語で落語を試みたりで、柄谷行人や中上健次が言語の壁を意識して日本脱出を試みていたのと同様な考えがあってのことだった。この人には何か本格的なところがあった。志が高過ぎるとそうなるのだ。そのワタシの枝省さんは言った)

ワタシはいつもハナシのネタは六頭立てで走らせています。ハーイ、同時にです。一頭立てではありません。六つのネタをいつも同時に飼いならしていますのや。

わたしは、六頭立ての駅馬車が砂煙りを巻き上げてテキサスの荒野を走り抜ける光景を一瞬思い浮かべた。

枝省さんは、いつも全力で才能そのものを蕩尽しているのだと知れた。六頭立ての馬車は遠く迄走り続けられるのだろうかと思ったのはその後の事である。

枝省さんはいきなり自死を遂げた。

あの生き方はチビリチビリと生きながらえて名人上手になりおおせる生き方では無かったなと思ってからの事だったろう。

人間はいい加減な者であるから、他人の生死の境なぞは、それ程厳密なラインを引いているわけではない。

で、わたしの絶版書房のアニミズム紀行の行方である。わたしには六頭立ての馬車を仕立てる才質はない。馬車を複数仕立てたがる趣味はあり過ぎるのだが、それを一方向へ向けて走らせる、コレは明らかに才能であろうが、それは、わたしは無い。それは自覚している。

あいつは5号でおしまいだったとは絶版に、イヤ、絶対にないので、今しばらく6号はお待ちいただきたい。

キルティプールの丘 古建築保護計画 
絶版書房出版 アニミズム紀行5 キルティプールの丘にわれ生きむ解題

ネパールの首都カトマンドゥの西南に在る、丘上都市キルティプール。

ここは北の端にシヴァ神殿、南端に仏教徒のストゥーパが共存する独立した環境性向の強い山岳都市である。独立した性向が強いと感じているのは、わたしの思い込みからである。

ここには何度か足を運び、又、近くの丘でワークショップを開催したりの体験がある。そこから強い思い込みが生まれた。

そろそろ、自分の人生のまとめ、つまり終りをデザインしなければならないと考えて、そうだな何年くらいになるか。別に身体の何処かが悪いと言うわけではない。気持にはダメージを受けないわけでもないが、総じて元気なようだ。 でも、いずれは死ぬ事は歴然とわかってきている。人間は皆、死に向けて生きているという現実がある。

で、キルティプールの北端のシヴァ神殿の北斜面、キルティプール地方事務所の少し上にある陽当りの良い小広場に面した僧院を完全に修復、復元するのをわたしのライフワークとするのを決めた。カトマンドゥ盆地、あるいはバクタプール、パタン等の小都市には国際的な修理、復元団がすでに根をおろし、着実な成果を国家ぐるみであげている。わたしの関与するスキマはあり得ない。いくつかの修理、復元現場を調べた。特にその工事費を調べた。驚くべきことに、見事な小王宮クラスの復元総費用が日本円で1000万円台であるのを知った。ネパールはアフガンが今の状態になる前は、カンボジアについで世界最貧国であった時期がある。

これなら、シュリーマン程に念入りに準備して財を築き、古代遺跡バビロニヤを発掘するに足る財産をため込み、散じる必要はなさそうだ。

でも、金が無ければ出来る話ではないのは知れている。

で、わたしは着々と金を用意し始めようとした。しかし、当然の事ながら絵に描いたモチであり続けている。

しかし、あきらめはしないのである。人間、やはり生きている間に一つ位良い事くらいは成し遂げてみたい。

残念ながら、今現在は色々と金が必要になってしまったので、すぐには手がつかぬが、幾らとは言えぬが、少しゆとりが出来たら、この計画はキルティプールの建築の取得も含めて手をつけてゆきたい。

カトマンドゥ在住のタカリ族の豪族、ジュニー・シェルチャンとの連絡も再開している。今のネパールの政治は安定していない。良くない状態だと言った方が良いだろう。でも、完全に平和で安定する迄、待てる時間がわたしの方に残っていない。

この事業は現地で始めて、完成はしないだろうが、次の人にバトンタッチできる迄には10年程の時間を要する。

80才迄にはあるところ迄辿り着いている必要がある。

アニミズム紀行5で書いたのは、古建築保護、厳密に言えばウィリアム・モリスが言うところの、建築家達による再生の名を借りたあいまいな創造ではなく、厳密な意味での修理、修繕に出来るだけ接近した考えを、わたしもトレースしたいと考えている。

ただ、わたしは厳然とした創作者でもあるから、その古建築保護の現場に隣接して、創作の現場も作りたいと考えているのだ。

その現場はわたしの終の棲家になるだろう。そうあって欲しい。

モリスはジョン・ラスキンよりも能動的な作家であったが、深くはラスキンの教示を思想のベースに置いていた。

その思想とは、古建築の価値は、その建築を歴史の中で共に作り上げた、風雪による熟成にある、作り上げた時間のプロセスも又、古建築の価値であるという事でもある。

この計画に参加してくれる職人他はアニミズム紀行5で描いたようにカトマンドゥ盆地の職人達を想定している。

しかし、日本の友人達との共同も続行したい。

日本の職人、クラフトマン、アーチストの友人達の何がしかも、その心構えだけは共同されんことを願いたいと思う。

アニミズム紀行5で描いたのは、わたしのイメージでも、ファンタジーでもない。わたしのリアルきわまる計画である。一読を願いたい。

石山さん

過日は「山」と「山」のあいだの谷間のところに訪れてくれて、どうも。

でも、あれがほんとの日常であります。6/5日(土)の坂田のライヴは、結果として満員御礼となり、坂田は喜んでました。田中泯というダンサーも客として来てましたが、翌6/6日(日)「達谷窟毘沙門堂」にて坂田と田中泯とのデュオに付き合いました。好天に恵れ、外の緑と小川のせせらぎが久しぶりのいっぷくでした。ライカは置いてったのでのんびり出来ました。

坂田が「石山さん来てないの?」って残念そうでした。まあしかし、私は石山さんの判断は全てドーブツ的“勘”であると思っているわけで、いいでしょう。

「大地震」が忍び寄っておるようです。

6/14 ベイシー 菅原正二

ベイシー菅原正二様

坂田明ライブ勿論気にしてならなかったのですが、体調気力共に低落気味で、考えた末欠席いたしました。坂田にはたった一才の年長者として失礼したとお伝え下さい。

正直なところベイシーのベストタイムは、あんまり客の居ない、閑散として、静かさだけが身にしみわたる、貴兄の言う谷間の刻だと、わたし奴は考えるに至りました。これからもそんな刻を狙ってうかがう所存ではあります。

人生はアッという間の、まばたきにも似た、まさにモノだなと今は知りますが、アト何度、ベイシーを訪ねる事ができるのかと考えるとボー然と自失をいたします。

それ故にこそ、あんまり人の居ないベイシーを訪ねたいと思うのであります。

六月十四日 石山修武

石山さん

このあいだはわざわざどうも!

全く盛り上がらないところが妙によかったです。パンをつまんだのも、石山さんのヒラメキに感心しました。あそこにラーメンではあんまりです。

一週間も探してるんですが、ハンク・ジョーンズのジャケット用写真のフィルムが全く出てまいりません。「クリスタルCD」は小さいからあれでよかったんですが、七月にアナログLPを出すことになり、やはりフィルムを、と思いましてムキになっております。で、そのことで頭を占領されてます。昨日、今日とまた混み出して来ましたが、私としては全く不本意な混みようです。迷惑とさえ思います。

坂田のチケットは売れてません。これも甚だ不本意なり!!

ベイシー菅原正ニ

石山修武・春の午後のレクチャーを聞いて

2010年4月17日

奥山ちとせ

ここ一ヶ月くらいの間に、茂木健一郎×山下洋輔の「即興狂詩曲」という対談と石山修武教授のレクチャーとを聞く機会があった。建築に関しても音楽に関しても全くの無知であり、普段非文化的な生活をしている私がこのような催しに出かけることができたのはそれぞれ別の友人の誘いのおかげであったが、意図的に組み合わせたような相乗効果が発生し、私にとっては深い経験となった。

1)独自性。自由。

石山教授は、若いころから組織には馴染めないことを確信していたといっておられたし、確立した世界での後追いにはなりたくないと思っておられることがレクチャーの随所に感じられた。他の方の発想を高く評価される時の理由を聞いていても「常識を超えている」のが大きなポイントである。徹底して囚われることを避けようとしておられる印象を受ける。例えば:

・川合健二氏(http://www.acetate-2d.net-bookdate/008/008.html)に心酔するが、同じ道を進めば彼の小型になるしかないと異なった方向を志す:

・屋根を載せるのは(恐らく陳腐だから)しないと思っているのだけれど(恐らくその観念に囚われるのも嫌だから)要請に応じて屋根を掛け、その良さも認める:

・オタクとかニートとか幼稚な学生等も「しょうがない」ではなくて大きな可能性を持った存在と注目していこうと考える。

御自分が何かの固定観念につかまり始めているのではないかと思うとそこから離れようとしておられるように思えた。

山下氏も子どもの頃から「譜面に従って弾くのは嫌だ」と思っていたし、譜面通りに演奏する世界には自分がどう転んでも適わない猛者達がいることも実体験で知っていてそちらには行かなかったと語っておられた。「本来音楽は自由なはず」に徹底的にこだわる。ひじで鍵盤をうちもすれば、古ピアノを海岸で燃やしながら演奏してみたりもする。でもただ無茶をやりたいのとは全く違う。より自分の求める音楽に近づくためには何でもありだからプロの演奏家になってから音大に入って勉強したり現代音楽でわざわざ無音の譜を書いた人のことに興味を持って調べたりするのである。

お二人とも「規定の秩序に支配された世界では生きられない」という明確な意識があり、その外の世界で自分を表現したいという強烈な欲望がある。そして自由に徹底してこだわるから既存のものをテーゼとした場合のアンチテーゼたるものに凝り固まることもない。

2)意図的にリスクを取る。緊張感のもたらす快感。

アート的な一回性、独自性と規格化された反復可能性、大量生産性の両極に引っ張られる緊張感なしでは生きられないと語る石山教授。規格化した住宅の設計では「あのままやっていたら今頃六本木ヒルズにすんでる」というほどの成功を収めながら、そこには留まらず、また純粋アートにも向かわない。矛盾する同要素を意図的に抱え、これまでの作品を上回るものはできないかもしれないと感じながらも、さらに上をいくものを生み出すことに挑戦しつづける。

山下氏は即興演奏について「そりゃ恐怖は感じます」と語っていた。次の日の演奏があまりに不安で「カムチャッカ半島ににげるぞ!」と言ったのを当時まだ幼かったお子さんが本気にして覚悟を決めていたというエピソードも紹介された、「自分の演奏に感動して涙することがありますか」という会場からの質問に対して「それはありません」。共演者やそのセッション流れを感じ取りながら瞬間的に音楽を生み出していくという緊張感に満ちた営みであり、失敗することもある。音楽家として人生を生きることは本当にリスクが高くて大変だと痛感しているのでお子さんには勧めなかったとも言われた。

お二人ともわざわざ不安定な緊張を伴う生き方を選択し、もう駄目かもしれないと思いながら、よし、また次と向かっていく勝負師。

3)道具立て。技術。

石山教授に対して「どこからああいうデザインが出てくるんですか」という質問があり、石山教授は、つまるところ全て模倣だが、すぐああこれは○○の真似だって分かるようじゃ駄目なんだと言っておられた。そしてレクチャーの中では実際要素として様々なものが挙がっていた。(古墳、インドの洞窟寺院、独特のパースの使い方などなるほどと思った。)一方で建築であるが故の制約というか所与の条件もある。まず土地。そして予算の制約もあれば施主の意向もある。自分の目指す二つの矛盾した方向に引っ張られるというだけでも厄介であろうが、その上で現実の様々な条件を勘案し、盛り込んでみたい要素を検討し、建築の知識と技術でこなして独自のものに仕上げておられるのだと思う、豊かなアイディアの蓄積と確かな技術的知識があってこそ叶うことである。

山下氏はどうやって即興をやるかを尋ねられて「どれだけ引き出しを持っているか」がよく話題に上ると言われた。また、実際にその場での即興セッションを元にどういうことを考えて演奏したかを説明してくださった。「典型的なラテンのリズムで来るかな、と思ったら違ったね」「Happybirthdayを織り込もうと思った」「これはバッハがよく使う手なんだけど」などといった具体的な 戸の解説も入り、非常に興味深かった。いきなり天啓のように何かが出てくるのではなく、ある程度予測して手持ちの中から譜楽を準備しながらもその場に応じて臨機応変に様々な引き出しを駆使して、流れを見ながら呼吸を合わせて共演者とともに一つの音楽を作っていく。

お二人とも自分の表現したいものを持っているからこそ、道具立てを整え、技術を磨いている。

先達が積み上げてきたモチーフや方法論も引き出しに加えて充実させ、自分以外の意志で決まるものを相手にしながら、全体を見切って自分の作品に仕上げていく。

自分の表現したいものを形にするためにはそのたえの道具と技、そして状況を見切る眼力が要る。普段からの修行がものをいう。

4)持ちかけられたらやってみる

石山教授への宗教施設の依頼、山下氏に来たラプソディーインブルーの話についてはお二人とも「私なんかにそんなもの頼んでいいんですか?」という感想をもっておられた。「この人、何か勘違いしてるんじゃないだろうか?」と思いつつ「私にできるのはこんなことですがそれでいいならやります」と答える。

自分には見えないが他の人に見えているらしい自分の可能性を否定しない。

5)おまけ。坂田明、広島そして私

石山教授が「坂田明の椅子」を紹介されたときに、不勉強なものだから驚いた。坂田明氏と言えば山下トリオ。そして広島出身である。

強引に私事に結び付けて恐縮だが、大学卒業翌日に結婚して以来1999年一杯まで16年間広島に住んでいた。主婦であり通訳者であるという今の私のアイデンティティーが誕生した場所である広島は私に取って第二の故郷である。広島の平和団体関係者には知り合いも多いので、きっと誰か知ってる人が関わっていたに違いないと思ってひろしまハウスには勝手に親しみを感じている。

私は芸術的活動や創作活動には無縁だが、通訳の仕事が「勝負」であり、その緊張感がないと生きられないと感じてきた不良主婦である。その意味で、おこがましくも石山教授にも山下氏にも自分とつながるものを感じ、挑み続けておられる御姿に非常に勇気づけられる思いだった。

このような機会を与えてくださった方々に心から感謝しつつ、いただいたエネルギーとヒントを糧に私は私なりに精進していきたい。

 奥山ちとせ様

     石山修武

とても良い、というよりも有難い通信をありがとうございました。

デザイン、建築、他の分野の中に閉じこもる人をわたしは好みませんので、あなたの印象記はとても嬉しかった。

でも、一言だけ。そんな余計な事を言はぬが華なのですが、言はざるを得ないのもわたしなんです。

山下洋輔さんのサウンドをわたしは残念ながら聴いた事がありません。

でも、本能的な喰はず嫌いなのです。

山下さんのところにいた坂田明は友人です。初めて会った時から、友になりました。そして、坂田のサウンド(表現)は今のわたしには欠かせないものになりました。一度、CDでも何でも聴いてみて下さい。ミトコンドリアとか諸々の突走っているのもマアマアですが、ドボルザークの家路を坂田なりに吹き変えたものとか、赤トンボとかの、思い切り、ノスタルジックなものも大変良ろしい。

だって、ノスタルジイこそ、人間本来所有している深い宿命的な骨格、逃れられない、精神の構造そのものだと、思い知るからです。

深いノスタルジイは裸形の歴史に迄辿り着くのではありますまいか。坂田は何年か前に、一度ブッ倒れて、死にかかり、それから復帰しました。それから、彼は突走るだけの人ではなくなりました。祈り、泣く人になった。それこそ表現されるべき音の深みの底だと思いませんか。

マ、それはそれとして、本当に通信ありがとうございました、通訳の仕事は芸術ですよ。単純な創作らしきよりも余程、複雑です。

御健闘いのります。

石山さん

過日、NHKのテレビで「森の建築家ビーバー」という番組を観まして、改めて感動しました。鳥に蟻にしろ、すべての動物は「生殖本能」と「棲み家」は誰に教わることもないDNAのプログラミングによる必死の作業なのでありましょうネ。ヒトもドーブツですから元々は同じだったに違いありませんわね。「宗教」がいけません。「カテドラル」や「寺」は人心をまどわす豪華な「セット」としか思えません。なんのことはありません「ベイシー」も「セット」です。商店街なども、このように不景気になって取り壊された跡地を見ると、以前なんの店があったのかも分らぬほどのただの空地で、やっぱ「街」も「セット」だったと分かります。西部劇のセットとさほどの変わりはありませんね。されど、原点に戻れば、ヒトの造るモノで一番大事なのは「建築」である。と思います。

4/25 ベイシー 菅原正二

石山さん

昨日は奇妙に混み合って、晩メシ喰い損ないました。よくあることなんですが。

で、日曜日の今日は多分メシ喰うこと不可能と思い、珍らしい行動に出ました。出社前にタバコ買うついでに、コンビニでオニギリを十個買ったわけです。シャケとスジコをそれぞれ2個ずつ。ところがです。今日に限って昼は満員でしたが、六時頃にパタッと客が途絶え、ポカンと一人きりになったのであります。

これからは、その気になればその辺で晩メシ喰えるという状況に陥ったことがまずい。せっかく用意しておいたコンビニのオニギリを無駄にするに忍びないからです。で、この場合、正しい選択は?と考えた末、忙しくもなく誰も居ない「ベイシー」店内で一人、非常用のそのオニギリを2個食べました。喰っちまえば、これが正しい判断であったと胃袋が言ってます。脳の迷いと、胃袋の都合は時にバラバラですね。

4/25 ベイシー 菅原正二

石山さん

昨夜、ガンガン盛り上がってるところに、一人、若いガイジン入ってまいりました。異国の地で一人は寂しかろと「お前、どっから来たのか?」と声を掛けると「テキサス」と。「こっちに来て一緒に飲むか?」というと、もちろん嬉しそに丸テーブルに移動。「仕事は?」と訊くと「IT関係」(ナルホド)「と、”SAKE”」というではありませんか。酒が好きなのかと思って地酒の「関山」を出すと、ひと口飲んで「ウン、ピアーで旨いけど俺のSAKEの方が、よりフレイバーだよ」といって小ビンに入れて持参したテキサスの地酒をみんなでひと口づつ口にふくみ「ウム」と唸る。「にごり酒」なんですが、手書きのラベルに

Nuevo Sake, Austin, Texas

Texas Rice Wine C

と書かれてました。これから、「ニイガタ」「アキタ」と酒処を巡礼するというから「お前、スパイか?」。

石山さん、ヤバイですよ。もォ年老いたトジなんていってる場合じゃあございません。テキは、IT関係のメリットを活用してコンピューターで日本より旨い「日本酒」を造って日本に売る気らしい。

でも、そいつ、アップルのケータイみたいなのポケットから出し「これでも音楽聴けるんだけど、ここで聴くような音は無理です」と素直な一面も見せました。心のやさしい若いもんだと私は思いました。

デジカメといい、私はほとんどすべてのものに降参「!」であります。

これ以上生きてる価値ないと思うに至っております。何もかにもがです。

クソ面白くない時代に、急激に突入いたしました。

4/25 ベイシー 菅原正二

ベイシー店主 菅原正二様

しかしながら、そのテキサスの若い衆が一人でベイシーに来るのは決して悪いばかりの時代ではありません。わたしが、今、東京の若い衆に言い続けているのは、まさに今は産業革命に数層倍の革命期である。時代が白から黒へ、山から谷へと急転している。そして、当事者はえてして、それに気付かぬ者なのだ、とそんな事を伝えております。菅原さんはそれに気付いているのです。それで絶望しているゾと言えるのです。絶望しない奴はただのバカ者です。

でも、JAZZもJBLも、実にうらやましいのはですね、歴史が浅い、つまり若い文化という事につきます。わたしがつかまった、建築なんてのはコケむして古いのです。菅原さんは早大ハイソ時代にJAZZに出会って、しかし、幸運なのはその出会いはJAZZの生まれた時代とそれ程の時差は無かった。若々しい出会い、生まれたバカリで、しかも絶好調の頃にJAZZにもJBLにも会えた。私の分野の建築なんてのは、日本では安土、桃山、室町くらいがピークで、それから下り坂です。世界では、やはり新しいところでは一九五〇年 ~ 六〇年くらいが絶頂期で、アトは下り坂です。古いところでは日本の鎌倉時代より古い、ロマネスクからゴシック前期が絶頂期だったかも知れません。今のモノはほとんど、クズですな。ないものねだりの眼から視れば。そんな世界から眺めれば、実にベイシーはうらやましい限りです。何しろ若々しい世界の中にいるのですから。

四月二十五日 石山修武

石山さん

「駒草出版」の芳賀真由子さんという担当者から、石山さんの今回のブログ、全部プリントアウトしたFAX貰いました。担当者は大変喜こんで「今週はこれでテンション上がりました!」と。ウーン、ぼくはまだ全然目を通しておらんのであります。と、いうより、今朝からモーゼンとスピーカーと格闘しておりまして・・・とにかく未だ続行中という未完成交響曲ぶりです。「絶望した」といいながら、さりとてあきらめてもいないところがぼくのズルイところです。言い方を変えますと「もう駄目だ」「オシマイだ」「落城だ」と公言して人を油断させ、水面下でシコシコ潜水艦やってるみたいなヒキョーな手口で生きのびようという手段なんですネ、これは。死ぬまで治りません。

4/19 ベイシー 菅原正二

ベイシー店主 菅原正二様

今度来たと言う朝日新聞一関支局長らしきは、網走から流れてきたそうですが、いかにも御用心ですな。どの新聞社も支局長は曲者が多いようですし、網走、一関ラインというのはいかにも匂いますぞ。恐らく、その前はサンクトペテルブルグ支局かに幽閉されていたのではないか。凍りついた運河を視つめながら、暗い声でインタナショナルかなんかつぶやきつつ小声で唄い、ああ革命いまだし、なぞと洩らしているのを、上層部が小耳にはさみ、サンクトに置いておっては危い。ドストエフスキーの例もあると、あわてて網走刑務所担当とし、それでも改宗せずに一関に流刑という事になったにちがいありませんぞ。

この支局長には暮々もコルトレーンの「至上の愛」なぞは聴かせるべきではないでしょう。とんでも無い誤解をして今はありもしない、コサック騎兵隊やら赤軍の従軍記者を志願しかねないからです。マ、気楽な日野テルマサくらいでお茶をにごすべきでしょう。2代目のU氏は今、宮崎だそうですが、一関から宮崎に移動とは誠に厳しい。恐らく、今度会う時は完全なボケ人間になっている事でしょう。

わたくしも宮崎にいかにも宮崎人間の友人がいて、彼はもう生れついてのボケです。頼みもしないのに家に絵やら何やらを送り続けて、もう百点程になりましょうか。わたしんところは彼のガラクタの倉庫みたいなものです。U氏もすぐに宮崎ボケしますから、一度是非、宮崎市の現代っ子ミュージアムを訪ねるように言ってやって下さい。アッという間に宮崎人間、ピテカントロプスボケタリヤンになる事間違いなしです。

しかし、朝日新聞も倒壊気味とは言え、いいコラムのスペースを作ったものです。これならも少しもちそうです。

四月十九日 石山修武

石山さん

大作!

生きのびるための建築』ちょうだい致しました。−−−まあ、よくも喋ったもんだと感心します。ヘロヘロだといいながらも、これを“底力”というのでしょうか。

それにしても、あの夏の世田谷美術館はよかった。まぶしいくらいの光景でした。

あのような空間がTOKYOにあって、田舎にないのを残念に思ったほどです。

ぼくの失敗は、田舎にありながら正しい「原っぱ」に家を建てないでしまったことですかネ。だって、いきなり山ん中といったって不自然だし、不便だったので仕方がないといえば仕方がなかったんですが−−もっとそのことを大事に考えなかった不覚を今にして思います。

6/5 日(土)坂田のライヴの折、大いにゲロを吐きましょう!お疲れさんでした!

4/17 ベイシー 菅原正二

菅原正二様

菅原さんはコンピュータを一切やらないので知らぬでしょうが、実は送っていただいた(出版社から送ってきました)『 My Days of Wine and ROSES with JBL 』の書評らしきを、わたくしのサイトに勝手に書きました

ジャズ喫茶ベイシーの選択とは文は同じでも、全く異なる印象があって、とても新鮮でした。

要するに息の長い本ですね、コレワ。

わたくしも歳をとって読み方が変ったのでありましょうが、とても良いリズムで読めたのに驚きました。この本には年月を経ても変らぬモノが書かれているのだと思います。

四月十八日 石山修武

「ぼくとジムランの酒とバラの日々」駒草書房 1800 円+税

MY DAYS OF WINE and ROSES with JBL. Shoji Swifty Sugawara JAZZ SPOT BASIE.

何とも、手ざわり、目ざわりのイイ本だ。持つだけで嬉しい。わたくしはジャズ者では一切も二才も無いけれど、著者の菅原正二のファンである。何故、そうなったのかは、記憶を掘りおこしても定かではない。

気がついたらそうなっていた。

コンクリートから人へ、が現政権の唄い文句である。わたくしは建築畑の住人であるので、それだけで時代からとり残された風がある。別にそんな風潮ぐらいに振り回される程間抜けではないから、バカ言ってらぁ位のものだが、コンクリートを標的にしたのはうまいなぁとも思った。木から人へであったら話しにもならない。マ、そんな建築業界的ジョークはどうでもよろしい。

ベイシーである。菅原である。酒とバラである。

題名の一見享楽的な、雰囲気。酒と女の事は一切この本には登場しない。菅原はそれ等に無縁な唐変木ではないのだろうけれど、人間の芯は求道者みたいな者である。どんな業界にも軟弱な輩もいるし、ハードな奴もいる。そして菅原の如くに求道者の水準に達してしまう者も居る。菅原の業界は"音"である。しかし、彼は元ミュージシャン(ドラマー)であっても、俗に言うミュージシャンではない。ミュージシャンの生み出す音を取り次ぐ、仲介人である。東北一ノ関で神話的な場所となった「ベイシー」の名を持つジャズ喫茶のオーナーである。

神話は生モノよりもはるかに凄い音がそこに在る、である。今は生モノの音、つまり風の音、雨の音、川に流れる水の音に人は耳を澄ませる事はほとんど無くなった。TVからのカン高い声、ケイタイの音、i ポッドの音というよな人工の音が溢れ返っている時代だ。

菅原正二のジャズ喫茶ベイシーは、その人工の音、より正しく言えば記録された音、レコードに貯蔵された音を掘り出して、我々に届けるうちに、その中継ぎの音が、いつの間にやら生モノの音を超えるモノに育ってしまった、奇跡とでも呼ぶべき場所なのである。

わたくしは難聴気味なので音にはまことに弱い。そんな者でもベイシーの音の凄さを感じる事がある。長い附合いになるから、菅原の人間を介して、音を聴く。あるいは菅原の考え方、信じ方を通して音を聴かざるを得ない。なにしろ難聴なんだから。

心眼というのが名人らしきにはあるらしいが、わたしのケースは心耳で聴くのである。実ワ、人間の本性はヴァーチャルなモノでもある。血や肉や骨、そして細胞の数々によって人間は生きているのではない。それ等の生モノ全体が生み出す、気持ち、考え、ちょっと大ゲサであるが思想らしきで生きている。考えるが故に存在しているのである。実ワ、子供でもそうなのだ。

菅原正二のベイシーはその事が歴然としてわかる場所、つまりは情報時代の最先端に今、ある。つまり、明らかに時代遅れとしか思えないレコードに仕舞い込まれた音を、レコード針をセットしてアンプを介してスピーカーから再生する。とても古いやり方によって再生される音が、時に生モノの音、そして今の時代の最先端技術らしきによる音よりも、余程リアルで、しかも崇高さまで獲得してしまったのである。

その、顛末をこの本は菅原の肉声の如き活字で良く表しているのである。

ジャズ喫茶も活字出版も、気がついたら今は時代遅れのモノになった。言わゆる、負け組なのである。建設と同じだ。しかし、なんである。コンピュータやら i ポッドやらケイタイやらの勝ち組がもたらしている、作り出している現実はどんなモノかじっくり考え込んでみるならば、ウムと実に誰もが考え込まざるを得ない。もう一つの現実がある。決して世界、身の廻り、身の内だって良くはなっていない。と気付いてしまう、少数派、ある種族とでも呼びたい者達が確実にいる。

ベイシーはそんな少数派の一つの拠点なのか。そうであるとわたくしは考えたい。

この本は、ある種族、少数派のための本である。わたくしは本の、活字の為に、絶版書房という、あんまり沢山は売らない本屋を開店した。実は、そのモデルの一つはジャズ喫茶ベイシーなのである。

時代に遅れる事はるかをトボトボと歩き続けていた菅原正二は、今、何周遅れかも知れぬ程に遅れたが故に、フッと時代の最先端におどり出ているのだ。そうなのである。

この本の手ざわり、目ざわり、活字が、かなでる音というべきはとても心地良い。ベイシーの音のように心地良く、しかも、ひたむきである。手にすべしと確信を持って言い切る。

石山さん

坂田は 6/5 (土)ライブ終了後、翌日はバンドのメンバーを東京に帰し、一人居残るもよう。

近くの、アテルイが坂上田村麻呂に屈した「達谷窟」で元・暗黒舞踏団の田中泯という男の一人踊りにサックスで立ち向かう事に「なるかも知れぬ」と言って来ました。これを追って若いカメラマンの平間君というのがずっと撮り続けております。「達谷窟」は、ロケーションとしては中尊寺や毛越寺よりはるかにヨロシイです。だいたいに於て全然ショーバイ気のないところがいい。

それはともかくとし、坂田と一杯やろうではありませんか。そういう季節です。

live at basie2010

4/11 ベイシー

菅原正二


ベイシー店主

菅原正二様

FAXありがとうございます。

六月五日の坂田明のライブには必ずうかがうつもりです。予約致します。

坂田ともゆっくり話したい。いつ会えなくなるか解るもんではありませんから。

フランク若松の墓参り、正法寺の屋根見参、カルロス・アンドーネの店訪問と色々やってしまいたいと思います。

前の日からの日程か、坂田明の翌日一日とっておくか、どうしましょうか。念のためにうかがいます。

四月十一日 石山修武


絶版書房からのお知らせ。この部分はベイシーとの通信外ですから念のため。

絶版書房ならぬNTT出版から発売中の「生きのびるための建築」最終章にベイシーが登場します。ミースファンデルローエのバルセロナパビリオンそしてルイス・カーン・ブリティッシュアートミュージアムの次に登場いたします。そりゃあどういう事かと言えば、建築はすごく面白いけれど、要するに人間のために、在るもんだという事です。だからと言って、人間主義のズルズルからも自由でありたいと考えるからです。

だてや酔狂でベイシーの事を、ここにも取り上げ、又、わたくしの本にも取り上げているのではありません。重要なことなんであります。

建築、建築で数十年やってきたけれど、やはり人間なんだなぁと痛感するに至りました。建築は人間の生きるための道具です。近代では、むしろ良く生きる為のと附け加えるべきでしょうが。

アニミズム紀行5が 200 冊弱手渡せてホッとしているが、アッという間に売り切れたとは、言えぬ。

アッという間に売れてしまうと、わたくしの冊子への描き込みドローイングのノルマがガーッと肩にのしかかる。

繰り返し、標準化されたドローイングは、肉筆なので描けぬが、ある程度、パターン化しなくては、500 冊を乗り切る事は不可能である。

このあたりの機微は言わく言いがたい。

一度、 10 冊程のドローイングを同時併列にサイトに ON してみたいと考えているのだが、一冊の本の中に実に不思議な問題を抱え込んだとも思案している。いずれ、ウィリアム・モリスのように、木版画で肩代わりさせねばならぬかとも考えている。

肉筆を通せるのは6号迄であろうか。

4月5日 石山修武

山口勝弘先生

お便り、ありがとう御座いました。先生からのお便りにはいつも元気づけられるのです。便りが一つの字体も含めて表現にまで昇華されているからだと思います。公開できないのが残念なくらいです。

先生が2008年夏の世田谷美術館での展覧会以降の御自分の仕事を知らせて下さったので、わたくしも同様にいたします。

展覧会で皆さんに見ていただいた、12のプロジェクトの幾つかが現実化しております。

1.宮古島計画、第一室に展示したもの、はクライアントのN氏と、その後度々お目にかかり、用意をすすめています。Nさんは小野ヨーコさんと近い家系なので、山口先生とのどこかでクロスするかも知れないと、前々から感じております。無人島に老人の(子供の)ユートピアを作る計画です。出来上がったら先生にも是非いらしていただきたい。

この計画については、絶版書房アニミズム紀行6に詳述する予定です。

2.その、先生が生みの親ともいえる、絶版書房 II は、今では5号(アニミズム紀行)まで進んでいます。

5号では、ネパール・キルティプールでの、わたくしの終の棲家の計画を特集いたしました。着々と絶版書房は育っております。

3.猪苗代の計画(農園)は昨年暮に「時間の倉庫」と名付けた中心施設が完成いたしました。巨大な螺旋スロープを内蔵した空間ができました。ここで何かやりたいなと考えています。

4.チリ計画は昨年暮にチリからコンテナを運び込んで早大キャンパスで建国200年記念の展示会を行いました。

5,ざくろの小径計画は、現在、乳児院、保育園の複合建築として6月に着工します。

6.天の川計画は昨日、クライアントより連絡があり、屋敷林(巨大なものです。)を生かした、総合的な計画に進展する可能性が生まれております。

7.そこで、ラッキーセブンの7番目の計画、先生とご一緒させていただいたイカロス計画です。イカロスとダイダロスとの関係に想いをはせるならば、これはありとあらゆる創作者に共通する深い夢に関するものでしょう。

先生がわたくしの「ひろしまハウス」カンボジアを「メコン・ハウス」と間違って覚えて下さった事に恐らくは触発されたのでしょう。メコン河のほとりに、大レストランを作ってやろうと思い付きました。北京モルガンの地下室でモンゴル相撲をやったらという、アイデアも記憶していたのでしょう。

スケッチもしています。

先生のイカロスをメコンに飛ばしていただけると、と考えております。

3月25日 石山修武

追)先生、わたくしのコンピューターのサイトを使っていただけると、色んな事が出来るようにも思います。

石山修武様

春らしくなって参りましたが、畑の方はいかがでしょうか。

「鳥」の件では色々とお手を煩わせ恐縮です。

創造主と被造物とを峻別し、被造物の中で人間のみを神の対話の相手としての人格的存在と見なしてきたキリスト教は、いのちある全てのもの、さらには木石にすら人格を見ようとするアニミズムとは基本的に相性が良くないかもしれません。さらに、神様は被造物である自然を通してではなく、神の言葉であると信じる聖書を通してのみ知ることができるとする。プロテスタント、特に改革派(カルヴァン派) -- 私たち日本キリスト教会もその流れをくんでいます -- は、感覚的なものに対する警戒感が強いために、いっそうその度合いが大きくなる感があります。

けれどもそれは一方、神様がこの目に見え、手で触ることのできる世界を創造し、イエス・キリストを肉体をもったまことの人としてお遣わしくださったという、神様の救いの全体性を損うことになりかねません。その意味で、アニミズムは、神様がこの世界を造り、愛し、保っておられること、そして人はその世界と他なる被造物と豊かな、良き交わりを持つことができるという約束と希望として受けとめることができるように思います。それは、放っておくとどこまでも理念化し教条化し干涸びかねない「正統=主義=神学」の解毒剤でありうるでしょう。(ユングがスイス改革派教会の牧師の息子であったことは意味のあることではないかと思います)

石山さんの建築に、ドローイングに、版画に、文章に、そして何よりその生き方と在り方とに私が惹かれるのは、そこに何か自分にとって欠けたもの、そして欠けたままにしておいてはならないものを感じているからのように思います。そしてそう感じているのは私一人だけではないはずです。それは、マックス・ウェーバーのテーゼを持ち出すまでもなく、近代資本主義がキリスト教(聖書の伝えるイエス・キリストの福音とはかなり違ったものとなってしまった教条と組織としてのそれ)と骨絡みとなってしまっていて、その極北としてのグローバリズムから今日誰も逃れられなくなってしまっていることによると思われてなりません。

風呂敷が拡がりすぎて畳めなくなってしまいそうですので、またお目にかかれた際にでもお話できればと思います。

「鳥」は急ぎませんので、他のプロジェクトの邪魔にならないようにしていただければと思います。

「6」も期待いたしております。

主にあって平安を祈りつつ。

二〇一〇年三月十七日 日本キリスト教会豊島北教会 芳賀繁浩

※石山への私信ではありますが芳賀牧師の了承を得て掲載させていただきます

三月十五日付の制作ノートに、宮古島市渡真利島プロジェクトのN艇長の事を記した。幻庵オーナーの亡くなった榎本基純さんを憶い出した。記憶は鮮烈であった。

本はあとがきから読む事にしている。作者は得てして、あとがきに本音を書く。時に万感の想いを溢れさせる事がある。

残念ながら他人の本の解説らしきを書く機会に余り恵まれていない。恵まれても、書きたいと思うかどうかはわからない。鈴木博之「東京の地霊」の解説は面白くて、書かせてもらった。たしか、筑摩文庫だったか。

筑摩文庫にはわたくしの「笑う住宅」もあった筈だ。そして、そのあとがきならぬ解説を、幻庵オーナーの榎本基純が寄せている。身内を誉めてはいけないが、彼はもうこの世には居ないので言うが、名文である。他人にとって名文であるかどうかは知らぬが、わたくしにとっては歴然とした名文だ。読んでいただくのが一番だが、驚くべき事に榎本基純はこんな事を書いている。一九九五年三月の日付が記されている。・・・・・・「建築の世界からも日本からも身をひいて消息不明となる、カルカッタの雑踏の中で、カトマンズ盆地のキルティプルの廃屋で石山さんらしい人をちらりと見掛けた、という類のうわさ話がちらほら聞えて来る、そんな風になったらどんなに良いだろう」・・・・・・

わたくしの頭の中の、いささか荒地状の土地に建つ倉庫の中に、用心深く、しかし大事に、この文章が仕舞い込まれていたかどうかは定かではない。でもきっとそうなのだ。

こんな風に書くという事は、それでは榎本さんとわたくしは共にキルティプールの丘に上っていたのだろうか。

忘れてはならぬ事を、それこそを順番に都合良く人間は忘れてゆく。

幻庵オーナーに恐らくキルティプールは、あるいは、わたくしとキルティプールのつながりは鮮やかに記憶されていたのは確かな事だったのだろう。

アニミズム紀行5に描いた、わたくしの終の棲家、キルティプールの丘の、北向きのゆるやかな斜面の、廃屋になった僧院の隣りの家は、すでに榎本さんに予測されていたのである。

あるいは、その予測通りにわたくしが動こうとしたのか。人間の想像力は全て記憶から生み出されると考える。そうすると、榎本さんがこれを記した時にすでに、わたくしのキルティプールの丘の家は建ち始めていたにちがいない。

生きている現実の人間と、生きてはいない人間との境界は驚く程に薄いものだ。本当にビックリする位に。その境界は無きに等しい。人間は皆、それぞれの想像力の中に生きている更なるイメージにすぎない。

だんだん、絶版書房通信が幽界通信になってきそうなので、この辺りで中断する。

榎本基純は何処でどうしているのだろうか。まさか、まさかですよ。一足先にキルティプールの丘の廃屋に独人暮しているのではあるまいな。あそこは、何もかも素晴しいところだけれど、食事に難がある。二〇二五年のわたくしも、食べ物だけは良くデザインしなくては。

ソロソロ、料理を勉強しておかなくては。

二〇一〇年三月十五日朝、記

ベイシー・菅原さん

家で拾った、トム・クランシーの「レッドオクトーバーを追え」を読んでしまいました。実はわたくし、昔から潜水艦大好き人間でした。停泊中のディーゼル潜水艦黒潮に頼み込んで乗せて、つまり入り込ませてもらった事もありました。潜水艦の面白さの中心は実は音です。これは原子力潜水艦であっても、ディーゼルのモノであっても変わりはないようです。すでに御存知とは思いますが、潜水艦はベイシーです。ソナーと呼ばれる音探知の世界の中に在るようです。レッド・オクトーバーのソナー要員は海中のあらゆる音を聴き分けます。ロナルド・ジョーンズという名です。相手方潜水艦の一つがスクリューを曲げたままなのを音探知で聴き分けます。この小説には米国大統領やらソ連書記長、CIAアナリスト、潜水艦長達がアラベスクの如くに登場します。しかし、一見脇役の米潜水艦のソナー員が一番魅力的な人物のように思いました。彼は当然、凄い耳を持つにいたり、同時にそれ(音)を精確に解析します。潜水艦のソナー装置を使えば世界一のオーディオになると考えたりもする。

CD録音の音の良悪は勿論、バッハを聴いても、フルート奏者がまずいとかの耳を持つに至っているようです。

先日、知り合いのところで自衛隊の潜水艦乗り組み員の方々に偶然お目にかかりました。彼等は研修で米原子力潜水艦の体験もあるようでした。以前、黒潮の艦長が一度でいいから原子力潜水艦のカジを握ってみたいと言っていたのを憶い出しました。

菅原さん、オーディオサウンド界の、大兄は巨峰であるのは誰もが認めるところです。

がしかし、原子力潜水艦、つまり最終兵器内のサウンド装置、およびソナー員の存在は、どうやら用心しなくてはならないかも知れません。それに潜水艦のソナー技術は国家機密として公開されていません。

一度、チャンスがあれば潜水艦のソナー要員をベイシーに呼んだらいかがでしょうか。わたくしの方も、今すすめている宮古島の計画がもう少し進んだら、何やかやと仕掛けをこらして、潜水艦乗員を何人かベイシーに誘なうという旅も面白いなと、実に馬鹿な事を考え始めています。

フランク若松の墓参りもしなくてはならない。いい男でした。

あの山のような屋根を忘れることはありません。ああいう建物をつくる事が彼への恩返しだとは念じているのですが、チャンスがあるかどうか。しかし、念じていればかなうやも知れません。

とりとめもなく、失礼いたしました。

こちらはようやく少し春になってきました。

三月十四日 石山修武

石山さん 3/14 ベイシー 菅原正二

実は、あたくしも「潜水艦」が好きでして。「眼下の敵」なんて映画にシビレてました。

海中ではソナーを頼りに相手のスクリュー音を聞き分けるってのは、いかにも大したものでありますね。

私のずっと愛用している、このJBLの「SG520」というコントロール・アンプ(プリアンプ)はですね、1964年発売当時、測定器では「測定不能」とまでいわれた優れモノでした。当時一番高級といわれたマッキントッシュの「C-22」やマランツの「7」より定価が10万円も上だったんです。

それで、こいつを潜水艦のソナーに使おうとして、日本の自衛隊が大量に買い込んだという、嘘か真か、真しやかにいわれてたんです。私はこのコントロール・アンプをおよそ12台以上これまで買いまくりましたがね。中には潜水艦で使われてたのもあったりして・・・。

尚、JBLのこのGraphic Controller Model SG520というプリ・アンプに使われております「ボリューム」は全てアメリカ軍用の「ダンカン」というシロモノで、40年以上も酷使してビクともいたしません。メイン・ボリュームのほかに、トーン・コントロール(4個)、ステレオ・バランサーと、計6個、全部「ダンカン」製です。これを、例えば日本の「アルプス」なんかと代えると全然駄目になりますです。

二〇一〇年三月十二日

「新しき寺」

コラムに馬場昭道さんの千葉・我孫子新木の新しき寺、真栄寺についての物語りの一断片を書き始めた。

「新しき寺」というのはわたくしの学生時代、学部二年生の設計実習の課題の一つであった。わたくしが阿呆学生であった頃、二年生の設計実習は実に面白かった。建築史家の渡辺保忠が主導して、バウハウスのモホリ=ナジ等が創ったバウハウスの造形教育のプログラムを参考にして作成した、第一回目の試行が、我々の学年が対面したものであった。

渡辺保忠は半端な事を好まなかったので、始まりは徹底してやった。パウル・クレーの日記他で知る事も出来るのだが、バウハウスの造形教育の本質は到底標準化を目指す体のものではなかった。それは一種の天才発掘教育であった。渡辺は我々ガキを相手に、十年に一人の人材を育て、発掘するための、これは実習であると言ってのけた。今であれば、当然学内問題になるであろう。

それはとも角、その年間二十四課題程の中に「新しき寺」という、二週間課題があった。今想えば、そして戦後(第二次世界大戦後)の文化状況を考えてみれば、これはかなり過ぎるどころではない大問題をはらんだ課題であった、と、今にして想う。当然、阿呆の群であった我々学生はそんな事には気付くわけもなかったが。しかし、不思議極まる事にこの「新しき寺」という課題があったという事だけは、四十五年経った今でも強く記憶に残っているのである。教育=創造の中心に在る性格の構造だろう。

わたくしのささやかなキャリアには寺が幾つかある。恐らくそれは、この課題の記憶=歴史に強く影響されているからだろうと考えられる。だから、年内のアニミズム紀行のつれづれの中では、やはり「新しき寺」を一つやってみたいと考えているのである。

気付かぬわけもないのだけれど、わたくしの作るモノでうまくいったかなと自覚できるモノは何処かに超越的な何者かを感じさせる。わたくしが自覚しているのだから、先ずは間違いない。その超越性らしきが、どれ程に意識されていたかが問題でもあろうが、意識を近代の神の如くに考えられている風潮も考えつめればどれ程のモノ、初歩的にはユング、更にはフロイトの考えを知らぬではないが、どうやらフロイトは潜在的な筋金入りの神秘主義者、霊能者であったらしい、という歴史も開かれ始めているようだがそう簡単ではない。

それはともかく、「新しき寺」である。アーティスト・クリストがやっている創作のほとんどを、わたくしは極めて宗教的な意味合いの強い何かであると確信している。あの全ては既存の諸宗教、キリスト教、ユダヤ教、ヒンズー教、ゾロアスター教、仏教の何よりも余程、神らしき、すなわち超越的存在を眼前化し続けようとする試みであった。ロゴスで表現されざるを得ない観念を強く、視覚世界内に移し変えようとする試みである。

建築や野外彫刻、すなわちあらゆる立体の創作は突き詰めるところそれを目指さざるを得ないだろう。突きつめればですよ、勿論。クリストの如くに、巨大に何かをつつみ隠すという事は、隠す、梱包する事によって、あるいは砂漠にドラムカンを何百万本と積み重ねて、ピラミッド以上の構築物のイリュージョンを目の当りにさせる、すなわちもう一つの現実を眼前化させるというのは、やはり歴然として、隠れ続けている神、あるいは超越者を見たいという事に他ならぬのである。

わたくしの「新しき寺」を着々と準備したい。

二〇一〇年三月八日

石山さん

本日は開店早々から妙に混み合っておりますが、気分は下向きです。

すべてはとっくに終っており「晩年」を自覚しているからなんだろうと思われます。何んにでも終わりがありますから、それはそれでいいと思います。

ライカの「M3」がもう一台転がり込んできました。これに運命を感じ、早速フィルムを入れて愛用する気です。

何んの罪もないのに終ったものが好きです。これから出て来るものは信用出来ませぬ。

3/7 ベイシー 菅原正二

菅原さん

しかし東北新幹線も新型の車輌が走るようですが、考えるに蒸気機関車で旅をし、動いていた頃の人間たちの方が人品、感性等々、共に良ろしかったような気もします。そのライカの「M3」に期待したい。良い道具は良い人間を引き寄せるでしょう。それをお見逃しなきように願います。

三月七日 石山修武

こちらは、春まだ遠く、冷い雨が降りそぼっております。

二〇一〇年二月八日

石山さん

そのうち、修復なった「正法寺」一緒に見に行きませんか?

フランク若松に案内された修復前のあのド迫力は完全に失せたようですが。

あと、同じ奥州市の「胆沢ダム」をご案内したいと思います。馬鹿気た眺めでこれはこれで面白いですよ。

先日、雪の降る夕方にちょっと行って眺めて来ましたけど、五年ほど前の工事中に発見(!)した時の方がエジプトのピラミッド工事現場(知りませんけど)みたいで「ワァーッ!!」と思いましたね。

完成するとつまらないものになり、朽ち果てる直前にまた迫力が出るというのは一体何なのか?オリオン座アルファー星のベテルギウスが大爆発を起こすというので期待してますが、待ってたってねェ・・・。

2/7 ベイシー 菅原正二

アニミズム周辺紀行5 発刊にあたり

絶版書房の活動に関しては、マア、10年は活動を続けたいと思います。10年先のことは夢の又夢ですからわかりません。体、気力がもっているか保証のほどはない。つまり、10号や20号で止める気持は全く無いのです。

これは石山のライフワークの一つです。

そういうことを言うのは実に恥ずかしいことですから、これはチョット言ってサイトからはすぐ消します。ただみなさん、5号は私の終の住み家のデザインについて述べているものですから、これはつまり2025年の私の住み家について、そのデザインについて、そのコミュニティについて述べておりますから、たかだか今から15年先のことです。私が81歳になったときのことです。私の母は日記でも昨年少し述べましたように90歳で元気ではないけれども生きておりますので、上手くいけば私も80歳を超えるでしょう。つまり、アニミズム周辺紀行は長い未来への旅なのです。しかも、繰り返しになりますけれど、5号は私のキライな富士山で言えば、ようやく2合目くらいに差し掛かったところです。神社に参拝して柏手を打った次の一歩かもしれません。

聞くところによるとまだアニミズム周辺紀行は古本屋には一冊も出ておりません。BOOKOFFにも出ておりません。読むべきでしょう。

アニミズム周辺紀行5は1 - 4の積み重ねの上に建つ架構である。開放系デザイン・技術ノートと題した意を汲んでいただければと思う。  −石山修武

今回の5号では、そこで描かれている建築のスケッチもやりながら書きました。例えばプランとか、立面とか具体的なスケッチです。

二〇一〇年一月二十八日

2010年1月26日、昼、新大久保近江屋にて

「絶版書房に関してこれまでと5号の違いを教えて下さい」

「まもなくアニミズム周辺紀行5号が発刊されるわけですが、この5号は自分にとっては自信作だと思います。昨夜第一回のゲラを校正しました。3回読んでみて、自分で言うのもおかしいのですが、かなり素直に自分の考えがよく出ているなと思いました。

 年をとってからでないと言えない事を言っていると思いますし、自分の経験の全てが5号に入っていると考えています。ですから、これまでの1号〜4号とはその結晶度というか、1〜4号も紀行つまりプロセス、私とスタッフも含めた私たちの成長していく過程を旅と名付けていることを鑑みると、5号は1つのステップを達成したなと思います。

 5号では、一生懸命に書いていくほど制度的に文学的ニュアンスに近づいてしまう事からすごく避けようとしました。それはかなり意識して避けています。文学的にならないように、評論的にも、エッセー、コラム、あらゆるものにならないように意識して、そしてムーブメントのきっかけになるように書いています。

 それはどういうところかというと、昨日映画監督の沖島勲さんとかなり長く話したのですが、沖島さんは絶版書房という名前に共感してくれて『自分も一冊やりたい』と言ってくれたんですね。私が知る範囲では友人も含めて絶版書房をおもしろいと思っている人はそれほど多くありません。ベーシーの菅原と、昨日初めてお会いした沖島勲が今のところの双璧でしょう。

 ベーシーは既に1号に登場した音の人です。私は沖島監督は映像の人かな?と思ったのですが、それを本人はすごく嫌がる。古い映画の人と言ってもらいたがっています。

 まあ、8号くらいで沖島さんのアニミズム論をやろうかと思っていますが、今まで送り出してきた1〜4号の文章とビジュアルがある組み合わせは意識的にデザインしないとある水準が得られないということがよくわかったのです。完全なものはできませんけれど、5号はそのことに関してこれまで以上に意識しています。当たり前に聞こえるかもしれないけれど、ビジュアルと言葉のアッセンブルのデザインが非常に大事だとよくわかったからです。これは実はこれまでの4号、約1000冊を送り出してみて初めてわかったことでもあります。

 沖島さん、日本の極北の映画作家だと思いますが、彼と宮崎駿や村上春樹のことも話しました。映画の極北の人にとっては、彼らの世界の限界は視えてしまっている。8号か9号で沖島監督のアニミズム周辺紀行の旅をやれば、5、6、7号と筋道が視えてきます。

 モノ(実物)とイメージ、イメージと図版の関係がクリアになり始めていると思う。

 5号は物語というよりも論です。タイトルは開放系デザイン、技術論。デザインが技術よりも前にしてあるのが大事なのです。読む人にとっては石山が何をしようとしているのかが非常にわかり易い号だと思います。

 ここで5号の内容をしゃべるのはどうかとも思いますが、開放系デザイン論の非常にわかり易い概論になっていると思います。難しい事をわかり易く話せている。例えば近代小説はわけのわからない、わかりにくいし、そのマーケットも小さくなっています。近代小説の限界は目に視えてきています。近代的な芸術もそうです。画家や彫刻家、それから音楽家もくだらない。私の母やオジさんといった普通の人には全く無縁なものだし、何も社会に寄与していません。

 その点でも5号はこれからやろうとしていることを遠回りだけれども、わかり易い言葉で語りかけているのではないかと思います。わかり易い事をわかりにくく言うのは知識人がやりそうなことですが、それは全く意味がない。難しい事をわかり易く言う困難さと比べれば、それはとてもイージーだったと思います。

 5号を「開放系デザイン、技術ノート」としているのは開放系技術というのをすごくわかり易く読んでもらいたいと思いながら終始書き進めることができたので、その意味で明らかに自信作だと言えると思います。」

二〇一〇年一月十九日

1/6 よりつづく 

2010年1月5日、夕方、新大久保ラーメン屋謝謝軒にて

「例えば柄谷行人は手書きをバカらしいと思うだろうし、タイプライターというのはデジタル方式でどの文字を押しても同じだと思うんだけれど、僕は手を動かしていないとモノが考えられないんだよね。手で書くスピードと思考が合ってる。僕はこれまで沢山の対談をしてきたけれど、あらゆるものが失敗していると思いますからね。指の動きがあって、体で書いているという、その粘着力みたいなものが必要なんだよね。津野海太郎は初期的にワープロで原稿を書き始めた人ですけど、僕も若い頃はやってみたんですよ。でも合わない。

考え方が全然うねっていかないんです。なぜこんなことを書き始めたのかという驚きが自分に出て来ない。5号をかなり短期で書いてみてわかったのは、1日30枚くらいが適しているということです。でも、これは休みじゃないとできない。もし1日ずっと書いていれば30冊くらいすぐに出せると思いますけど、そういうわけにはいかない。それから、30枚くらい書くと頭が高揚して寝れなくなります。たとえ夜寝れなくても朝は起きてしまうので、これはきついですね。

ものをイメージする、つくっていくということについては、絶版書房は言葉でものを描いているつもりです。特に5号はその感が強かった。それからそこにスケッチが加わっています。スケッチをしながらでないと細部を書く事ができない。書くスピードと持久力を自分でコントロールできるか否かが要ですね。

今年の元旦は早く起きて快晴の朝焼けを見ました。とても気分が良くかったんですが、実は原稿の3枚目になっているところから本当は書き始めたのです。そこで朝の光の描写があるのは、原稿を書いている朝に雲と陽が差し掛かったのと密接に関係していますね。

つまり、架空のイメージであると同時に現実でもある。

5号では日々を生きる事とモノを作る、話す、書くというのは、できるだけ一緒になっているのが大変望ましいのだ、というのを意識しました。そういう点で今回の5号を3、4日で書けた事で、ある程度実践できたかなと思います。」

二〇一〇年一月六日

2010年1月5日、夕方、新大久保ラーメン屋謝謝軒にて

「今日日記を読み返していたら、5号は正月の4日で書いていました。今回の5号では、そこで描かれている建築のスケッチもやりながら書きました。例えばプランとか、立面とか具体的なスケッチです。それを全て限られた時間でこなしてみて、速力という問題に気がつきました。

世田谷村日記を10年くらい前から書いていますが、自然と速く書けるようになることはなくて、無理して書いているときもあります。

5号は12月31日にシナリオを作ることから始めて、当初はキルティプールの2025年、それから2015年、2012年と原稿用紙30枚ずつ書くシナリオを考えていました。

正月の元旦は10枚くらいを、かなり綿密に書きました。でも、その綿密さは書いていて面白いのですが、なかなか考えが伸びていかないのです。それから何が面白いのか自分でもよくわからないところもありました。

実は、この正月に5号を書き始める前に、別のテーマで5号用に40枚くらいを既に書いていたんですね。これは1号〜4号までと同じような形式、つまりエッセイ集のようなものでした。それを31日に、それだけ書いていたので残念だったのですけれど全て捨ててしまいました。それで今回初めて1冊通してまとまったものになったと思います。

新しく書き始めて、正直これは1月いっぱいはかかってしまうなと思ったんですね。それが1月2日に40枚くらい書けてしまって、スーッと伸びたんです。

これまでの私のキャリアでは20代の後半のときに何かの原稿で1日に60枚書いたのが最長でした。

原稿を書くのは、書けるときと、止まってしまうときとリズムがあります。今回はどういうときにそうなるのかと自分でチェックしながらもやりました。そのときに、最も注意したのは小説を書いているのではないということです。私がやりたいのは図面やドローイングで表せないものを描くことであって小説ではない、と自分でも明記していました。スケッチや図面では表せないものが随分あるんですね、やっぱり。言葉の方が表せるものがあるのは何でしょうか?

4日目に73枚まで書きました。そこでもう止めようと思ったのですが、それはこれ以上書くと小説になっちゃうという自制心ですね。書こうと思えば、その先もいくらでも書けるんですよ。でも小説じゃないから、プツッと切りました。

こうして5号では原稿を書きながら手探りで色々なものをやってみたのです。原稿を書く人には2種類あって、最初から答えがわかっていて書く人と書き出さないとわからない人がいます。僕は完全に後者ですね。

今回も12月31日に描いたシナリオは、完全に崩れちゃいました。最初の2025年だけで1冊分まで辿り着いてしまったのですが、そういうときに面白い事をイメージしているのだと痛感しましたね。

何を書こうと思って書いていたのかという質問には答えられない。始めからわかっていたら書かないし、書いても面白くありません。書きながら次第に自分でも、ああこういうことを考えてみたいのかと明らかになっていく。そのとき書くスピードが考えに非常に影響を与えるのです。」

「私もそうですが、今は大概の人はコンピュータで直接原稿を書くと思います。すると、始めからシナリオがなくても、断片をたくさん書いておいて、それをあとで自己編集して骨組みを作っていくことができる。やっぱり、この段落は前にもってきた方がいいかな、とか。その過程でアイデアが閃いて、全体で言いたいことが変わってきてしまうことさえあります。私の場合、それがコンピュータで原稿を書く技術が考えに与える影響です。

石山さんは原稿は全て原稿用紙に手描きですよね。だから、いきなり頭から書き始めて、お尻にまで順番に到達していく。つまり、物理的に編集できない形式で原稿を書くのに、書き始めるときには何を書こうか見通しをつけていない。でも、書き終わった原稿を見てみると後で書き直したり、編集した形跡はほとんど見られません。で、聞いてみると始めからわかっていることは書く気がしないと言う。

それは私にとっては非常に不可思議な現象であり、石山さんの特徴だとも思います。それについては自分でどのように思われますか?」

つづく

二〇〇九年十二月三十日

2009年12月22日、夕方、新大久保近江屋にて

先日ウェブサイトにも俳句を映してみました。俳画とコンピュータのビジュアルに活字を加えたものとの対比をどのように考えているのですか?」

「私が俳句は重要なものだなと気付いたのは、鶴見和子と金子兜太の『米寿対談』を繰り返し読んでのことでした。二人とも俳句の中にアニミズムがある、あるいはアニミズムそのものだと話しています。和歌と俳句の違いはたくさんありますが、季語と定型短詩で作る俳句の人口は和歌よりも多いのですよ。俳句は世界中に広がり始めています。

俳画もバカに出来ないモノがあると思い出したのは2年くらい前のことです。俳画は与謝蕪村の俳画がすごいんですよ。真栄寺で金子兜太が俳画を描いているところを見てバカにできないと思いました。山口勝弘さんも俳人でもあります。山口さんは号を持っていますが、山口さんが体を壊してからの画は色の付いている俳画みたいなものだと私はみてます。でも、私の中でそれを山口先生に言ったら失礼ではないかという規制が働いていたんですね。つまり、モダーンアートの方が俳画よりも上等だというイメージがあったのです。それで慎んだということがありました。でも、山口先生の画は金子兜太の俳画と比べて同じだと思いますね。

俳句の可能性は、その俳句人口が非常に多い事です。私の母や妹もやっているようで、同人俳句会に属しています。俳句は広範な層を持っていて、日本の詩よりもシンガーソングライターの歌が曲が付いているにしても何百枚という単位で売れていくように、マーケットの大きさがまるで違うのです。現代詩のマーケットは絶版書房と同じようなものです。

そういう意味でも俳句は可能性があるなと思います。

それから俳句には、メディアの中にアニミズムがあるのではと睨んでいて、メディア=アニミズムと考えてみると我々の商売はかなり明るく開けるなという感じがしているのです。私のウェブサイトのトップページはただで誰でも見ることができます。ですが、考えてみれば読者の年齢層はコンピュータを日常的に使っている世代におのずと限定されてもいます。今までトップページに映すビジュアルというのには無意識的でした。

鈴木博之さんと妙見会という句会をやっていますが、博之さんは言葉遊びの天才でものすごいスピードで句を連発していく。言葉遊びというのは駄洒落、シャレと連結している意味での俳句を考えていました。それから何と博之さんは金子兜太に会って一番弟子になりました。本格的な俳句を少しはたしなまれるようになるのかもしれませんね。私と彼はバカにしてはいけない冗談で俳句遊びをやって、ヒッチ俳句とも言ってましたが、それが無駄ではなくなるのではないかとう気がしていますね。

そういう背景があって、トップページはやってみないとわからないところもあるのですがコンピュータ俳句をドローイングに付加してみたというわけです。私は色紙に書き付けるのは嫌いなのです。コンピュータに載せるビジュアルと俳句という形式をとったのは私が達筆ではないということもあります。

それを1週間だけかなりスピーディーにやってみる。今週(12/20の週)からのトップページを読んでいる人は何をやっているんだろう?と思うと思います。ただ、ここまでやれば本気でやろうとしているところも伝わるでしょう。

俳句の言葉遊びはレヴィ=ストロースの言う器用仕事(ブリコラージュ)というところもあります。言葉を器用に組み合わせて何をなすかというのが俳句です。そしていわゆる普通の人、この人たちは常民だと思いますが、そういう人達に言葉の器用仕事能力がある。そこが面白いところで、つまり生活者達の能力です。私がこれまで発言してきた開放系技術やブリコラージュ、オープンテックというのはメディアに関して結びつくなと思いました。だからといって、当然句集を出すというわけではありません。

新聞でも金子兜太のコーナーは囲碁や将棋よりも大きい。それは人口が多いということです。」

「折口信夫が釈迢空と号して俳句をやっていたのもメディア=アニミズムという考えがあったのですか?」

「折口は和歌ではなかったかな?折口の歌謡論についてはアニミズム紀行の真ん中くらいで通り過ぎていくとは思いますが、建築界で折口に似ているのは渡辺豊和さんでしょうね。豊和さんは建築芸能論につきています。芸能としての建築というのは、職人つまり大工の可能性ということです。

西洋から流れてきた概念としての近代建築、教育と、もともと土台が違うのです。その辺は豊和さんはつめ切っていない。

明治以来続いてきている、我々がいる大学も西洋からきたシステムです。しかし、日本の生活者たちの部厚い叙情歌的背景には寺子屋教育が確実にあります。江戸時代の寺子屋教育が日本人のおどろくべき識字率、教養を支えてきたのです。そしてその寺子屋教育が西洋の教育という概念に接ぎ木され切っていないと思います。それは若い世代の有能な人が考えるべき問題でしょう。

歴史に関心を寄せていることの持続性が必要です。西洋の知識をベースにした知識人は概念的なイメージにすぐいっちゃう。具体的な身体、頭脳に行かないきらいがあります。

ウェブサイトを見ていると読者の動きがわかります。1日15000ヒットという抽象的なヒット数はバカにできません。

若い世代であるあなたたちには大きく2つの道筋があるでしょうね。1つは先程の寺子屋教育に代表される、西洋からばかりではない建築の大衆性の径を考える事。もう1つは、メディアの中に潜んでいるアニミズム性をどうやって引き寄せるか。インフラの次の課題の実践の拠り所でしょう。

トップページは1月から絵巻物にします。洛中洛外図の非パースペクティブは動画と同じです。現代の建築はルネサンス的概念では、焦点とパースペクティブ空間が連続していながら、そのパースペクティブを結びようのない世界が流れ動いているのがグローバリズム、つまり深みがない世界です。現実の世界ですね。 この深みがない世界について具体的に言えば、世田谷美術館でやったドローイングを日付順にただただ壁に並べたのは、それで部屋を囲んだりしなければ大変面白かったと思いますよ。

チョッと意味深に思わせぶりの発言ですが、今はそれ位にしておきます。来年、出刊されるNTT出版からの22章にわたる講義録を是非読んでいただきたいですね。今のところの私の意志が全て入っています。2009年迄のね。」

二〇〇九年十二月二十六日

2009年12月10日、夕方、新大久保近江屋にて

「今度はメシの話しをしましょう。韓国の海印寺で食べたメシはうまかった。」

「朝ご飯はどういうものを食べているのですか?」

「朝は握り飯ばっかです。おむすびもおいしいですよ。しかし韓国の海印寺の小さなビビンバはうまかったね。あれは腹が減っていただけか(笑)。韓国の旅は2年前でしたっけ。海印寺を訪れたのは。30年前に見た朝鮮の風景とみごとに違っていました。浮石寺よりも海印寺の方が良かったですね。

浮石寺は大江宏から教わりました。大江さんは丹下さんの同級生で、もう書いちゃってもいいと思うけど無茶苦茶色男だったんです。女にもて過ぎた(笑)。山本夏彦も言ってたなあ。ただ体があまり強くなかった。丹下先生に体の強さで負けちゃうところがありました。川合さんから丹下さんのことは何回も聞きました。川合さんと丹下さんが衝突したことも聞きました。磯崎さんは大学院生の頃それを克明に見ていました。磯崎さんは二人のやりとりを全部見ていたんですね。」

「そういえば、石山さんと大江さんの接点はどこにあったのですか?」

「うーん。大江さんなりにアンテナを張っていたのでしょうね。大江さんの家で鈴木博之とそろって飲んで、教わっていたと思います。大江さんは『早稲田では吉阪君をよく知っている』と言ってましたね。吉阪さんの出世作であるヴェニスヴィエンナーレの日本館を吉阪さんにやらせろと言ったのは大江さんです。何故かは知りませんが。

大江さんから聞いたことがあります。吉阪さんが日本館が出来上がって、ありがたがってお礼をしたいといって大江さんを銀座で食事に誘ったそうなんです。銀座で食事と言えば、大江さんは喜楽で御馳走でもしてくれるのかな?と思って行ったそうです。そしたら、『ここのカレーライスは本当においしいんです』だって(笑)。大江さんは『それは君、びっくりしたぞ』って(爆笑)。

それは本当に印象的でしたが、そのことを吉阪さんは知らないでしょう。ある時期私は吉阪さんと近かったのですが、吉阪さんは知らないと思います。吉阪さんはそういう人なのです。

私も磯崎さんとやったヴィエンナーレで金獅子賞をもらいましたが、ハンス・ホラインがそのヴィエンナーレのディレクターでした。彼が地震計としての建築家というテーマでディレクションをしました。ヨーロッパの思想のパラダイムは地震で、災害によって変わってきているという筋書きでした。私が阪神淡路大震災の展示準備の途中で、日本館は一部壊しても強いから本当に一部を壊した方がいいんじゃないか、と磯崎さんに言ったら『壊そう!』って。あれを壊したら私は早稲田で総スカンを食らっていたでしょうね(笑)。でも、それくらいの気概でやっていました。

ヴェニスのヴィエンナーレ会場というのは、あれだけパビリオンがあって一つも凄いパビリオンがないのですよ。スカルパのも駄作です。もうそろそろリノベーションした方が良いと思いますね。

まあ、しかし日本館を壊さなくって良かったと思います(笑)。ヴェニスヴィエンナーレをやって、地中海の光を理解したと思います。アドリア海の光がトップライトからもろに落ちてくるのです。コルビュジェがサントリーニで発見した光と影、フォルムとは違う感じで日本館の中にスカーンと光が阪神淡路大震災のガレキに落ちてくるのです。地中海の光は本当にすごい。音がするのです。スカーンという音が。これはサントリーニでも感じなかった、ヴェニスのすごさです。」

二〇〇九年十二月二十五日

2009年12月10日、夕方、新大久保近江屋にて

「この年末年始は是非絶版書房を読みながら過ごしてもらいたいと思いますが、日本の正月の習慣や門松などの儀式的な要素もまた辿っていくとアニミズムにいきつくのでしょうか?」

「神道の前、つまり天皇を中心としたバーチャルなシステムが組立てられ始める前の全ての始まりはアニミズムでしょうね。4号でも触れましたが、その初源はマナ、マナリズムです。何かのものを恐れるということはそこから発生してきています。つい先日101歳で亡くなってしまったレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』は読めば読むほどわからなくなります。最高の知性によるシニシズム、絶望感、悲観主義は日本の民俗学者である宮本常一とは正反対のものです。宮本常一には人間に対する信頼がありました。民俗学者は本来は悲観主義だと思いますが。レヴィ=ストロースは隅田川を船に乗って遡行したときに、こう言ったそうです。

『東京はパリとは違う。パリは歴史が連続しているから古層が見えにくい。日本は短時間で近代化された。それ故にあらゆるところに古代が見える。それがアジア、日本のすばらしさだ』と敢えて言ってくれているわけです。

レヴィ=ストロースはユダヤ人ですが、シニカルであるべきヨーロッパユダヤ人から発せられている一種の情けでしょうね。

宮本常一は『私は旅をするのは人に会うため』と言い、職人の猥談にも風格があると言います。宮本は前進しない、つまりガツガツものを作らないから、作らないことの尊厳を知っていたんですね。最近はそれを大事なことだと思うようになりました。

歴史家の鈴木博之は若いときから旗をピッと掲げて戦っていました。その旗は和風、装飾、保存、地霊といったものでした。私は保存は負け札だと思っていましたし、地霊もそうでした。しかし意外と地霊は勝ち組のようになってきていて、それが鈴木博之のすごいところです。保存に関しては、一生に一度だけ良い保存をやってみたいと思っています。

先程正月の意味ということを聞かれましたが、加藤周一と若いときにシンポジウムで一緒になったことがあります。そのとき加藤さんからアジアの水ごりとは何なのですかというようなことを聞かれたのですが、そのとき僕は本当に愚かでそれを知らなかったんです。喧嘩して、そのしこりを水に流すとか、汚職して監獄に入って水ごりをするって言うでしょう。それがわからなかったんです。それで『アジアの水は濁っていますが、五十鈴川の水は透明できれいですよ』なんてバカな事を言ってしまった(笑)。アジア建築の現在というシンポジウムで20年くらい前のことです。

僕はなんと網野善彦に民俗学を教えたこともあるんです。あの網野を知らなかったんですね。愚かだった、本当に恐ろしいですよ(笑)。網野さんは唐桑臨海劇場のときに唐桑に来たんです。そのとき網野さんが『唐桑という地名や首塚、唐人塚というものがあるので中国から来たのではないか?』と言っていましたが、僕は当時彼が何者なのかを知らなかった。網野さんはフラーみたいな人で、海からの人です。天皇制批判して俗世間では偉くなれなくって、天皇は外来だと言った人ですから。

私はフーテンの寅と同じです。思い返せば恥ずかしいことばかりです。

それで正月なんですが、正月というのはみんな生まれ変わるということだったのではないでしょうか。日本人はそれぞれの季節でそういうものを持っています。端午の節句とか、四月八日の花祭りの釈迦とか、祭りの節々にそういうところがあります。農耕の祭りの頃にお盆があったりするのもそうです。私はお盆の方が正月より大事だと思うんですよね。死んだ先祖を迎えるわけですから。お盆の時日本中がシーンとするんですよ。それから民族の大移動がある。みんな、サラリーマンも田舎に帰るわけです。

正月というのは本来は冬至の祭りだったんじゃないですかね。冬至の祭りと夏至の祭り、つまり太陽の力が一番強まるときと弱まるとき。日本では冬至がずれたのかもしれませんね。中国の太陰暦とも違いますしね。」

「正月というのは西暦のものですから外来のものなのでしょうか?」

「日本は全て外来です。意外とあなた基本的なところがわかっていないね(笑)。」

「ああ、そうですね。みんな中国、朝鮮から来たんでした。」

「我々は外来です。それをひがむことはありません。

小林秀雄が石舞台古墳のことを書いたときに、日本に来た渡来職人がもし大工じゃなくて石工であったらどれほど壮大な文化を実現したか石舞台を見るとそれがわかると言っています。つまり石造の文化です。日本は石だらけですから。ピラミッドくらい作れたんですよ。お城の石垣、築城の石垣の技術は大変なものです。それなのに木工の職人が来てしまった。荒っぽいですが、そんなに間違っていないと思います。

最近磯崎さんの本を読んでいますが、鬼沼で不動点とか天体の運行ということを我々は考えていましたが、あれはすでに磯崎さんもルイス・カーンも考えていました。オリジナルではないんですね。磯崎さんもチーム・ディズニーの日時計のときに天体の運行って言ってるんです。がっくりですよ(笑)。そういうものです。」

「でも古代建築はみんな天体だったわけで、みんなそれを知っているわけですから殊更磯崎さんやルイス・カーンというわけでもないんじゃないですか?」

「古代の人は死を恐れていなかったんじゃないですかね。死というのは当たり前のことでしかなかった。ナバホ族は『晴れている、とても死ぬのに良い日だ』といった具合でした。

あなたの好きな2001年宇宙の旅の惑星が一直線に並ぶシーンなんか、古代の人や磯崎さんですら考えているくらいのものです(笑)。ルイス・カーンの光の扱い、あれはユダヤ、ジューディッシュの感覚です。グローバリズムの正反対。ブリティッシュ・アート・ミュージアムのイエールのアートギャラリーのバックミンスター・フラーとの共同の天井の感じは古典主義と技術の合体を考えていたと思います。

『始源のもどき』の最初のイセや、知の先生である渡辺保忠のイセは天皇制下による持統天皇と天武天皇による情報の操作だと言っています。磯崎さんも同じことを言っている。あのデザインは古くない。せいぜい700年代のものです。まさしく始源のもどきなんです。」

二〇〇九年十二月二十四日

2009年12月10日、夕方、新大久保近江屋にて

「今日(12/10)で残部は30冊(3号)と46冊(4号)になりました。やっと当初のペースを取り戻したと思います。一連の販促活動をしていますが、こちらが努力するとはね返ってくるのがよくわかりました。絶版書房を買ってくれとダイレクトなことを言わないと本は売れていきません。最近20年前、40年前のことを話しているのも、これでようやく読者にこちらが本気でやっている事が伝わったのだと思います。

昨日帰ってから5号を書いていますが、5号は建築の話しが良いと思っています。1号から4号までぐるっと廻って建築に帰っています。3号のアニミズム紀行でひろしまハウスを遠回りにやりました。

私は以前から5号のアニミズム紀行とは別ルートで、磯崎新論というのを書いていました。作家論としては最初は重源論に取組みました。しかし、私は歴史に詳しくありませんので平安、鎌倉期のディテールを知らないと書けないのです。重源は私が最も関心のある建築家の一人ですが、ある時期から磯崎さんも関心を持っている事に気がついて、さずがだと思いました。ディテールがないと論にならないんですね。というのも、重源がどういうものを見て、体験して、九条兼実、西行なんかとどう付合っていたのか。兼実の日記まで読みました。堀田善衛の明月記私妙も読みましたが、ディテールがわからないのです。それでやめてしまいました。

次にバックミンスター・フラー論に行きましたが、これもディテールでつまづきました。アメリカ海軍のことがわからないのです。フラーは海軍の軍人になりたかった人でしたが、近眼であったのと身長が低かったのでなれなくて挫折したのです。それで海軍の軍人になれなかった自分を発見したのですね。ですが、当時のアメリカの海軍のことがわからない。重源、フラーと経て、身近な事を知っている人間でないと作家論は書けないことがわかりました。私も2人を挫折したのです。それで、磯崎さんには悪いけど磯崎新でいいかと(笑)。

私の川合健二ではない方の先生で、渡辺保忠という人がいます。彼から教わったのは、作家は作家論は一度は書きなさいということでした。あらゆる評論の中で作家論が一番高度であることも教わりました。現代の評論には建築論の神髄としての作家論が求められているのではないでしょうか。

磯崎さんのことは岡本太郎がポイントです。まだ詳細は述べませんが。

絶版書房の3号と4号でマルセル・モース、レヴィ=ストロースのことを書きました。彼らは岡本太郎の関係者でもあります。若い人たちは岡本太郎を知らないので、どうやって伝えようか。彼は確かに道化みたいな人でした。文化人類学者の山口昌男が言うところの道化です。岡本の『グラスの底に顔があっていいじゃないか』とか、三波春夫の格好をさせられたピエロのイメージがあると思いますが、本当は無茶苦茶なインテリなのです。

これは5号の販売促進として話していますが、1号から4号ときて、5号で1回建築に引き戻します。これを早めにホームページに出してくれると3号と4号は売れると思いますよ(笑)。

まだ絶版書房を始めて1年経っていないのですが、年内に約1000冊を売り切れると思います。まあ、あれが売れるという事は日本の読者もバカにできないということだと思いますね(笑)。」

二〇〇九年十二月二十二日

2009年12月8日、夕方、新大久保近江屋にて

「今度は逆に質問しますが、あなたは旅のどういう風景を覚えているのですか?あるいは旅に行ったら何を見ているのでしょう?」

「その土地の空気というか、対象と自分の間にあるものを見たいと思っています。例えば、フェズを訪れたときの朝闇の風景は強く覚えています。日の出の30分前だけに見ることができた、月光に照らされた幽玄の都市でした。」

「フェズの早朝の月は確かによかった。西安の月とよく似ていました。確か長安の月天心を唱った漢詩があったような気がしますね。李白だったかな。『長安一片の月 万戸衣を擣つの声 秋風吹いて尽きず、、、』。月の光は本体が光っているのではなくて、太陽の鏡ですからね。自分では光を発していない。あらゆる人間の生が有限であるということを感じさせます。」

「当然昔の人は月の光が太陽の反射光だなんていうことは知らなかったはずですよね?」

「当然そんな事は知らないけれど、光が違う事に昔の人は敏感ですね。高校生の時に新聞に、平安時代の闇を想像できる人間が現代にいるのか、という記事をみてゾクゾクしたことがありました。今はこの蕎麦屋の表にあるようなパチンコ屋があるから、現代には平安時代の本当の闇はありません。資本主義を越えるイメージがないと、もう何もできません。

もう少し具体的な物の話しをしましょうか。

アンナプルナを一周する旅をしたことがありました。アンナプルナというのはサンスクリット語で蓮花座という意味です。広い山で8000m級が何山も続きます。カトマンズからトロン峠を越えてインナーヒマラヤに入った、蓮花座を越える旅です。徒歩で歩いて越えた時に、次の日に訪れたのがアプリコットという村でした。4000mくらいの、リンゴがたくさんなっている山です。そこにハウステンプルというそれぞれの家が寺院を持っている形式の村があります。それを訪ねた時、お経の入っている蔵があって、貧しいけれども家の中心に寺がある家が何十軒と連なっていました。家の外に出るとカリガンダキという大渓谷やK2などの8000m級があって、チベット文化圏を形成しています。インナーヒマラヤであのとき接した風景は、今思うと越えていくということを実体として見ていたなと思います。全く違うスケールのものでした。

一番覚えているのは、ハウステンプルを持っている民家で30分から1時間くらいボーッと山を眺めている人たちがたくさんいたことです。山を見ているんですね。多分インド、チベット、そいうところに行った事のある人たちは体験していると思います。彼らは遠くて大きい山を見ている。そのとき何をこう、見ているのだろうか。何を考えているのだろうか。デカン高原をずっと眺めているインド人も同様です。

彼らは東京の近代人よりもはるかに上等だと思いました。もしかしたら彼らは3歳くらいで死ぬ病気の子供のことを考えているのかもしれませんし、全然違う事を感じているのかもしれません。

仏教がヒマラヤが見える地域で生まれた。すなわち巨大な山が見える地域で生まれた。キリスト教やイスラム教は何もない砂漠で生まれた。このことは非常に重要なことです。

資本主義というのがどこから生まれたのか、それはまだわかりません。」

二〇〇九年十二月二十一日

2009年12月8日、夕方、新大久保近江屋にて

「夜になって、扶桑寺にはすさまじい月光がふり注ぎました。その中の緑、黒、白、黄のストゥーパに初源のような建築の風景を見たのです。

そういう風景を見たあと、磯崎さんは『もう帰ろう、キリがない。帰った方がよい。』となりました。それで麓までジープで走って、ワールドカップを見た(笑)。

磯崎さんとの別れの朝に扶桑寺近くの町から空港までの会話で磯崎さんに山の話しをしたのです。登山も建築も変わりはない、バリエーションでしかないと。磯崎さんは耳を傾けてくれて、『そうか、石山は登山家だったのか』と言ってましたね。そういう話しを一時間くらいしました。それで飛行場について、互いに手を振って別れたのです。ラサ空港で別れた磯崎さんは、私にとっての磯崎さんでした。ああ、磯崎さんと別れているなという感じがしました。

磯崎さんもそのときは妙に人間的で、手を振って別れたのです。これが磯崎だなと感じたのは、それが最初で最後でした。

全ての旅がアニミズム真直中の旅でした。ちょっと間違えば死に対面せざるを得ない。感覚が研ぎすまされています。

道中、磯崎さんに『磯崎さん、アレがヒマラヤエレベストの6000m級の山ですよ』と言っても磯崎さんは『オレは山には関心がない』と言い、私は建築よりも山の方が面白いと思う。磯崎さんが『石山、海と山のどっちが好きか』と聞いてきました。磯崎さんは海なんですね。コルビュジェが地中海に行ったり、大分出身だったり、ルイス・カーンの建築を見に行って落日の見えるホテルに泊まったりする。磯崎さんは海のエロチシズムの人です。

ただ、私はヒマラヤの6000mも海と同じ様に青いものが視えるのは知っています。海と同じなのです。

その6000mクラスの峠を何回もジープで越えられた、あれは近代的体験です。高い高度は地中海と同じくらいエロスがあることを感得していました。

5000mを越えて休もうかといったときに、旗が風になびいてパタパタ鳴っていました。風がヒューっと鳴ると、敦煌の空港で見た風がたった一枚の枯れ葉をつむじ風で巻き上げたときを思い出して背筋が凍りついたのです。神様みたいなモノを見たようなものです。ちゃんと記念写真を撮って、酸素吸入器を口に当てている写真を撮りました(笑)。

そのとき磯崎さんは風と旗の鳴る音を聞いて『風が字を読んでいるのだ』と言ったんですね。旗にはチベットの文字が書かれていました。その旗が音をたてて翻す様を見て、磯崎さんは風が文字を読んでいるんだと言った。今だから、磯崎さんはアニミズムを知っているなと思います。彼は高度の高いアニミズムを知性によって感得している。風が文字を読んでいるというのは、言える事ではありません。」

「そのように日々感覚を研ぎすませていたいものですね。」

「死ぬかもしれない、生命が危ないと思ったのです。ですが、今話しているような日常のやり取りも本当は命がかかっているんです。こうして話すのは1回しかない。2回はできない。一刻一刻死んでいく事にいつ気が付くか。一刻一刻が超スピードで死んでいく。人間はそれを旅になぞっていかないとわからないのです。それをちょっとでも感じた人が何かを成すと思います。

さっきのジョカン・テンプルでもらった仏像の話しですが、私がもらった若い頃の釈迦が一番美しいのです。磯崎さんのはでか過ぎて良くありません。あれを磯崎さんはどこに置いておくのか。『さりとても死ぬのはいつも他人なり』というデュシャンの言葉に共感を寄せる磯崎さんが仏像を大切にするわけもない。それだけで磯崎世界が全部崩れてしまう。でも本当は身を浸したいのだと思いますよ。」

十二月二〇日 石山修武

ようやくにして、絶版書房、アニムズム紀行3、4の残部がそれぞれ 10 冊台 20 冊台になった。読者の皆さんのおかげである。今週中に絶版できたら嬉しい。昨日得たアイデアなのだが、アニミズム紀行は次第に旅行記のスタイルを借りた、プロジェクトへのガイドブックにする。批評に非ず、回想的エッセイに非ず、小説に非ず、プロパガンダに非ず、詩に非ず、長編俳句でも非ず。しかしながら、もっとも既存の表現分野では詩と俳句に近い世界の深みに潜航したいと考えている。日本近代詩という最も恥かしい形式と、日本常民(生活者)の言葉の器用仕事である俳句という形式をハイブリッドさせたいと考えている。私がアニミズム紀行に描き込んでいるドローイングも俳画だと言われれば、そうだなと言っちまった方が良いのかとも考え出した。俳画、例えば金子兜太の墨絵を、山口勝弘のイカロスのペインティングと比較すれば明らかに上下は無い。実に良く似ている。

梅咲いて庭中に青鮫が来ている

の句に梅の樹、梅の花の絵が書きそえられた屏風を真栄寺で見た記憶がある。アレと手許にある山口勝弘のイカロスの箱書きのあるペインティングは全く同じ世界である。

それ故、来週のサイト・トップページに、「ひろしまハウス」ドローイングに言葉群をそえたモノの実験をやってみたい。すでに書いたが「ひろしまハウス」ドローイングの最新のモノ 20 冊位は自分なりに納得したモノになっている。ドローイングに俳画の如くに俳句を描き込む程に私は間抜けではない。阿呆あるいは与太ではあるが、色々と考えているのだ。だから、冊子に俳句を描き込んだりはしない。それは読者をナメているに通じる。なにしろ送料込みで二千五百いただいている。

しかし、ウチのサイトは無料の垂れ流しである。私の記録愛好癖とねじれた自尊心、たち切れぬ自己表現欲が入りまじった気持から生み出されてもいる。ともあれ、恥をかこうが、無視されようが、どちらかだろうから、それならやってみよう。と、「ひろしまハウス」ドローイングに俳句をつけてみようと決めた。私の字はとても見れたものではないので、句はやっぱり、印刷文字とする。で、いくつかのドローイングに俳句をつけてみる。コンピュータの画面では誰でもそのドローイングと俳句らしきの双方をのぞく事が可能である。

そのオリジナルドローイングには文字はのせない。でも所有者、つまり購買者は自分所有のドローイングに、つけられた文字をコンピューターで、もしかしたら特別な想いをもって体験してもらえるかも知れない。と勝手に思う事にした。

ともあれ、今、日曜日の午前中、背中にポカポカと陽光が暖い中で、コンピューターサイト俳句をば、ひねり始めた

石山修武

十二月十三日、3 2よりつづく 

ななと、しちの違いを見逃さぬところを見ると、シナリオライターかな。

「そうでした、しち人の刑事でした。ところで、ここの食堂、フーテンの寅さんの第何作だったかな、弟分のオサムと上野駅の地下食堂でわかれたところ、あそことうり二つじゃありませんかね」

「そうですな、アレはシリーズ中の名場面でしたな」

「でもね、ホラ、こうもと幸代の第一作がやはり凄かったでしょう」

「こうもと、じゃなくって、みつもと幸代です」

「そう、そう、その光本の、ホラ、♪殺したい程、ホレてはみたあが、指もふれずにわかあれたよ。だな」

「そうそう、ミツモトの手がヒラリとアップで空を舞って、それがもう忘れられないネェ」

「あの、ミツモトが御前様にいわれて、嫁に行くという相手ね、どっかの大学の先生だっていう、あのヤローはイヤな奴だったなあ」

「そりゃ、そうです大学の教師なんてのに、ロクな奴がいるわけネェですよ」

「そうそう、アンタ気に入ったネェ。スシ喰いネェ、ビール飲みネェ」

もう、話はあっちに飛び、こっちに飛ぶ。しかも、スピードが速い。

こんな事書き散らして何になるんだろうの疑いも大いにある。こんな文章書いてそれで、アニミズム紀行3は二〇〇九年の十二月いっぱいで売り切ることができるのだろうかと大いに疑うのではあるが、それでも止まらないのだ。何故か、なんて考えていても仕方がない。そんな意味らしきを求めて、サイトに言葉を送り出しているわけではない。だから、あなた早く買いなさい、アニミズム紀行3、4。

このオヤジときちんとコミュニケーションできなくて、何のサイトか、何のコミュニケーションか。何のアニミズムなのかと気持はグルグル廻るのである。このオヤジ、西部劇の話すればキチンと以上についてくるし、次郎長三国志だって、勝新の悪名だって、銃をノドに当てて自死した田宮二郎のことだって全部ついてくる。サム・ペキンパーのゲッタウェイのスティーブ・マックィーンなんかお茶の子さいさいについてきちゃうし、ポール・ニューマンの左ききの拳銃も、ビリーザキッドの死に際のアニミズム振りだって、どうやら知っているようだ。大変な野郎だ。

少なくとも、アニムズム5号、すなわち二〇一〇年のお初の奴は、このオヤジにもキチンと伝えられる如くを目指したい。できるだろうと思う。その為のトレーニングなんだから。

そのためには、話す主体、語る人を少し計りデザインし直さなくてはならない。アニミズム一号に記した、母のお宝三体の話しが生きるのだが、アレは二〇〇人の読者しか知らぬ筈なので、ひと工夫もふた工夫も必要だろう。このオヤジも母も、どうやら本当に何かをつくるのが大好きな人間のようだ。私が、今こうやって手のうごくまんまに言葉らしきを書きつらねているのと何のちがいがあろうか。

二〇〇九年十二月十八日

2009年12月8日、夕方、新大久保近江屋にて

「次に磯崎さんとのチベットの旅の話しをしたいと思います。

対東京としてやった福岡オリンピックの招致活動の計画づくりがほぼ一段落して、最終プレゼンテーションとの間の骨休みに磯崎さんとチベットを旅しました。磯崎さんから『一緒に行こうか、費用は誰かが持つから身一つでこい』と言われて、まずは上海へ行ったのですが、この旅もまた大変な旅でした。

上海―成都―雲南省のシャングリラまで飛行機で飛んだのですが、この雲南省は昔から行ってみたかった場所でした。俊乗坊重源の大仏様は宋時代の雲南省から来たのだ、大仏様というのは中国の南部で生まれた様式だと実際に行ってみて思いましたね。磯崎さんも私もそういう雲南省に興味を持っていましたから、そこを陸路で行けるのは死んでも良いぐらい嬉しかった。

雲南省のシャングリラは標高3600mの黄金郷です。町はテーマパークみたいになっていましたが、夕方町を一巡して大木をたくさん見ました。日本の鎌倉時代に当たる民家でも、ものすごい大木を使っていました。やはり大仏様はこの辺りから来たのだとよく分かりました。直径1mくらいの大木がみんな民家の中に使い捨てられていたのです。こんな大木は廻りを見回してももう一切生えていないんですね。それで中世の中国というのが大木を切り倒してきたのがわかるのです。あの雲南省のシャングリラで見た鎌倉期の大木、それを確かめただけでもなるほどなと思いました。ちょうど阿弥陀の来た道をたどるのと似た気持ちです。

シャングリラからチベットのラサまでは車3台で向いました。ラサまでは何百キロか走ったと思いますが、これが非常に危険だった。中国人の大雑把さに加えての悪路、それを延々とメコン川の上流を目指して走りました。途中で道が崩れていて、四輪のランドクルーザーで傾きながら、その崩れた道のガレキの山を走ったのです。もしタイヤが滑ったら、400m下まで落ちていたでしょう。隣りの席に座っていた磯崎さんは、大変剛胆で『もうしょうがない』と意を決した顔をしていました。私はどうかと言えば、『コレワ、もしかしたら死ぬな』と思って、『オレは死んだら新聞記事にどう出るのか?』ということばかりを気にしていました(笑)。おそらく『巨匠磯崎、チベットの旅に死す』という活字がデカデカと出て、その脇の方に『随行していた建築家、石山』と出るのだろうか、それはイヤだな、『ついで』に死んだとは書かれたくない、死にたくないナア、なんてことが頭を巡っていました(笑)。

この時通った道は、さすが磯崎さんらしくて、実は毛沢東が長征した道だったのです。古茶道で栄西が日本にもたらしたのもこの道です。つまり人がテクテクと歩いていた道だったんですね。この道は断崖を60cmくらい切り開いてそこにくっ付けたような道です。そこをランドクルーザーでメコンの源流を目指して進んでいく緊迫感とバカバカしさがあって。もう死ぬという思いと、賢い磯崎さんが何て事するんだという思い。その道の途中に壊れたトラックが道を塞いでいる箇所がありました。前にも進めないし、かといってこの道をバックで戻るのは恐怖そのものです。磯崎さんは『これはヘリを呼ぶしかないな』とか言ってましたね。

そのときフト頭をよぎったのは磯崎さんがコミッショナーをやって、私が参加していた名古屋デザイン博のガウディの城のときの一節でした。会場に皇太子が来る時にコミッショナーの磯崎さんが来なかったんですね。もう名古屋は大騒ぎです。主催者は自衛隊のヘリを呼んでも磯崎さんに来てもらわなければならないと大慌てでした。でも磯崎さんはそういう要請に『腰が痛い』とか言って結局来なかった。

磯崎さんの『ヘリ』という言葉から、そのヘリを思い出しました。度胸というか骨格というか、人間としての磯崎を垣間見た記憶がフト蘇ったのです。

しかし、この狭い道ではヘリが降りるところもありません。かといって、行くも戻るもできない。それで、谷底の温泉に行こうということになって、500m下まで下りていったのです。そこには良い温泉というか温泉のプールみたいなのがありました。そこで磯崎さんが用意が良くて、なんと海水パンツを履いていて『おーい、石山早く来い、いい温泉プールだぞ!』と呼んでいたのを覚えています。やっぱり巨匠は違う。なぜこんなところで泳いでいるのか?とこっちは思ってしまいます。あのセリフは忘れることができません。凄まじい剛胆さと人生を見透かしているのが両方同居しているのです。これは偉くなって金を稼ぎたい人ではない。磯崎さんへの相対主義とか批評的行動といった一般的に言われている批評らしきは、この人の一面しかとらえていないというのがよくわかりました。

さて、次の日にはトラックが片付けられていましたから夜中のうちに除去されていたのでしょう。また前に行くのか、何があるのかわからないゾという気持ちです。やっぱり何があるかわからなくて、磯崎さんが大けがしたのはこのときです。それでも何日かしてようやくラサに着きました。同行していた中国人ディベロッパーがエレベストのベースキャンプまで行こうかと言いましたが、磯崎さんも私も今更山なんて見たくありませんから行かないことになりました。

ラサのポタラ宮では中国でNo.2か3の活き仏に会いました。ダライラマの次の次に当たる活き仏で風格がありましたが、磯崎さんにダライラマと比べてどうかと尋ねたらダライラマの方がオーラが強いと言っていましたので、私もなるほどと納得しました。

磯崎さんは怪我をしていたので、チベット医療の医者に診てもらいました。それでも磯崎さんはポタラ宮を1日かけて歩いていました。かなりの大けがでしたから、なぜこんなことまでして建築を見なければならないのか。磯崎さんは歩けないのに、ポタラ宮を丸一日歩いていたのを覚えています。私も磯崎さんと一緒だったので一般に公開していないところまで全部見せてもらいました。

大昭寺、ジョカンテンプルの僧侶からも仏像をもらったのですが、大きいのは磯崎さん、中くらいのは私、小さいのを中国人ディベロッパー、といった具合で、チベット仏教にも序列があるのが面白かった。セレモニーがあったのですが、『石山出ろ』と言って磯崎さんは出ない。そういう捌き方を磯崎さんはします。それで私が出ました。

チベットの僧の拠点がジョカンなわけですが、チベットの騒乱以降僧侶たちはどうなっているのでしょうか。それで若い活き仏と一緒に扶桑寺に行ったのです。扶桑寺というのは曼荼羅そのまま寺院になっている寺です。そこまでジープを走らせて、広い川を船で渡りました。悠久の時間の中を旅していました。磯崎さんも満足していて、このとき磯崎さんが撮った一番良い写真は私のチベット紀行に収録されています。このとき私たちは何を感じていたのか。文字の発祥を感じたのだと思います。

扶桑寺だけでなく、良い体験をしていると面白いことはキリがありません。」

石山修武

十二月十三日、2 1よりつづく 

会話の始まりは、まあこんな調子であった。なにしろ絶版書房買いなさい。私は世に言う建築家であり、大学の教師でもある。ハッキリ言って、ロクな人間ではない。だから長野食堂でも実は建築らしきの話しをしていたのである。建築なんて普通の、当り前の人には何の意味もネェ。つまりどまいなあな世界だ。それにどうやら絶版書房の出版物の読者の大半は建築関係者、しかも設計者と、知的好奇心のいまだ旺盛な学生達であるようなのは、買ってくれた人達のリストからも知っていたのであった。要するに、絶版書房の読者は世界でも有数なと憶測せざるを得ぬ、マニア集団エリートの色が濃厚なのである。少し考えさえすれば知れた事で、それは四〇〇部一冊二五〇〇円送料込みの本を売り切らぬ位の特異性を持つ。

この事は絶版書房を始めた当初から意識はしていた。だからこその絶版書房のネーミングである。意識はしていたのだが知識人は愚かである。その現実にガツンと当たらないと、その厳しさは身体でわからないのだ。つまり、面白ければ何とかなるだろうと、たかをくくってもいたのだ。四冊出版したアニミズム紀行は面白いだろうとは思う。その面白さの最たる事は何を目指した紀行、つまりは旅なのかを著作者は一向に明らかにしようとしない、不気味さがある。背筋が凍りつくような恐ろしさではない。むしろ、もしかしたら著者も行方が分かっていないのではないかと容易に推察できるような安易な風も確かにあるのだ。

クドクドしく言うが、それでも絶版書房である。つまりは、ある一定枠以上は決して売らない、そして売れない事をハッキリと目ざしているのではある。要するに、ある特定の集まり、集団を想定し、読者はイヤな気分になるかも知れないが、その集まりに対して、書いてみたいと考えてはいる。文化文明的にはかなり腰を据えた試みである。

ところが、長野食堂でいきなり話しかけてきたオヤジときたら次にこう言い放ちやがった。

「もしや、ちがっていたらお許し下さい、もしやもしやですよ、落語界の方達でしょうか」

ガク然とした。その時には丁度、堀口捨己の茶室について話していたのである。堀口の利休の茶室の研究について、そして堀口捨己に対しての磯崎新の敬愛振りについて。アノ、クールな相対主義者である磯崎がほとんど唯一、手放しでとも思える信頼を寄せている堀口の学識、思考の中心が日本的なと、それのマイナーなモノとして位置附けられてきた茶室、数寄屋について、年下の聞き手に、いい加減なホラも交えて話していたのである。それが落語に聴こえたらしい。喜ぶべきか、頭をたれるべきか、今は知らぬ。

「こちらの方、どなたか知りませんが、ボソボソしてて、本当、落語家そのものじゃありませんか、そのネタを聞き書きしてるお弟子さんですね、こちらは」

私は堀口捨己の、そして磯崎新を話している時に、口をすぼめて、するってえと、なんて合いの手はいれてはいなかった。

それなのに、ほんの1メーターも離れていないテーブルで、盗み聞きしていたオヤジにはハナシのネタの伝授の如くに聴こえていたのだろうか。しかしハナシ家であるなんて嘘ついてもスグにバレるのは知れた事。

「ハナシ家でも、ネタ作りでもござんせん。しかし落語は好きでしたよ」

「ヤッパリ」

何がヤッパリだ。コノヤロー。

「で、どちらの方面だったんでしょうか」

こおいう時にはオーソドックスにゆくのが一番安全なのである。

「マ、先代、文楽ね」

「ヒェーッ、お会いになったんでしょうね師匠に」

「でもね、志ん生も同じ位に好きだったなあ」

「ヒェーッ、さいですか、流石だなあ。やっぱり、じかにお目にかかったんでしょうね」

「しかし、志ん朝の早死は落語界の大痛手だったなあ。談志も頑張ってるけどネェ、学生時代談志の現代落語論なぞ読みふけったものだ」

「ヤハリ、アタシも読んだんですよ・・・」

何処までも、話についてきて、しかも本能的にオヤジの方が上手なのが次第にわかってきた。どうも始末におえない相手につかまってしまったようだ。

「ところで、見ず知らずの、アータ、アータはそもそも何者なんでしょう。なな人の刑事の芦田伸介みたいな格好しちゃって」

「なな人じゃありません、アレはしち人の刑事です。八百屋お七のしち。」

オヤジは私のミスをたしなめてくる。このオヤジ、芝居関係のオヤジかも知れない。

つづく

二〇〇九年十二月十六日

2009年12月8日、夕方、新大久保近江屋にて

「今日はアニミズム紀行についてということで、毎日新聞記者の佐藤健との最後の旅についてお話ししようと思います。人間は身の廻りの実利的なこと以外のことどもはすぐに忘れますが、友人だった人たちも佐藤健のことを忘れ始めているように思います。そりゃ、そうでしょう。彼は向う疑うことのない日常にとっては大きな?でありましたから。今日は何故人間はある特別な人間でさえ忘れてしまうのかについてお話ししてみたいと思います。何故なら私は忘れないから。でね、一人でも忘れない人間がいる間はその人間は生き続けているからです。

佐藤健は60歳になったばかりで亡くなりました。亡くなる一年程前から、私は彼が近いうちに亡くなることを彼自身から聞いていました。飲み過ぎで、アル中になって、肝臓がんだと自分で言っていました。それが転移したとも。

彼は宗教に関するプロフェッショナルと言えるくらいのジャーナリストでした。自分の死期を悟ったときから『生きるものの記録』という連載を毎日新聞に掲載して、全国で大変な反響がありました。だからといって人間はそんな事はあっさりと忘れてしまいます。何もかもおぼえていたら生きていられないからでしょう。だって、考えてごらんなさい。人間は記憶の土台の上に生きていて、人間の頭脳はいいかげんなものだから、その記憶の構造をシンプルに整理してしまいたがるんですよ。そういう彼を私が忘れないのは、最後の旅を一緒にしたからです。人間の形が一番ハッキリするのは死に体面した時の姿形です。生きている途中の形はあいまいなんだ。

佐藤健から『どうしてもシルクロードに一緒に行ってくれ』と言われたのです。仏教伝道協会、龍谷大学他の支援を得た『阿弥陀が来た道』を毎日新聞の日曜版に連載するためです。阿弥陀というのは光という意味で、仏教の様々な仏の中でも阿弥陀はどこから来たのか分かっていないのです。佐藤健はそれがシルクロード、つまりイラク、イランつまりペルシアから来たと考えていたのです。それで彼は『阿弥陀が来た道』と称しました。これは日本仏教界の信任と、本願寺の大谷光瑞の大谷探検隊100周年事業として龍谷大学の支援を得た非常に大きな企画でした。

彼が何故自分が死ぬのをわかっていて、阿弥陀の来た道だったのか。阿弥陀は光の神様、つまりイコンです。ご存知のように阿弥陀仏のイコンは金色をしています。仏像はオリジナルの頃はみんな金ピカでした。つまり光が造形化されたイコンだったのです。

そういう意図と企画を持って、彼の阿弥陀が来た道の3回目の旅に初めて同行したのです。佐藤健から『どうしても行ってくれ』と言われた旅でした。同行したのは杉浦康平さん、当時龍谷大学学長の上山大峻さん、それから佐藤健と、毎日新聞のカメラマンで健の介抱役だった滝さん。途中北京で通訳をつけて計5〜6人くらいの隊でした。

佐藤健は東大病院の担当の医者から『行ったら死ぬ』と言われても『行きますよ』と言って行ったのです。それは死出の旅でした。本当は健はこの敦煌の旅で死にたかったのだと思います。実際、旅の途中で2回非常に危険なときがあったのです。飛行機の機内食も戻してしまうし、喉も詰まったりしました。

しかしながらある意味で同行者はみんなドライでした。

杉浦康平さんはアジアのイコンの研究家として随一の人です。龍谷大学の上山大峻さんは敦煌研究の絶対的権威です。その中で私だけがただの友人として参加していました。10日くらいの旅で、みんな何故行くのかと健に度々尋ねました。これは本当だったと思いますが、健は『シルクロードの落日が見たい』と言ったのです。『シルクロードの夕日が見たい。』阿弥陀が来た道ですから、なぜ光が来たのかというルポルタージュだったのに落日が見たいと。健は明らかに自分の死と重ねていました。

この旅ではタクラマカン砂漠の落日が3回ありましたが、全部曇ってしまいました。彼は生命を燃やすような落日を見たかったのだと思います。そして死にたかったのです。見せてあげたかったけれども、曇っていたので、実際はボヤッとした夕日しか見ていません。そんなに地球は人間の都合で廻っているわけネェんだ。

敦煌の流砂山で話したときのことなのですが、彼はすでに戒名を持っていたのです。それが『自業自得大明王』というもので、当然仏教界では大明王とは何事だということでN.G.だったのですが、本人はそういう戒名で死んでいきました。死ぬのが分かっている人間に対してそういう話題をあえて出して、それをネタにして大笑いしていたのです。お互いに彼が死ぬのが分かっているのに、シンミリとしていない変な旅でした。『自業自得だから、早く死になさい』なんて笑い合ってね。そういう話しを砂漠の中で何日もしていました。振り返れば、アレは健にとっては救いだったかもしれない。自分の死が笑われていたんだから。

それから敦煌に西安から飛行機で着いた時のことです。砂漠の中で他に何もない飛行場でした。カメラの機材が多かったので、手続きに手こずって待っていたときに一塵の風が吹いたのです。すると飛行場の前の砂漠で数少ない枯れ葉を巻き上げたんだ。風は直接見ることができないですから、葉っぱの動きで風が見えるんですね。それを見ていた健の目の光の異常さは一生忘れることができません。これは極限のセンチメンタリズム(※アニミズムの実体でもある)ですが、初めて私は風を視たと思いました。

当時はアニミズムという言葉を知りませんでした。しかし今は知っているので、あの時あそこにはそういうものが確実にあったと思います。死ぬときの末期の人の目を持っていたのでしょう。あの10日くらいの旅はそれの連続でした。人間の死を非常に身近に感じましたね。人間の日常の中に死が住んでいるということもよくわかりました。

阿弥陀という独特の凡アジア的イコンはしかしながらヒンドゥーにもイスラムにも、他にはありません。あなたと行った韓国の旅は私にとっては4回目の韓国だったのですが、光を本当に理解するには韓国しかないと健は言っていました。あなたにはそれをだまって旅をしていたのです。その旅で得たものはまだわかりません。紀行や旅というものは何年か浄化されないとわからいものではないかと思います。パッとすぐにわかるのはたいしたものではありません。何年かして、そうかもしれないなと思うものです。

あの韓国の旅は冬でしたが、本当は夏がよかった。カンカンに日が照っていて、サルスベリの花の季節が韓国は良いです。あのときの韓国はすでに私が思っている韓国とは全く違いました。グローバリズムの中の韓国を見せられたという気がします。河回村、海印寺、浮石寺もそうです。

ただ、海印寺の山並みだけはすごかった。堂々たる山並みの重さが韓国だとわかりました。

佐藤健との敦煌の旅、そしてこの山並みの韓国はアニミズムの発端というか、スタートなのです。」

追記:石山修武 2009年12月12日

このインタビュー記事には手を入れた。個人の特異な体験をメモしておきたいのと、絶版書房アニミズム周辺紀行の宣伝のためにと、やっている事だが、この断片にはそれにとどまらぬ何者かがあるような気がしたからだ。

インタビューは私自身の記録ではない。私の言葉は断片的素材であり、それを文章にしているのは記録者である。だからこの文は私と記録者の合作であり、更には故佐藤健が断片素材として入り込んでいるから、三者の合作の言葉になっているのである。更には―――、と考えをすすめていくと、ささいなこの記録が壮大な交響曲のようにも感じられるのだ。少なくとも複数の、自他のみならず、自然や宇宙の一部と響き合っている筈である。

少なくとも、そのように構成されていよう。

つまり、この記録の断片こそがアニミズムの実体である。少しでもこの実体の内に降下してゆくつもりだ。

インタビューの冒頭で、何故人間は忘れてしまうのか話してみたい、と述べているけれど何の話しもしてはいない。つまらぬヘリクツの断片があるだけで、しかもその断片もどうやら石ころにすぎぬ。鉱脈にはまだ行き着いていない。

しかし、ここに記録した言葉は私個人の所有物ではなく、何かしらもう少しアブストラクトに合成された仕組みを持つものであるらしい。

今、アニミズム紀行5、6を作り始めているが、ここで気付いた事はとても重要な事なので、気付いた事は何らかの形式に落としてゆくつもりだ。

死んだ佐藤健をして語らしめる位の事はできるだろうけれど、海印寺の山並みに見はせる、あるいは他の心の御柱につぶやかせる、そんな芸当はまだまだ出来そうにない。でもチョッとした事は試みてみるつもりである。

何者でも対象について書く、あるいは話そうとする事は、その対象自体が知らしめようとする事を感知することでもあろう。対象が「物質」である時にはどうしてもいささかのジャンプが必要になる。対象が人間である場合には、その人間の尊厳さえ犯さねば、比較的容易になしても、それは他者を介した表現の自由の領空に属するものではないか。その自由の中にもアニミズムは在るにちがいない。

石山修武

十二月十三日、1

もういつの事であったか定かではない、と思いきや絶版書房サイトを検索したら、つい昨日、つまり十二月十二日の夕刻の事であった。記録はごまかせない。すでに時間迄もが直線状に移ろうていないと書きたいのだが、そうは簡単に書かせてくれないのが現実だ。つい昨日の事であったのを知りたくもなかったのが原因だろう。

新宿駅南口の坂下、高島屋がドカーンと南口を再開発する前迄は、ここは立小便の匂いも濃厚に漂う、うらびれた新宿の裏の顔であった。もともと新宿というところはそういうところでもあった。場外馬券や各種ギャンブルに群らがる人の好い、少し汚れた労働者諸君の群れていた場所であった。勿論、人の好いたって、中には悪い人もいただろう。今では長野食堂という名の、いかにもな大衆食堂らしきが、ほとんど奇跡のようなたたずまいで、昔のつまり60年代風の新宿の面影を残している。

四階建の小ビル全体が長野食堂なのだが、二階以上の大半も、あんまり使われていないようだ。そんな事はとも角、昨日、つまり十二月十二日、ゾロ目の夕刻である。私はいつものように、このリバプールのワンショット・バーみたいな、プロレタリア食堂で、ビールを飲みながら、絶好調で、絶版書房インタビューを吹き上げていたのだ。木枯らしの酒場じゃあるまいし、外れ馬券が冬の風に舞っているような、店内には、それでも何がしかの人らしきがいた。

絶版書房インタビューは身内とも呼ぶべき研究室の人間に、労を乞い、というよりも、労を強いて連続インタビューを試みているのである。目的は今年の初めに始めた絶版書房活動の宣伝である。今の世に、本も雑誌も全く売れなくなっているのは風の噂では知らされていた。しかし、どうも、身体の何処かにひねくれ虫が巣くっているので、それなら自分で本を作って売ってみようと思い付いたのだった。「アニミズム紀行」と題した超長期の紀行文の連続出版を始めた。一、二号はアッという間に売り切って、名前の通りの絶版に持ち込む事ができた。たかだかそれぞれ二百冊程のものであった。

それでは、と図にのって、三号は四百冊を売り出した。これが苦労の始まりで、仲々に売れてくれなかった。四号も同様にあんまり売れない。サイトで知らせて、買ってもらえばいいやと安易に考えていたのが、いけなかった。

これでは在庫だらけになって、五号、六号と続ける事ができないと、ようやく知り、本格的にあわてた。それでセールス・プロモーションしようと考えた。プロモーションといっても、こちらにあるのは自分のサイトの読者だけである。他は何の、誰も味方になってはくれない。で、結論として、広告文を能力の限界迄書いてみようという事にした。

今、こうやって書いているのもその限界線上のアリアならぬ、アレコレなのである。何の思わせ振りの観念も、理クツも無い。ただただ、絶版書房の品を売らんがための努力なのである。本当に、あなた買いなさい。それで、アレコレあって昨日である。私のサイトには日記らしきも掲載されているので、興味ある人はそれもついでに読んでもらえば、アレコレの内実の一部は知れるだろう。

インタビュアーを前に、ビールも入って吹き上げていたところに不意の侵入者があった。

隣の席で、一人黙々と、これ又ビールを飲んでいた 60 才がらみのオヤジがいきなり、インタビューの会話に侵入してきたのだ。

「アノ、失礼とは存じますが、おたく等、いい方は悪いが、この店にしょっちゅう来ている人とも思えませんが・・・良くここにくるんですか」

それ位に、長野食堂は絵に描いたような、新宿ゴロマキプロレタリアート食堂なのである。勿論、値段も安い。ビールは珍らしく中ビンではなく、でっかい大ビンもある。私はいつも大ビンだ。侵入者のオヤジは中ビンを飲っていた。そういうところは私は眼が速いのである。

「いや、ほとんど毎日のように来てますよ。馬券外れたり、競輪、競艇、外れて、ヤケ酒の常連ですから」私は一切のギャンブルはやらないので、これは大ウソである。

つづく

二〇〇九年十二月十三日

2009年12月7日、夕方、石山研究室にて

「3号を今は描いていますが、描いたものは全部覚えています。

3号は4号とも違う。ひろしまハウスの構造のようなものとジャングルを混ぜて描こうかと思っています。まあ、自由ではないわけです。

以前に描いた燃える人間のドローイングは描いたものの中では奇麗でしたが、少し幼稚なことをやっているなと思う批評家が自分の中に出てきています。でも、あれは奇麗だったと思いますよ。」

「建築のスケッチをするのとは違いますか?」

「違いますね。建築のスケッチでも具体的な依頼がないときのスケッチは自由なスケッチをするときがあります。建築の大半は依頼仕事ですから、それから自由であることは少ない。キースラーやフラーのプロジェクトのスケッチに見られる情熱は良いものだなと強く思います。

今何冊目?」

「七冊目です。」

「あと三冊でやめよう。前は3時間くらい描いていました。本当は5冊くらいが良いのですが、絶版書房が売れ始めたので追いかけられています。

描いていて、バランスや余白の取り合いがおかしいなとか、そういうことは考えています。音楽家みたいなことを多分考えているのだろうと思います。サインをローマ字で書いていたのですが、ローマ字は日本の筆に合わないことがわかってきました。それで漢字に変えたのですが、これだと字を書くのが下手だと分かられちゃうね(笑)。」

「ドローイングにはローマ字のサインと漢字のサインのどちらが絵的に合いますか?」

「漢字の方が似合います。漢字には意味がありますし。石山の石と山。山などは山の形からとった形象文字ですから、ドローイングの意図としても合います。

(太い線を4本ほど画面いっぱいに入れて)書道家だったらこれで止めていますが、それほど私はプリミティブではありません。そういうインチキっぽいのは好きではありません。で、これから色を入れます。」

「どこで止めるのですか?」

「それは私の中にあるモダンな美学で決められているのでしょう。コンポジションとか、バランスが良いとか、それから決して自由ではありません。

この薄墨がくせ者です。同じ黒でも無限の黒があるわけですから。薄墨はそれだけで情緒的になります。

それから、筆を離して持つのと近くで持つのとは全くタッチが違います。文人画はまじめに描きたいという思いがあるので筆のにぎりは穂先の近くで持ちますが、離して持った方が自由になると言われています。

色を限定したのは労力といった実利的なこともあります。緑だってきりがないくらい色はあるわけですから、限定しました。こうしてドローイングをみると、色でカバーしているのがよくわかります。色はフォルムではないですからね。

ヨーロッパの絵画の歴史でもブルーとかグリーン系の貴重な鉱石が発見されたときは画家達は揺れ動いたらしいですよ。」

「フェルメールのラピスラズリのようですね。」

「(ドローイングに色を入れながら)ほら、コンポジションしているでしょ。ヨーロッパの絵画には余白がない。空間がないのです。今、朱色を入れていますが、アニミズムの生命とかそういうものではありません。ブルーを使うと空に見えてしまって、失敗することが多いですね。

いつ止めるかというのは、藤野さんは素人はいつまでもやっちゃうと言いますが、こっちはシロウトですからね。」

「ドローイングに名前はないのですか?」

「ありません。つけても馬鹿げています。『無題』という題はよく言ったものだと思います。

、、、止めようがなくなったな(笑)。こうして点を打っている時には個数は気にしています。2が良いか、3が良いか。4は避けています。やりながらルールを考えていかないと、とめどもなくなります。

本にドローイングを入れていると左右にページが分かれているわけですが、ときどきそれもつないでいます。どうしても飽きがきますから。」

二〇〇九年十二月十二日

2009年12月7日、夕方、石山研究室にて

「今4号にドローイングを入れているところです。

以前あなたの質問で『内容と絵は関係があるのですか』と聞かれましたね。そのときは『出来るだけ関係がないように意図的にやっています』と答えましたが、こうしてドローイングの現場をお見せしてみると、全然自由ではないですね。4号のドローイングは、やはり3号のそれとは全然違います。アニミズムとは何かということをドローイングには出来ませんが、全く本の内容から自由になることは無理ですね。

今描いているのは山口先生もどきで、イカロスがこちらに焼き付いているのがわかります。しかし、山口先生も本当のところは自身のドローイングとイカロスは関係がないはずです。ただ、山口先生もイカロスという言葉に触発されている部分があるでしょうね。

こうして描いてみると点描からどう逃れるのかというのに加えて、宮脇愛子さんの影響も受けているなと自分で思います。宮脇さんからは以前墨絵をいただいたことがあって、宮脇さんも墨を紙に叩き付けたような絵を描いているのですね。

山口先生のイカロス展のパンフレットの絵が頭に入っていて、いくつも描いていると宮脇さんのも真似しているのがよくわかります。

対して、3号の絵はもう少し明らかにひろしまハウス的なドローイングです。

4号の方が抽象的で、薄墨と墨汁のままの2種類といった具体的な手段で抽象的なものを表現しています。

3号にはそれに加えて色使いがあります。緑と黄が主体です。カンボジアのジャングルの緑やアンコール・ワット、プノンペンのカーンと照りつける光を描きたいと思っているのがよくわかります。3号の方が具象的ですね。

3号と4号は具象と抽象です。いわば具体と実験工房。しかし、具体と実験工房は人が言う程分離していないのではないかという思いもあります。

こうしてみると筆使いだけで随分と色んなことができます。

昔、池原義郎先生のところに行ったときに、村野藤吾の書を額に入れて事務所に飾ってあったのを覚えています。非常に達筆な字で、上手いなと思いました。池原先生も達筆で流麗な字をお書きになります。

磯崎新さんも書をやられます。頭が良いですから、当然意識的な書です。書というのは雛形、つまりまねる相手が重要だと言っていました。彼はデュシャンに傾倒していますから、墨を使って美術というか現代芸術のようなものを狙っているのでしょう。磯崎さんの書は知的ですが、流麗ではありません。

毎日新聞にいた佐藤健も書をやりました。彼は道具から入る人で、一本100万円の筆を並べ立てていたのをあなたも記憶にあるでしょう。

私は道具に凝ることはありません。ただ、凝っていくと、凝るのは理解できます。道具で全然違います。墨と筆、東洋のカリグラフィーの面白いところです。

ヨーロッパ人、例えばグライターのような人でさえ墨や書にエキゾチシズムをみるわけですから、日本人が英文のポスターの方が日本のポスターよりもモダンでかっこいいと思う幼稚さがヨーロッパ人にもあるのです。

こうしてデタラメを描いているようですが、自由ではありません。筆に束縛されたり、紙に束縛されたりします。色々なものに束縛されているのがよくわかります。」

「狩野永徳の筆の謎と同じですね。」

「あれは箒のようなもので描いていたところに秘密がありました。私も昨年の世田谷美術館に展示したドローイングでタワシのようなもので描いたものがあったのですが、絵の専門家が何で描いているのかとしきりに聞いてきました。当然それは秘密です。ああいう荒々しい絵は道具によって成立したものだと思います。

金子兜太の俳画も筆で描かれたもので、書としてはどうかと思いますが、無茶苦茶に味があるのです。金子兜太でないと描けない絵になっています。それを自覚しているのです。

極端にそれをやっているのが具体の連中です。白髪一雄は足で描いて、足の裏から毒が入ったそうです。ニワトリの足に墨を付けて歩かせたりもしています。」

「2500円のドローイング入りの本を安い芸術と言っていましたが、描いているものにアートという意識はありますか?」

「アートという意識はありません。記録という意識はあります。一刻一刻が貴重です。人間はほとんど寝ていますから。寝ていると何も残せません。それであれば、落書きのようなものであったとしても、いつもしていた方が良いと歳をとってから思うようになりました。」

「1000冊近く描いてきて、自身の中に好みや上下は生まれませんか?」

「値段を付けて買ってもらっているものですから、2500円の標準に達しているかチェックする意識はあります。正直言って失敗したものもありますが、それで色を工夫したり、つけ加えたりするのです。描きたいというよりは、描かねばならない意識はあります。ただし、一つ一つ違えていきたいという意識もあります。

筆の重みや即物的な意識でもってこういうものは終始しているのではないかというのがよくわかります。描いているものに意味みたいなことを考えていることは全くありませんね。一方でデタラメくらい苦しいものはありません。デタラメが苦しくないのは狂人だけで、少しでも意識のある人はデタラメは辛いのです。」

二〇〇九年十二月十一日

2009年12月3日、夕方、新大久保近江屋にて

「次はもう少し『絶版書房を買え!』というような販促活動に直結する話しにしたいですね(笑)。」

「ウィリアム・モリスや柳宗利といった人たちはどのようにして売っていたのでしょうか?」

「彼らは無茶苦茶金持ちですから、売れなくても関係なかったのですよ。その分甘さが出るものですがね。ミースとジョンソンの違いがそこにはあるわけです。モリスというのは夏目漱石と同じ時代を生きた人ですから、その時代のロンドンにはマルクスもいました。つまり、モリスはイギリスのゼネストで革命を起こせるポジションに居たということです。ただ、モリスは金持ちだったから、ひよっただけです。イギリスで革命が起きる可能性が千分の一くらいはあったかもしれません。モリスのようなイギリスのイデオロギーが金持ちであったというのは、運動家としての限界とも言えるのです。ロセッティーとモリスの女房とは三角関係であったし、きっと『時代は廻る』なんて唄っている中島美幸みたいな女だったでしょう(笑)。自邸のレッドハウスも労働者住宅でも何でもありません。あれは自分のハネムーンを過ごすための家だったのですから。

そのアーツ・アンド・クラフトがバウハウスへ至ったというのが、近代建築が間違ったところでしょうね。」

「このインタビューを近江屋ですることもその辺りの意図があるのですか?研究室や設計事務所の執務空間ではいけないと?」

「今の日本最大の問題は老人と介護です。このようなことは世界史的になかったことです。古代ローマ帝国を動かしていたのは30〜50歳のバリバリの人たちです。しかし、日本は60、70歳の老人が頑張っちゃうのですから。それを若い人が引き継いでいけない事が最大の問題です。三浦雅士が言う『青春の終焉』がまさに起きています。司馬遼太郎の『坂の上の雲』などは日本の青春を描いていると思いますが、明治維新は20代の人たちが日本を動かしていたのですから、考えものです。明治維新の良いところはロシア革命よりは陰惨ではなかったことでしょうね。もちろん廃仏毀釈などはありましたが。

先程、何故蕎麦屋かという質問がありましたが、私には三つの蕎麦屋があります。ここの近江屋はおいしい普通の味の蕎麦屋さん。それから時間の倉庫の現場近くにある蕎麦屋という名前の蕎麦屋で、ここの十割蕎麦。そして世田谷村近くの宗柳。この三つが私のトライアングルです。

これからは増々絶望的な時代になりますから、可能性がありますよ。こういう時代に本物は現れます。学生達も就職難でしょうが、教育的にいったら非常に良い時代になりますよ。来年、再来年は何かすごいことになるでしょう。」

二〇〇九年十二月九日

2009年12月3日、夕方、新大久保近江屋にて

「今日は批評家、特に建築批評家についてお話ししたいと思います。

私が25歳くらいのときに法政大学の小能林宏城に会いました。彼は明快だけれども物事を図式的に捉える能力の持ち主で、法政から東大の生産研に行った人です。大江宏さんの弟子筋に当たります。私が高山建築学校へ行ったのは、小能林の導きによるものでした。

このとき、早稲田の文学部出身には長谷川尭さんがいました。長谷川は早稲田出身の建築家・村野藤吾の擁護者であったけれども、長谷川さんの方が小能林よりもたくさん書けたのですね。『神殿か獄舎か』に代表されるように、1〜2年国会図書館にこもって文献をあさるような人で、小能林はそんな努力によって長谷川さんに凌駕されました。

そして、長谷川さんの不幸は次の世代に鈴木博之がいたことです。鈴木さんは東大のイデオロギーでしたし、書けば長谷川さんの数倍書けました。長谷川さんはそれで、ついにステージを降りました。仕方のない事でした。

批評家、歴史家というのは不思議な才質、アイデンティティを持っていますが、同時代には一人で良い宿命があります。鈴木と藤森も同時代には一人で良いのです。

日本の建築もそうで、丹下の後は磯崎、そして安藤と常に一人です。つまり2枠がないのです。二川幸夫さんも言っていました。外国は複数ということがあっても、極東の小さな国でしかない日本は1枠しかないのだと。私自身もこの枠とは違う方向に行かなければ、自分を全うできないということは若い時にすぐにわかりました。

この1枠というのが厳しいのです。日本近代建築史の総論を誰が書くのか、2人はいらないわけです。藤森さんが歴史家をすておいて創作家になりかかっているのは仕方のないことです。

鈴木さんと知り合った高山建築学校はそういう意味で修羅場でしたが、鈴木がライバルをみんなかみついていたという感じがします。それこそ連戦連勝でしたよ。直に議論のリングに上がって戦っての戦後というのはそれぞれ応えるからね。

こうしてみると日本の近代の薄さがとても端的にわかります。アメリカの現代と比較しても厚みが全然違います。いわば、まがいの近代です。その中で私はアヴァンギャルド、アウトサイダーになることを意識的にやるしかないと思ったわけです。

あなたの時代のスターは中国から出てきますよ。あるいはインドから出てきた奴にぶちのめされるでしょう。」

「今の若い人たちはそういう時代に日本に留まるべきでしょうか?それとも海外へ拠点を移すべきでしょうか?」

「日本でやるしかないでしょうね。もちろん海外でやられて、海外で評価されている人はたくさんいます。しかし、一流ではない。よって立つ場所の意味は大きいのです。

話しを小能林宏城に戻しましょう。小能林は非常にダンディな人で、当時の建築雑誌にほぼ毎月原稿を書いていました。おそらく純粋に原稿料だけで食べていたのではないでしょうか。でも、それで食べられるわけもなかった。

小能林の自宅に行ったときのことは非常に鮮烈な記憶があります。彼の自宅は杉並の長屋の六畳一間と四畳半位の一室で、よく夫婦で住んでいたなと思えるようなところでした。そのときに私は何となくの直観が働いて、寿司の折り詰めを持っていったのです。奥様はいませんでした。すると小能林は、これはありがたい、と言ってもう何日もメシを食っていないと言うのです。

小能林は外に出る時は吊るしではないスーツを昂然と着て歩いている人でしたから、私は批評家というのはこういう現実なのかと思いましたね。彼は私が今までに会った建築関係の人で一番貧しかったのだろうと思います。小能林はそれを全部私によくさらけ出したと思います。

そのとき小能林はシルクロードに行って、畳の上の座机で原稿を書いていました。そういう金は誰かが払ったのでしょうね。その座机の上にペルシアのタイルが2片置いてあって、彼は建築が日本に流入してきた径筋を滔々と語ったのです。そういう彼を見た時は貧しくても偉いと思いました。

一般に小能林はジャーナリズムの中でハッタリをかます人と言われがちでしたが、私は彼の貧しさの現実を知っています。1970年代の始めのころです。ついには彼は餓死したのだと思っています。

彼の葬式はどこかの斎場でしたが、参加者は15人程度でした。

小能林の葬式には原広司さんも来ていて、『無念で死にきれないだろう』と言っていたのを覚えています。小能林は、難波さんも知らないだろうけれど、知ってるかな、池辺研だったのではないでしょうか。白井晟一、大江宏にかわいがられていました。彼は、大江さんが必ず法政の教授にしてくれるはずだ、という希望を持っていましたが、私は決してそんな人事はしないだろうなと思っていました。

小能林が本当に良い仕事をしたとは、あとで振り返ってみても思えませんが、非常に強烈な印象を私に与えた人なのです。

特にボロ長屋の印象が強烈でした。寿司の折り詰めを三分の一だけ食べて、残りを冷蔵庫に入れていました。これであと一週間もたせなければ、と言っていたのを覚えています。彼の『建築について』という本は今も手許にあります。

当時の建築雑誌の企画で磯崎新に質問しましょうというのがありました。磯崎さんは小能林のことを知っていたはずでしたが、商業ジャーナリズムで生きているインチキものということを活字で堂々と書いていました。それも又、立派でした。

小能林は見え易いハッタリをかます人で、長屋に住んでいるのによいスーツを昂然と着たり、持ち手が銀のステッキをついていたりしました。そういう性質は白井晟一とよく似ています。

それと比べると長谷川尭はひ弱な人です。川添登も俗っぽい。私はそういう人たちと今の五十嵐太郎とかを見比べて見ていますから、まあ、歴史や人間模様は面白いなと思います。

最近小林秀雄を三期に分けて特集したムック版を読みました。すると古い版の執筆者の層の厚さ、一番最近の版の馬鹿さ加減がよくわかります。日本の知性は死んでいるなと思います。今は評論がないのです。鈴木博之の存在によって、批評が全部アカデミーの中に回収されたのです。民間の、批評だけでメシを食っている人がいなくなりました。これがいたら強いと思うのですが。

あなたの時代は建築の時代が終わった時代でしょう。それを自覚しなさい。日本の近代の層の薄さを自覚しなさい。建築とは日本では近代になって移入された借り物の概念です。ルネサンスの頃に建築という概念が本当にあったのでしょうか。教会はありましたが。いすれにしても建築とは非常にキリスト教的な概念です。一神教で、十字架のイコンがあって、ヨーロッパの言葉なんですね。それを知った上で、まずは日本の近代の層の薄さを自覚しなさい。」

附記、石山修武

小能林宏城を思い出して、その強烈な印象が私をして随分思い切ったハッタリを言わしめている。死んだ小能林が乗り移って言わしめているのだろうと、そのままサイトにONすることにした。

絶版書房5は建築批評の形式をとることになりそうである。その前口上の一部だと思っていただきたい。

アニミズム紀行5は、アニミズム紀行3、4を読んでいた方が少しは解りやすい筈だから、老婆心ながらまだ持っていない人は買うべきでしょう。

かつて、色々と教えてくれた建築家大江宏は私に「できるだけ遠回りをして対象に近づきなさい」と良く言った。同級生の丹下健三は目的に向って単純な最短距離を選んだとも言った。

大江は1950年代の池田内閣の所得倍増計画後の高度経済成長政策にも懐疑的であった。今の日本の地方、都市の風景の荒廃に対面していると、ウームとうならざるを得ない。

大江宏もさぞかし残念なまま亡くなったのだろう。

歴史は重要な哀しみからも又、織りなされているのである。

二〇〇九年十二月八日

2009年12月3日、夕方、新大久保近江屋にて

「私の古い友人に早稲田の野球部でピッチャーをやっていた六車さんという人がいます。毎日新聞の記者をしていました。彼は高松一高のエースで、早稲田の野球部に入ったのですが、彼がブルペンで投げた時に三輪田という投手の隣りで並んで投げたのが不幸だったと聞きました。三輪田さんはイチローをスカウトしたことで有名な人です。六車さんはその三輪田さんの隣りのブルペンで投げたそうですが、まるで球の速さが違うのですね。それで、六車さんは、これはダメだ、と瞬時に思ったのです。それで、彼は大学を出てからも選手でいようとは思わなかったのです。そういう六車さんは非常に賢いと思うし、好感が持てますね。ブルペンで投げていたら、隣りに三輪田がいた。それで瞬時に悟ってしまうんですね。その三輪田さんもまた、プロに行ったら一流ではありませんでした。やはり江川クラスとは違う。スポーツはそれがすぐにわかってしまうのです。もしかしたら、デザインの世界もそういうところがあるかもしれません。

一方で、私の友人に慶応ラグビー部の中興の祖ともいわれる藤さんという人がいます。藤さんはフルバックの選手でスター選手でした。日本代表にも選出された人です。スポーツ選手は例えば体育会系の人などと、一括りの人種としてみることはできません。固有名詞で考えていかないと、能力によって人それぞれで全然哲学が違うのです。デザイナーもそうです。こうしてみると、類型的な考え方はいかに空疎かがわかります。六車さんと藤さんとでは全然違う世界なのです。

早稲田の理工学部にもたくさんのスポーツの会があります。しかし、それらと体育会系とは全然違います。理工のそれはいわゆるサークル、つまり体育同好会です。これらは全然違う世界です。

毎日新聞の記者だった佐藤健も熊谷高校で走り幅跳びをやっていて、全日本に出ていました。登山はとてもハードなスポーツで、個人で全然違う事はすでにこのインタビューで述べた通りです。登山家とは一律には言えません。」

「プロと呼ぶのも一律な言い方になってしまいますね」

「プロというのは、お金をもらっていれば誰でもプロな訳ですから。非プロとプロの差はそれでしかありません。ただ、一握りの尋常な才質ではない人たち、異常な能力を持っている人がスポーツの世界では顕在化しやすいということです。

藤さんとは福岡オリンピックの招致計画のときに一緒に仕事をしたのですが、オリンピックのメインスタジアムの設計の際に彼が地下通路の重要性を話していたのを強く記憶しています。選手が地下通路を出てスタジアムへ出ていく、そのプロセスがいかに大切かということを彼は話していました。通路からスタジアムへ出るときに、自分で気合いを入れて集中力を高める。レモンをかじって身震いするのだ、そのスペースが必要なのだ、という彼の話しからラグビーの世界で彼は超一流だったのだなと思いました。つまりスタジアムの地下通路というのは気持を切り替えられる空間なのですね。」

「最初に運動と一括りで問いましたが、それにもまた違いがあるのはわかりました。個々人のスポーツ選手の流す汗や吐息、それを折口は言霊と呼んだわけですが、その背景へと進む奥行きにもアニミズムは宿るのでしょうか?」

「スポーツの世界で顕在化されやすい能力の高い人とは、つまりエネルギーの総体です。持って生まれたものとトレーニングして鍛え抜いたエネルギー。普通の人のままでいるとあまり幸せになれない分野があります。デザインもそうです。普通のままで良いならばその世界に行かなければ良いのですから。持って生まれたものは両親のしつけであったり、DNAであったりします。それを鍛えていく、つまり諦めないというエネルギー。それが顕在化されやすいのがスポーツ選手で、私たちに即して言えばそれが天職であるかもしれないという誤解を信じてしまうことです。スポーツやデザインの世界では、結果としてそのエネルギーの総体を個人の名前で呼んでいるに過ぎません。」

二〇〇九年十二月五日

2009年12月2日、夕方、東京駅居酒屋小樽にて

「今日お話ししているこの場所は、絶版書房2号の主役でもあったナーリさんゆかりの飲み屋さんです。小笠原さん(ナーリさん)は60年代ヒッピーの先駆けのような人です。

深夜特急に代表される沢木耕太郎は健全な漂流者としての自分を自覚していて、それが時代に受け入れられました。いわば無害な人です。

ナーリさんはフーテンというよりも非常に独自な人で、フレームの外にいる人です。彼は今でも枠外者のままです。小笠原さんの価値というのは、本当はそこにあると思います。

この2009年の暮れに、この飲み屋さん『小樽』も不況でお客さんが来ないそうです。みんなと言っても7割くらいの人は仕事が終わればすぐに家に帰って晩酌してしまうのでしょう。ここのオーナーの清水さんはナーリさんの弟子のような人ですが、この人たちこそがアウトサーダーそのものなのです。ジャック・ロンドンみたいな人たちですね。

彼らはヒマラヤで雪男を演じた人たちなのですから(笑)。ナーリさんと清水さんはヒマラヤのエレベスト街道をいくアメリカ人観光客を狙って、雪男の着ぐるみを着て出没し、騒がれたいと思うような人たちなのです。ところが、清水さんのオヤジさんは何か大きな会社の創始者で、北海道の小樽の倉庫街には今も清水のブランドが残っています。ナーリさんも唐津の殿様の家老の息子の血筋です。要するに有産階級の成れの果てが60年代的世界なのです。彼らがどうしてこんなことができたかといえば、働かなくても済んだからです。

ナーリさん達はグローバリゼーションの波にも、何にもリアルには遭遇していない。典型的なバーチャルな人なのです。よく極楽とんぼと言いますが、極楽というバーチャルを飛んでるとんぼなのです。それが清水さんであり、その先輩のナーリさんです。

今絶版書房の2号を読み返せば、ナーリさんはシヴァ神が創造と破壊の神であるとか、そういう知識はキチンと持っていて、持っている知識を自分の生き方の一部に組み込んでいけるセンスがあるのがわかります。ただ、本人がそういう教養を生活の中に自覚できていないところが面白いと思うのです。

ナーリさん達自身は無産階級で、1960年代の年金生活者で、高等遊民です。働かなくても済んだ人たちが旅の果てに見つけたものは極めて高度なアニミズム的感性であったと私は睨んでいます。

4号にも書いたアニミズムの前のマナリズムのマナですね。岡本太郎の先生であったマルセル・モース、モースの周囲にいたレヴィ=ストロース。彼等は知識があったナーリさんではなかったかと思います。すると、小樽のオーナーの清水さんは知識のないマルセル・モースですね(笑)。こうやってマルセル・モースの思想を日本に持ち込んだ人間として、岡本太郎はモースの贈与論から太陽の塔を建てました。太陽の塔は1970年代のエポックメイキングな、日本が唯一オリジナリティを発揮したものです。その太陽の塔の可能性を考えることへとアニミズム紀行の方向を向けていきたいと思っています。これは余りにも乱暴なオペレーションですけど、間違ってはいない。

アニミズム紀行の5、6、7、8、9号と、芭蕉の奥の細道のように、そういうことになっていくでしょう。

特に5号では福島に作った『時間の倉庫』、これは『死者の書』(※2) をキチンと意識していますが、それ以降何を作るのかを5号、6号で話していけたらいいなと思っている次第です。」

※2  死者の書

折口信夫の『死者の書』のこと。平安期の藤原郎女(ふじわらのいらつめ)を主人公とした中将姫伝説をモチーフに、新古今調の世界を描いた折口の最高傑作。

折口は『言霊研究』などに代表されるアニミズム的世界を藤原定家の手法に習って中将姫伝説をモデルに『死者の書』として描き上げた。

舞台として登場する当麻寺や二上山を巡っては磯崎新と福田和也の言及が有名。(『空間の行間』)

天子南面の南北軸から浄土信仰の東西軸への当麻寺における軸方向の変換は、建築における方位がすでに一つの機能であることを示した。そこには方位を捉える主体としての人間がいることへの意識が不可欠である。

時間の倉庫ではこの方位に対する意識を立体化することも試みられている。

二〇〇九年十二月四日

2009年12月1日、夜、新大久保近江屋にて

「今日、久しぶりに絶版書房の10冊にドローイングを入れたのですが、自分でも驚いた事に、手が動かなかった。かたちが描けないのです。私は今まで言葉を考える能力とドローイングを描く能力は全く別の物だと言い続けてきたのですが、今日は意外と似ているところがあると初めて思いました。

絶版書房のドローイングは、これまでに1000冊分くらい描いています。1号が200冊、2号が220冊、3号で400冊、4号が240冊。3号と4号はまだ全部にドローイングを入れていませんが、やはり1000冊弱は描いてきた計算になります。2号は一冊に2つドローイングを入れましたしね。

これだけ描いていると、手と頭と体で以前描いたものを憶えてしまっています。今年の夏は一日で30冊ほど描いていましたが、そのときは全く疲れませんでした。しかし、同じようなタイプのドローイングを15から20描いていると、飽きたりもしますし、慣れ過ぎるきらいがあります。そういうときは良い図形にはなりません。

私が試みているのは、カリグラフィ、つまり書とペインティング(絵)との間の子のようなものです。私は書道はやりませんが、そういう図形を描こうとしています。筆と墨を使っていますが、手が筆の流れについていかない時や、逆に慣れ過ぎてしまってサッと筆を流してしまうときがあります。それから、私が絶版書房に入れているドローイングには全て色が入っています。限定された色の種類を使っていますが、色の決め方は難しいのです。今後、5号、6号と経て、最後はモノクロのドローイングに辿り着きたいと思っています。

山口勝弘さんが今日からギャラリーAYAで個展を開かれています。山口先生は左手が動きませんから、紙を抑えることなく、右手だけで描いておられます。ということは、タッチが限定されているということです。山口先生の近年の作品を見ていて、今のご自分の体に合った方法をとっておられるのがよくわかります。今回の個展に出しているイカルスシリーズは点描法のようでもありますが、山口先生は当然それを知っておられるので、いかに点描法から自由になれるかを考えておられます。山口先生は10ミリから20ミリくらいの点と、その角度と方向だけでフォルムを決定していきます。それから色があります。ターナー社のアクリルペイントを使っているようです。これらを鑑みれば、画廊と意識的にやっていることが良くわかるのです」

「いずれはモノクロに辿り着きたいということでしたが、色を使う方が簡単だということですか?」

「モノクロだと不安になりますね。何かたりないのではないか?と自問自答したりして、そして色を付けていくのです。色を付けているのは、まあ自慢になりますが、ずっと以前に色のセンスが良いと言われたことがあって、そういうことは良く憶えているのです(笑)。本当は色を使わないでやった方がおもしろいと思いますね。」

「絶版書房に描くドローイングは、その号の内容等に左右されたりはするのですか?」

「意図的に無関係なドローングを描くようにしています。1号のときだけがキルティプールの風景を描いたのですが、あれは時間がかかり過ぎました。それから、200のドローイングが類型化され過ぎました。あれだけ手間がかかると、値段の割には損をしているなと思ってしまいます(笑)。

それから、1号を出した頃に読者の方から、本とは別にドローイングを付けてくれれば額に入れて飾れるのに、といったメールをいただいたことがあります。しかし、私が本に描き込むのには理屈がキチンとありますから、この形式は変えません。

私だけが描いた1000冊くらいのバリエーションを知っているのです。これは読者の方々は知る事のできないもので、意図的に採用した形式でもあります。もし読者同士が展示会でもやって持ち寄って下されば分かりますが、1冊ずつ全て違うのは私だけが知っているのです。そこにウィリアム・モリスのケルム・スコット版 と違うところがあります。版画の方が面白いとは思いますが、2500円の値段ではそれはできません。

現在、出版業界は不況の直中ですが、本は最終的には手書きと少量多品種の複製になっていくのではないでしょうか。インターネットの流通コスト0(ゼロ)の情報には誰も太刀打ちできません。

山口先生はそういうバーチャル時代に対して抵抗していると書いていますが、私は本が生き残っていく道筋を考えてみたいと誇大妄想的に考えています」

「モリスとの違いについてもう少し聞かせて下さい」

「モリスのケルム・スコット版(※1)は手刷りの版画の豪華本です。明らかに近代の始まりみたいなところがあります。それはたくさん作るということへの初動でした。モリスはそれを装飾と造本でやりました。当時はすでに印刷技術もありましたが、モリスはグーテンベルグの印刷技術とは違うやり方でやったのです。工房活動で一枚一枚が刷り込まれていきました。

私がいる現代は、すでに大量生産が前提となっている時代です。そういうときに私は200部から400部の限定でやろうとしているのですから、まるで考え方が全然違います。

モリスの版木は見たことがありますか?」

「展覧会で見ました」

「あの版木とは、電子を通さないで手渡す技術ということなのです。本と美術が合体して読者の手元に届けられる。1000部や2000部といった数量の本は安い美術品になっていかざるを得ないのではないでしょうか」

※1  ケルム・スコット版

ウィリアム・モリスのケルム・スコット・プレスという私設の印刷工房から世に送られた本のこと。総数で53書目66巻あるとされ、『理想の書物』に詳しい。

モリスは活字の密度や、配置、フォントのデザイン、ページの余白のとり方まで細かくデザインし、それを最終的に落とし込む技術として、木版を選択した。

現在絶版書房は研究室で作成したデジタルデータを印刷のみ印刷業者に委託しているが、モリスは当時の印刷技術を用いることはしなかった。

来るべき大量生産の時代に向けて、手仕事の技術を残さねば実現できない「理想の書」に対して、大量生産が前提の時代にそれを受け入れた印刷物に手仕事を挿入していくことの価値は、挿入した手仕事が全て差異を持つことに凝縮されている。

アニミズム紀行4

時間の流れの速さはコンピューターの速さと同じように強大かつ無為なものになりました。私が小学生の頃に、今からたかだか半世紀昔の事ですが、地球の人類の総人口は十五億人であると学んだ記憶があります。それが今や、何と地球上には六十八億人以上の人間が生きていると言われます。

旅をしていると色々な場所で、その重圧を実感します。

ただ、一つだけ救いがある。それは地球上での人間の繁殖力の、そして生命保持力の爆発が、有史以来のゆったりとした時間から切り離された、たったここ五〇年位の短期間になされたという事実です。

そして、それは日本の近代化が驚く程の短期間に成された歴史と重ねる事ができる。つまり日本の近代の歴史が地球の危機的状態のモデルになり得ると、考える事なのです。

日本の近代化もアッという間に形成されました。それ故に実現された近代は虚像の如くにも見えます。しかし、実体の極薄な虚像であるが故に、だから我々は奇跡的に人間の古層とのつながり迄も破壊するに至っておりません。

その人間の古層をアニミズムと、呼びたい。

それ故の「アニミズム紀行」です。旅の行方はまだはっきりとは視えていません、それだけに緊張しているのです。

アニミズム紀行4は、今、ここで申し述べた様な事とは別に、アニミズムという、ヨーロッパによって命名された、ある人間の根源らしきの、そのヨーロッパ的な語源への旅もいささか試みています。

目次、章立ては以下の通りです。

I アニミズム「ゲートI」

II 宮本常一と川合健二

III 大湯屋

IV 光・宇宙船・都市・時間の倉庫

V ある種族へのアニミズム「モデルI」

一号二号三号と続けて読んで下さっている読者の方々には、旅が少しづつ深まってきているのを感じていただけるのではないかと、いささか自負しています。

もうすぐ、アニミズム紀行3も絶版で居なくなります。それでアニミズム紀行4は一、二、三を読まずにいる読者、本当は二食抜いて、本喰べてよと言いたいのですが・・・・いくら何でもそう迄は言わない。

そんな読者の為に、ゲートを設けて、仕切り直しにもなるように構成してみました。

アニミズム紀行4は 240 部の発行です。この発行で総数がようやく 1000 部を超えます。当然、もう大変なのですが、一冊一冊に手描きのドローイングを入れています。

度々、申しますが一冊一冊に皆、最低限の個別性を持たせています。一人一人の人間にかけがえの無い生命の尊厳があるように、一冊一冊の書物は皆、私の作品でもありたいからです。

今日、これから、アニミズム紀行3の何冊かにドローイングを描き、アニミズム紀行4の最初の数冊に、新しいドローイングを描くつもりです、

で、何をどのように新しくして、どのように連続させるかと、いささか無い頭を絞っているとこです。

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石山修武

二〇〇九年十月二十二日

石山さん

当方もほとんどで独人でいることが好ましくなっております。

老人性うつ的症状であります。これは。

このままいきます。

10/20 ベイシー 菅原正二


二〇〇九年十月二十日

菅原正二様

今日は日曜日で、久し振りに八時前まで眠りました。すぐに近くの区民農園にでかけて、他人がやっている畑作りを観察し、70 がらみのおばさんとおしゃべりし、80 くらいのおじいさんの畑をスケッチして帰ってきたところです。

どうやら、私は自分でやってる猫の額畑より、余程他人の畑を眺める方が好きなようで、これは何なんだろうかといぶかしんでおります。

区民農園の一区画は 3m X 5m 、4坪半強だけのものです。それが 125 区画あって、それぞれが、みんな好きに野菜や花を育てています。

大半がいわゆる老人ですな。

でも、仲々、良い光景なんです。

なんか、フッと心がなごみます。

ところで猪苗代湖に作っておりましたチョッとしたモノが、どうやら今年末か来年はじめには、他人に見せられる状態になってきました。

おそらく、私の作ったモノの中では、今のところベストだろうと思います。

二川幸夫さんにも見てもらおうと思ってます。

菅原さんも、是非ごらん下さい。

又、写真とってくれたら、これ以上の喜こびはありません。

十月十八日 朝

石山修武


二〇〇九年十月十三日

秋になった。世田谷村の二階には八時くらいから陽が差し込み、九時にはそれが背中に当って眠気をもよおす位になる。

その中でボーッと我を忘れる刻がある。と言っても二、三秒、あるいは四、五秒だろうか。あわてて我を取り直し、スケッチしたり役に立つかどうかも解らぬことを考えたり、今しているようにメモを記したりに戻ってしまう。

休日というのが俗にあって、私も最近は休日は休もうかと思ったりするが、休息というのが仲々身につかぬのが事実でもある。

恐らくはこの一瞬の何もかも忘れて、あるいは考えずにボーッとしてしまう一瞬こそが休息なのだろうなと思う迄にはなった。つまり睡眠と同様な状態である。

白昼夢という言葉があり、この状態は休息ではない。昼に夢を見るエネルギーを働かせているのであり、恐らくはいささかの演技状態でもあるのだろう。

ベイシーの菅原正二からFAXが届いた。二〇〇九年十一月二十八日から十二月二十七日迄、ニューオータニ美術館で開催される、「グラフィックデザイナー野口久光の世界展」と十一月二十八日のパーティのお知らせである。

残念ながら私は生前の野口久光にはお目にかかる機会が無かった。ただ一ノ関ベイシーには、声高には叫んでいないのだけれど、気持が本当に休まるような古いポスターが展示してあって、そのポスターの原画作者が野口久光なのだ。

菅原も殊更に野口久光の事など声をあげてしゃべる事も無く、ただただこの男、本当に敬愛しているのだなと、それだけが伝わってくるのである。それは仲々ありそうな事であり、同時に仲々あり得ない事でもある。

世田谷村の朝の光の中で二、三秒ボーッとして、フッと我に帰り、野口久光の描いたポスターの姿が思い出された。

二、三秒でも、良い休息は良い記憶を呼びさますものであるらしい。

野口久光の世界展、及びパーティの件の問い合わせは次に。

メール museum@newotani.co.jp

電話 03-3983-6052

FAX 03-3983-7678

共に担当 開発社

石山修武


二〇〇九年九月十六日

「9という数字」

ベイシーの菅原正二は9という数字、すなわち 2009 年の9は座りの悪い数字だと言う。僕もそう思っていた。だから、僕の次の展覧会は9を避けて、二〇一〇年の暮にやろうと考えたのだった。

変なことにこだわるモノだ人間は。でも二〇〇九年はどれ程生きても一回きりしか体験できない。もう誰も二〇〇八年を体験できぬように、それは時間の宿命であり、人間の宿命でもある。

ところで9という数字に何か意味を持たせようとするのは、突きつめて言えば、これは縁起かつぎ、あるいは迷信のようなものだろう。

ところで、大リーグ、シアトル、マリナーズのイチロー選手が9年連続二〇〇本安打を成し遂げたので感心仕切りである。僕も凄いなあっと感心している。

感心し切りとは別にヘェーッと思った事がある。イチロー選手が9という数字を割と好んでいるらしいというのを知ったからだ。彼が二〇〇本安打を達成した時に、首にかけていたペンダントも9という数字が形どられていた。

イチロー選手程の達人も、縁起をかつぐのかなあ、と一瞬面白く思った。達人だからこそ偶然を認めたくないし、又同時に認めざるを得ない現実も知る如だろう。イチローという名前にちなんで、ナンバー1、一番の1という数字を好むのかとも考えたからだ。

しかしながら考えるに1という数字を好むのを表明するのは、いささか不遜な様な気もしないわけではない。ナンバー1、キングである事を意識し続ける事だからだ。イチローだったら、もうそれで良いのにと思うのだけれど、彼は、それをしない。それで1という数字の補完数字とも言うべき9を好むのかも知れない。野球は9人でやるから、9という数を好むのかも知れないと本人は言っていた。

9と1は切っても切れない仲なのだ。

イスラム原理主義者達がワールドトレードセンターへのテロ自爆攻撃の日を決めたのにも、恐らく縁起のようなモノのきわみ、運命を託したに違いない。2011 年 9 月 11 日全て、一と九の組み合わせの数字である。

だから、という理由ばかりではないけれど、僕はベイシーでの展覧会は、それとは正反対の平穏な数字を選ぼうと考えた。2010 年の 12 月 12 日にオープンして、6日間だけの開催にしようかとボンヤリ考えている。

まだベイシー店主と相談しなくてはならないけれど、1とか9とかの、鋭い数字は避けたいなと思うのだ。未来のスケジュールだって、デザインしたい。

石山修武


二〇〇九年九月十五日

菅原正二様

絶版書房展、あるいは絶版書房絶版展、を是非とも貴ベイシー2階、あるいは倉庫の2階、できればベイシーでの音がかすかに聴こえていた方が良いのですが、来年二〇一〇年末に開催したいのですが、お許しいただきたい。

やはり季節は冬、しかも年の暮がベイシーは良い。人もあんまり来なくて良い。今年も良く生きたもんだと、フーッとため息をつくような感じの、ですが私としては珠玉の、と言えるようなモノを視ていただく。銅版画の新シリーズ、極めて大きい版のモノ、五点ほど、小さいモノ 20 点くらい。私がひっそり描いているドローイング数点、そして模型一つ。位の構成にしたい。

ベイシー落城迄、毎年暮に、ポツリ、ポツンと続けたい。

考え尽して生み出したプランです。

何とか前向きに考えて下さらぬか。

世界で唯一の、絶滅種と思われるジャズ喫茶の正統絶滅種の場所ベイシーで、絶滅を予感する種族の一人が、実に小さな、でも本物の何かを見ていただくのを望んでいる。

そういうモノにしたい。

九月十二日 石山修武

石山さん

この二階をキレイサッパリ片付けるのは相当の勇気が要りますが、石山さんが本気なら前向きで考えざるを得ないでしょう。

何んにしろ落城する前にですからして。落城に際しましては証拠隠滅の為、爆破しちゃおうかと企んでいます。全て自作自演の八百長に自ら終止符を打つのはせめての良心かと。

ま、すぐにとは言いません。「音」がいよいよキープ出来なくなった時がその時です。

いましばらくはこうして、ジタバタさせて頂きます。

9/13 ベイシー 菅原正二


二〇〇九年九月十四日

読者からは、ドローイングについての感想も届くようになった。これは私には嬉しい。つまるところ私は視覚の人間である。その視覚に知覚が少しでも浸透してくれたら良いと考えながら生きているようなものだ。

アニミズム紀行の冊子に描き込んでいるドローイングも総数で千点近くになってきた。読者の手許にみんなバラバラに散在する事になるので、その総数、集積のイメージは私の頭の中にしかない。

しかし、散在してしまうので、何らかの形で何がしかを記録しておこうとは考えている。アニミズム紀行1のドローイングの大半はネパールの首都カトマンズの西南にある、丘の上の都市キルティプールの計画とも、夢の中の風景ともつかぬのを描き込んだ。これは仲々に一点、一点に時間がかかった。

キルティプールの実景を知りたい方は、私と中里和人の「セルフビルド」交通新聞社 中に中里の写真で紹介されている。

私の夢の中の夢は、このキルティプールの北の外れ、ヒンディのシヴァ神殿の五重の塔のある下の南に向いたがけにある小修道院の廃墟を修復する事だ。

大きな修復の仕事は私には似合わない。小さな修道院くらいのモノが向いている。大体の見積り額は頭の中ではじいてある。

実にささいな日本円でネパールではささいでない事が可能なのだ。

その実現のために、アニミズム紀行2で登場してもらったプノンペンのナーリさんや、ナーリさんの友人のジュニー・シェルチャンや様々な人脈だって築いてきた。

七〇代のしかるべき年まで生きる事ができたなら、私は年の1/3くらいはキルティプールの遺跡の中で、だから暮らしたいと計画している。もう三〇年来の夢なのだ。なんとか実現する。

だから、アニミズム紀行1をお持ちの方はそこに描き込んでいるキルティプール計画はあと 10 年程経ったら、とても価値のあるモノになるだろう。つまり、私がそのドローイングの中で暮らすことになるからである。

たった二百名の方だけが私の夢の中の夢を描いたドローイングを所有している。

でもその二百名の方々への、ある種の約束として私はあのドローイングを描いたのだ。

アニミズム紀行1は文章の密度もいささかあやういモノであったのは自覚しているのだけれど、あのドローイングがあるから、私はいささかの自負を持って、送り出した。

お持ちの方は、そう知っていただいて、もう一度のぞいてみて下さい。ちょっとちがって見えるかもしれない。

アニミズム紀行に描き込んでいるドローイングには、何らかのお知らせが仕込んでありますので、おいおい少しずつ述べてゆきたいと思います。冊子に描き込んでいるのですから、当然物語りとしての仕掛はありますよ。


二〇〇九年九月十日

菅原正二様

エアーストリームのギラリとしたボディデザインは、アメリカが病む前の、つまりベトナム戦争以前の輝いていた、実際家、実行家集団としての合衆国の気品があります。

私が初めてアメリカを訪ねたのは一九六八年だったか、サンフランシスコの街の地下から地域暖房の湯気がボワーッと吹き出していて、これじゃあ戦争に負ける筈だなと、実感したのを覚えています。まだ家では石油ストーブ、火鉢の時代でしたから。

恐らくはエアーストリームのデザインは一九五〇年代のモノであろうと思います。その時代はアメリカン・モダーンの創成期です。JBLのデザインもそうでしたね。

チャールズ・イームズのケーススタディハウスや、ハーマンミラー社のイームズチェア等が代表ですかね。

ライカはヨーロッパですが、ドイツの技術文化の戦前の力の結晶だったんじゃないでしょうか。車だったら、フェルディナント・ポルシェ博士デザインのポルシェ。

エアーストリームは恥ずかしながら、私奴のあこがれの的でもありました。

本当は家なんていらない。アレに棲めたら文句は無かったのでありました。

ところで、どうやら高速道路がいずれ無料化されるようです。

5 - 6人位の数がまとまれば、毎週ベイシーに出掛けて、つでにベイシーの近くの農場で野菜を作り、喰べ、エアーストリームに寝とまりする、なんてのも俄然、リアリティが出てきましたな。

モスクワの市民達は 500km - 800km はなれたところにダーチャっていう個人農園を持ち、それを生きがいにしているようです。ソビエト時代のモスクワの商店の行列が一時期話題になりましたが、彼等のほとんどは喰べモノは自分で作っていました。エアーストリームと同じに格好良かった。

九月七日 石山修武

石山さん

やっぱり石山さんも「エアーストリーム」のギラリとした姿に反応示しましたね。同じ穴のムジナです。今のクルマのデザインには品というものがありません。下品と言い切ってもはばかりません。 デザインは時代を映す鏡ですから、これは今のものがみなゴミに見えるのは当然てば当然なのであって間違ってはいないと思います。「プリウス」が似合うような男とは友だちになりたくありませんな。 このまま「落城」したほうがマシです。

9/7 ベイシー 菅原正二


二〇〇九年九月九日

朝日新聞2009年9月5日土曜日

「 Swifty の物には限度、風呂には温度」

第38話サマータイム

多勢に無勢であった。城は完全に敵に包囲され、生き残った数名の家臣を天守閣に集めて、「記念写真を撮るからその辺に並べ」と命じた。ローライフレックスのファインダーを上からのぞくと、背景は花巻の「ホテル志戸平」フロントロビーのようでもあり、グスタフ・クリムトの金ピカ模様に似た屏風のようでもあった。家臣の1人が背を向け、ファインダーからはみ出したので、「おい、お前。もう少し中央へ!」と声をかけた。家臣は振り向き、炎の中でこう言った。「殿、落城でございます」。そこで目が覚めた。

寝苦しい今年の夏の夜の出来事であった。そのまま寝てもどうせロクな続きは見まいと思った僕は起き上がり、白っぽい上下のパジャマ姿のまま、サンダルひっかけて玄関から外に散歩に出た。歩きながら思った。さっきの夢は古典的ジャズ喫茶の現在置かれた状況を実によく表しており、妙にリアリティーのあるものであった、と。

例によって新幹線一ノ関駅東口の下を流れる小川に沿って歩いていくと、多数のカモの親子の先にいつもの青サギが1羽、油断のない姿でステッキのように立っていた。近づくとバサバサと音を立てて飛び立ったので、「ピーッ」と口笛を吹くと「ギャーッ!!」と空中で鳴き返した。どうせあいつはUターンして別の場所にまたするのだ。

東口のタクシー乗り場のロータリーにベンチがひとつ置かれてある。このベンチはただ者ではない。「よりかかれるのは椅子の背もたれだけ」というのが、この安物のベンチ、まるで僕の腰と背中のカーブに合わせてくれたかのような、つまり「おあつらえむき」の絶品なのである。

真夜中のこととてタクシーは一台もいない。そこへクルマのヘッドライトが回り込んでくるのが見えた。パトカーであった。パトカーは案の定、僕の前でピタリと止まり、中から3人の若い警察官が降りてきて「そこで何をしているのですか?」と職務質問を始めた。「散歩の途中です」と正直に答えた。「どちらの方から?」と言うから「あっちの方から」と家の方角を指さした。「その様子だと所持品は何もないようですね」。「この通り」と両手を広げて見せた。そのほかいろいろと訊かれたが、連行は免れた。

翌日、この話を友人にすると「あ、いま徘徊老人が多いので見回ってるんよ」と即答され、「え!?」と、ここで再び目が醒めた。

菅原正二様

九月五日付け、朝日新聞「 Swifty の物には限度、風呂には温度」第38話サマータイム読みました。

これは今迄のこの連載の最高ケッ作ですな。広い世界で唯一とも呼ぶべき、本格的な古典的ジャズ喫茶ベーシー店主の真夏の夜の夢が、短文の中に過不足なく描かれていて、感服したしました。

これ迄読んだ事のない文章、文体です。驚いた。菅原さん、大兄、また一皮むけて、ついに、初老の幻の如きチョウが、空に舞っているような風格があります。本格的な音で本格的なジャズを、演奏し続け、聴き続けたはてに、こんなのを作れるようになったとはまことに嬉しい限りです。凄いよ。コレワ。

私も少なからず精進してこの境地に辿り着きたいと、思いました。

最近は大兄に習い、大兄がレコードをかけるように、淡々とドローイングをこなし、文章も書き、建築もこなしております。

ですから、いずれ私奴も、サマータイムに到達できるやも知れない。

それを、ホッーと夢見たいモノです。

何しろ、これは、素晴らしいです。

驚きました。仰天の介であります。

九月五日石山修武

石山さん

つい数日前、盛岡の「GMシボレー」というクルマ屋で久しぶりにギョッとする物体と出喰わしました。

ギラリと光るジェラルミンとデザインが昔のアメリカそのまんまで・・・ちょいといい眺めでした。過去形かと思いしや今でも新車で売られているそうで嬉しく思いましたネ。

これがそれです。

9/6 ベイシー 菅原正二

OP

絶版書房交信 71 ある種族へ
二〇〇九年九月七日

アニミズム紀行4の読者から便りをいただいた。冒頭のアニミズムとは何かの文は、やはりいささか難解であるとの指摘である。これは予測通りで、私だって故佐藤健の形見の「宗教学辞典」、部厚い一冊の大半を読み込んで、無い頭なりに考えつめて書いたものだ。毎日新聞の記者であった佐藤健は辞典と地図には目がなく、やたら買い込んだ。私がゆずり受けた「宗教学辞典」は真白で、彼が読み込んだ気配は感じられなかった。彼は読んだ形跡を必ず残すタイプの読み方をした。アンダーラインや、書き込みの無い辞典は読むにかなり困難であった。彼の手引き、つまりガイドが無いからだ。

生前の彼は、多方面に活躍した。「イチロー物語」はベストセラーになったし、若者考現学のシリーズ、演歌等にいたる迄社会現象の何にでも興味を示した。

しかし、中心は現代の宗教であった。と言うよりも、個人の中にも出現する世界観のようなモノに彼は関心を寄せ続けた。最も関心を持って、興味津々であったのは「密教」であった。そしてそれを体現していたであろう空海その人であった。

彼は空海の眼になって、世界を観じたいと願い、空海のたどった道をたどり、中国へ行き、空海の歩いたであろう道を、自分で歩いた。自分も同じ事をやってみる、というのが、宗教学者とは少しちがった探求の方法であった。西安でも空海が恵果に学んだ青岸渡寺から、空海が宿としていた場所迄、何度も歩いたりしていた。空海が何を、どんなモノを視ていたのかを知りたかったからだ。

つまり、彼はそのようにして密教に関心を寄せていた。ジャーナリストの方法である。私は建築の世界にいるので、きちんとサービスしてくれた。

密教くらい構築的な思考は無い。曼荼羅は世界構築の意志そのモノだ、と私をそそのかした。私は宗教そのものに関心は薄かったが、世界観が現前化され、視覚化されているというのは、究極の建築ではないかと考える、キチンとした青くささは所有しているので、本当はあんまり好きでは無い密教世界、曼荼羅に近づいてみたりもした。

恐らくそんな私の身振り、思考の動体とでもいうべきモノを観察していたのであろう。

彼は私に、こう教えた。

「密教も実に面白いんだけれど、実ワ、神道というのはもっと面白いんだ。中心が空虚だからな。」

一度だけであったが。その言は忘れられぬモノとして耳にこびりついている。

今、私が最も関心を持つ事になった、空虚。あらゆるモノの内外の深奥にある空虚としか呼べぬモノ。その中心にアニミズムが生きているのではないかと言うのが、アニミズム紀行の今のところの辿り着くべき、第一の目的地である。

その先はまだわからぬ。


絶版書房交信 70 ある種族へ
二〇〇九年八月三十一日

石山さん

今秋「ニューオータニ美術館」で行われる「野口久光展」(11/28 - 12/27)のパンフの原稿を考えてるところです。400 字一枚以内なんですが、立川談志さんの二行が凄い。

野口久光を愛するか否かでそ奴の映画通が判る。あの絵、あのデザイン・・・想い出と共に唯涙々々。

立川談志

というものです。

今年「生誕100年」の人は妙に多く、太宰治、土門拳・・・。太宰と野口先生は同いドシだったのですが、死んだ日まで同じと気付いてる人は居るかな?

8/30 ベイシー 菅原正二

GA日記

『GA日記』ADA 2400円+税


絶版書房交信 69より

もう過去の事は忘れて未来に全てを賭けなくては、と時に青年の如くに考えたくも思うが今はそれはしたくても出来ない。でも昔作った建築の大半は忘れたい、可能であれば作った建築はみんな二川幸夫に写真を撮ってもらいたいと今でも考えてはいるが、二川幸夫の眼は厳しいから、それも恐らくは適うまい。

これ迄だって、「俺はコレは撮らないよ」とダメを出されたのが幾つもある。別に二川幸夫にケンカを売る気持なんて、さらさら無いけれど、最近は二川さんの価値観と俺のそれは少しばかり違うな、とも考え始めてもいるので、これから先、二川さんにコレはダメだよと言われても、平気の平左では無いけれど、アーそれはそれで仕方ないなと考えるしかないだろう。

このGA日記を通読しても、二川にとって最高の建築とはル・コルビュジェのラ・トゥーレットの僧院であり、フランク・ロイド・ライトの落水荘であり、ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸である事はハッキリしている。ル・コルビュジェと同時代にも二川が生きていたら、恐らくは二川はコルビュジェに平気の平左で、ここんところはまずいな作り直した方がいいとか言っていたに違いない。ル・コルビュジェは苦り切った顔をしてへ理屈言って反論しただろう。

「そりゃあ、あなたね理屈はわかるけれどね、モノがどうしようもないなあ、ここの壁の厚さ、ボリュームが失敗しているな。本当に自分でデザインしたの」なんて言ってたんじゃあないか。コルブは更に苦り切って、この男殺してやりたい、位に思ったろうが、ケンカしたら強そうなので、あきらめてうつむくばかりであったろう。ちなみに二川幸夫はラグビーやっていた体育系であり、ケンカは強い。今でも強いだろう。ケンカはしない方が良いのである。肉体的に負ける。

フランク・ロイド・ライトの建築は恐らくは二川幸夫が最も好んでいるものであろう。ライトとは二川は良い友人になっていただろう。挙句の果てに変なジャポニカの骨董美人画なんかをライトに売りつけられて、マ仕方ネェな。欲しがりません、勝つ迄はなんてウソぶいてもいたであろう。同時代に生きておれば今でも想像のつかぬ位にドラマチックな本やら、映画やら、何か別の形式のモノをライトと生み出していたかも知れない。

ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸を、日本の神社みたいにチョッと恐いモノがあるという二川幸夫の眼は凄いと思う。信ずるに足るのである。GA日記でファンズワース邸の遠景に空の雲と、手前の川の水をどうしても一つに撮りたかった二川の本能は、ミース本来の神秘主義的傾向の実体を把握しているのである。

つまり、アルヴァ・アールト、そしてルイス・カーンも含めて、二川幸夫は巨匠達の作品群と共に今でも最も良く生きて、そして生かされている人物なのだ。

つづく


絶版書房交信 69 ある種族へ
二〇〇九年八月二十七日
GA日記

『GA日記』ADA 2400円+税


世田谷村日記にも書いたが、久し振りに日本の建築界に良書が誕生した。マア、一種の事件だなコレワ。

二川幸夫という実に不思議な存在の全体がよおくわかる本である。十数年にわたる世界建築行脚、むしろ巡礼記と言っても良い。

私見ではあるが、世界の現代建築は今、断末魔にあえいでいるとしか思えない。特に日本のそれは弱り目にたたり目の中にある。

残念ながら若い人の建築志望者は減少する一方であるし、歴史、地政を考えて見てもその傾向が変わる兆しはほとんど無いと考えてしかるべきであろう。時代の趣向自体が建築を中心とする焦点をずらしている。

冗談ではなく、こうなってくると何やら神だのみの風に頼りたくなるではないか。

で、私は神ではないが、アニミズムを最終兵器のごとくに持ち出そうとしている。いささか物騒な言い方になっているが、本当のところそうなのだ。

二川幸夫は実に合理的な人間である。それも関西人特有の実利主義者である。そのマキャベリストとも言うべき人間が唯一、非合理的な選択をした。近・現代建築を写真に記録するという、あんまり金にはなりそうも無い道を選んでしまったのである。

この人物は実業をやっても、政治をやっても成功したであろうと思う。現実を見分けるに敏だし、判断も早い。やり始めたらあきらめずに通す根性も強い。

それが何か、誤りという他にない何者かが働いたのだろう、建築の道に入り込んでしまった。何があったのか。

それはさておいて。「GA日記」は建築の氷河期とも言うべき今にとって、一種の福音書の如き、あるいはコーランの如き事件として出現してしまったのである。ここには思わせぶりな思想らしきや、中途半端な言説は一切合切何も書かれてはいない。全世界の近・現代建築の良品らしきを、ただただ見て廻り、写真に撮るという行動だけが記されている。それだけだ。

しかしながら、本全体からにじみ出てくるモノは得体の知れぬ狂気に近いモノである。

単純な事である。

何故?こんなに建築が好きでいられるんだろうという、私は不気味なモノさえ感じるのである。

それでですね。

建築に近未来というモノがあるとすればの話しになる。勿論、地球に人類が生存する限り、建築はなくなる事はない。近未来、つまり自分やら二川幸夫さんが生きているうちにの話しである。

この本の全体からドスンと音がする位に伝わってくるのは近・現代建築への愛情としか言いようのないモノである。二川幸夫の実際家振りを知らなければ、信仰とさえ呼べる位のそれはモノなのだ。

こんなに建築が好きになれる人間がいるのに、こんなにその気持の無い建築が建ち続けているのは何故なんだ、そして若者は何故、建築から遠ざかり始めているのだろうか。

それは、こんなに建築が好きになれる人がいる位に、ある種の建築は凄く面白いという事が伝えられていないからだ。

近代建築様式が日本に伝えられてから百数十年経った。「GA日記」はその歴史の、意外や意外、成熟の上に出現したモノであるのではないか。

どうやら、短文ではこの本については書き切れぬようだ、つづけて書いてゆく。

が、余計なお世話だろうが何だろうがですね。この本は売れなくてはならない。そして建築家達も、読まなくてもいいから売らなくてはならない。勿論、教師は何をさておいて学生達にすすめなくてはいけない。だって建築愛好者の集団の上に我々は成り立っている現実がある。

昔、ジオ・ポンティの「建築を愛しなさい」という本があった。

学生時代読んだけれど、何故愛さなくてはならんのだと、思うばかりであった。

「GA日記」に二川幸夫はそんな事は書いてはいない。

私はこんな風に建築を愛さずにはいられないのだ。と、それだけが記されている。

つづく


二〇〇九年八月二十四日

絶版書房ではどうやら、アニミズム紀行シリーズの外に、いくつかの事業ラインを組み立てていかねばならぬ状態になってきた。

アニミズム紀行シリーズは、これはポリシーとしても、ポリシーってのは意地と言う事でもあるんですが、意地と見栄の見地から考えても、絶対に増刷したりは出来ないし、しない。

でも、もう少し世の中に送り出したいメディアはいくらもある。いくらもあるが、これは値段を少し下げさえすれば、中量生産の繰り返しラインにはすぐ乗る、力を持っている。

で、その幾つかを、絶版書房企画の別枠で社会に、つまりは読者の皆さんに送り出そうと決めた。

そうしないと、こちらのフラストレーションがたまる一方なのだ。

で、最初の6つ程の企画の一つを紹介してみようと思う。このセクションの大半はみんなどなたかとのコラボレーションである。だから、当然絶版のシステム、すなわち絶滅のシステムには乗せる事が不可能なんである。

このセクションはあくまで、売れれば増刷のシステムとしたい。それ故、今世にある出版社、印刷所、流通のシステムに乗せざるを得ないのである。

で、前口上は切り上げて、その6つの企画の一つを。

第一回ではない、一つは

「グァラマータじいさんと子供たち」

の題名での絵本出版である。

次回に荒いままに考えの骨子を述べる。


作品とどきました。良いですね。昔、山本夏彦さんから、文章は努力してうまくなるものではないが、石山は最近その常識を破ってうまくなった。と言われた事があり、とても嬉しかったのを思い出します。それ位に嬉しい程うまくなった。

何処がどうとは言えぬが、この四点は良いです。絵面に気持が棲みついている様に思いました。

今、私の仕事机の周囲はチョッとしたギャラリーになっています。

山口勝弘のドローイング数点と、藤野さんのペインティング数点を並べてあります。堀尾貞治さんのも一点あります。私の他は誰も体験する事が無い空間ですが、藤野さんの品は特に良いです。山口さんのモノと並べてみますと、藤野さんの色使いのクセというか好みが良くわかります。

赤を少しおさえた方が良くないですか。画家に向って言う科白じゃないのは自覚してますけど。この赤を少し、ホンの少し変えると随分進化するんじゃないかと思いました。

藤野さんの赤は皆同じ赤で、デザイナーが使う赤ですよ。恐らく赤は藤野さんにとっては命綱なんでしょうけれど、その赤が表に出てこないで沈んでいるモノの方が私にはとても良いと感じられます。

この赤を少し何とかすれば、藤野さんの作品世界は一変するようにも思います。赤だけでも良いから少しだけ工夫してみたらいかがでしょうか。

トロピカルな緑、エメラルド・グリーンと言えてしまう様な緑も、そうすると多少の工夫が必要になるかも知れない。

藤野さんのモノにはフォルムらしきが無い良さがあります、それですから色、特に赤が焦点になります。

大入りの赤はもう忘れた方がヨイように思います。アレは形が記号としてあって、それに赤がポップカルチャーの表示、トヨタカラーみたいに乗っていた。でも基本的にユーモアに欠けていました。本物の笑いではなかった。それ故に象形文字のようにはなり得ていない。

ここのところの作品の大半は皆、大入りアートよりも随分と良いモノのように思います。余計なこと言うなとお考えでしょうけれど、私としても藤野忠利再生計画ですから、言うべきは言いたい。

要点は一つです。

赤に気をつけて・・・・・・・・・・・・・・下さい。

八月十八日

盆明けです。

暮々もお体に気をつけて下さい。

絵よりも、何よりも、自分の生命が一番です。


二〇〇九年八月十八日
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時の谷、時間の倉庫

水没した建築と言うイリュージョンの記憶そのモノを建築として実現してみせた、それ故、この建築は歴然とした情報の建築である。

一、サイト全体は猪苗代湖鬼沼の 45ha の山林。そして実利的な機能は自給自足を旨とした農園モデル。この時の谷のゾーンを除いて他は徹底した即物性で技術・エネルギー・環境への配慮でデザインされている。これが肝要である。

二、その一切の観念らしきが排除された全体の中で、ここだけがページの裏表の如くに逆転されている。

ただし、シュール・レアリスムもノンセンスも、そういう手付きは一切使わない。

この場所に対するネーミング、この建築物に対するネーミングだけでそれを成そうと試みている。

このページで紹介してゆく、この場所は現実のモノであるが、それの呼び方、あるいは読者の皆さんの大方の解釈をすべて(できるだけ全てに近く)、ひっくり返してみるのを試みる。

三、それでも出来るだけの理解、つまりは作者とのコミュニケーションを試みようとする人間は、実は延々と、いつ迄続くかも知れぬ冥府の旅への紀行であるやも知れぬ、そうで無い事を望んでいる「アニミズム紀行」を、読んでいただくしかない。

しかし、その情報さえも実に限定された人間にしか情報は得られぬ様な仕組みになっているのである。


二〇〇九年八月十日

菅原正二 様

実に暑苦しい日曜日です。

私のところは冷房暖房ありません。風だけが頼りです。その点、ベイシーは風が通りませんからどうだったかなと、今フト想いました。でも昔の蔵は風の通りも、ひそかにあったし、記憶では冷気が漂っていました。

ベイシーで暑苦しいという記憶は一切ありませんでした。

ウチの猫は白足袋といいます。焼却炉行の前日に五匹兄弟の中の一匹だけ貰い受けてきた、正真正銘の野良猫です。

野良猫のDNAをしっかり持つ筈なのに、暑さに弱い。毎日、少しでも涼しい所、冷たいモノのある処を探し廻ってウロウロしているのです。

猫に日曜日も何も無いように、そう言えばここ半世紀弱、大兄にも日曜日なんてものはなかったのでしたな。

八月九日 石山修武

石山さん

小生に「日曜日」はバンドマン時代からずーっとありません。「正月休み」も「ゴールデン・ウィーク」も、普通の”連休”も「お盆」も「暮」も、これこの通りありません。徹底してありません。人が動く時は動かないに限ります。野良猫の習性と似てます。

おとといの夜、川向こうの高橋さんのアパートに行き、車椅子ごと庭に出て花火を見上げました。川のあっち側は、”打ち上げ”現場ですので、至近距離で聴く花火の音は、ちょいとかないませんね。天空ですから音場のスケール感がまず違いますので。

高橋サン、目だけうるんでました。ピクリともしません。今日が「夏祭り」最終日ですが、はじめから”祭り”になってません。普通にやっております。

8/9 ベイシー 菅原正二


二〇〇九年八月七日

菅原さん

案のじょう、居ないと思ったら居ましたね。先程の声の主は本当に本人なのかと、一瞬、虚実がひっくり返ったような気分になりました。

イヨイヨ、おたがい様に我々はアッチとコッチ、たましいと現身らしきの境界線、薄皮一皮のところにたどり着きました。考えてみれば、情報の時代なんてのは、居ない筈の人が、電話に出る、オーッ、そんな事もあるんだ、の時代なんでしょうか。

ベイシーと大兄その者はだから、おイヤでしょうけど情報時代の先端、つまりトップランナーであるんです。私、それを知ってるんです。最後尾の、一周遅れと思っていたのが、いつの間にかスタジアムの都合で、トップにおどり出たわけです。

これは奇跡ですよ。

あんまり、働かないで下さい。寂しくなります。

八月五日 石山修武


二〇〇九年八月六日

菅原正二 様

幻、自身の現実が幻であるやも知れぬ、そんな考えは実に最近、とみに私奴にも襲来するモノであります。

ようやくにして知恵がついたなと、私はほくそえんでおります

こうやって大兄に実に無駄な、現実には何の役にも立たぬFAXを送っている。時に返信があったり、無かったり。これは世間の人達から見るならば、明らかに空気の如く、夢、幻のような無意味な事やってやがるとしか思えぬ事でしょう。

が、しかし夢幻と現実は紙一重です。偉そうな口振りになっちまいましたが、大事なところです。

一枚の幻みたいなFAXは、それを幻みたいなモノだと意識した途端に、ベイシーに保存されている数枚のレコードと同じ世界のモノになるんだ、と、そう考えるようになりました。

レコードの一枚一枚は要するに墓碑ですよね。死者は黙して語らず。

そこんところを大兄は、マアマアそう言はずにとばかりに、レコード針を乗せて、回転させJBLのスピーカーで発掘しているわけです。

ツタンカーメンやバビロンを発掘した人間は考古学者と呼ばれます。この考古学と言うのも実に、考えてみれば夢幻の類のモノです。一体何の役に立つモノなんでしょう。

でも、宇宙ステーションで遊泳して、何ヶ月も生活して、大騒ぎされて地球に帰ってくる宇宙飛行士よりは、何故かは説明できませんが、上品な奥床しさ、人間としてですね、人間の尊厳の鈍いけれど、イイ味の光を感得します。だからこそ、馬鹿間抜けと一見、見受けられる、何ツーか市民と呼ばれる消費者大衆は何故だかエジプト展にかけつけるんじゃないか。

私は昔から、初会の時から大兄は筋金入りの化石クラスの無駄者だと見抜いておりました。考古学者と同類にして似ても似つかぬ種族なんですけれど。

要するに、無駄な幻が、今って時代は恐ろしい位の現実感をも持ち始めてきたとは思われるのです。

幻と現実の間の境界線が極薄になって、時にそれも消えてしまったんじゃないか。私はそうにらんで居ます。にらむのは勝手ですから。

そうしますと、ですね、このFAX通信の超凄玉とも言うべき、つまり無駄の化石、しかも、恐竜クラスのデッカイ奴、ベイシーと大兄は実に新種の、ほとんど 21 世紀型の種族として変身して、他から見える筈なのです。私はそう見てます。

菅原さん、ベイシーはピラミッドの中の玄室ですよ。大兄は死者を呼びおこす、王でしょうな。

つまり、大兄は王なのです。ケチ臭い者ではない。ベイシーは黄泉の国と今を結ぶ、トンネルでしょう。

お棺と呼んでも良いでしょう。アークです。

ベイシーの壁に大兄が撮影したリアス・アーク美術館の写真が置かれています。

私にとってはリアスならぬ、リアル・アークはあの写真であって、すでに実物ではない。あの写真は実物よりもリアルです。

マ、そんなこんなで、いささかムキになって書いちまいましたが、本音です。

コルトレーンの凄さは解るつもりです。でも。彼はあの呪文みたいに、ニュルニュルした蛇みたいな音をだしながら、脳内では何かを、映像らしきを脳に写し出していたんでしょうか。そして、あれは何の為の呪文だったんでしょう。出来れば教えて頂きたい。

八月六日 石山修武


二〇〇九年八月四日

菅原さん

昨夜、久し振りに肉声を聴きたいと思い、ベイシーに電話しましたが、不在でした。電話の鳴音の中に誰も居ないベイシーの光景がまざまざと脳内に浮き上り、仲々良かったです。不在の闇も又良し。

十四、十五のハンク・ジョーンズ・カルテットのベイシーでのライブ、どうやらその頃は盆の盛りで新幹線もホテルもギューギューづめでしょうか。

私としては誰も居ない、凍りついた化石の様なベイシーが趣味なので、それが終ってから、うかがいたいと考えております。

ベイシーは目的も無く、ただただ、そこに居るのが私には一番です。

八月三日 石山修武

石山さん

「ベイシー」というか、私は、とっくの前に落城しておることをですネ、近頃になってつくづくと自覚いたします。石山さんは最初っからそう言ってますが。

いい恥さらしも堂々とやってればそれでいいんだと開き直ってます。”開き直る”ということは他に手だてがないという意味ですね。

私は、遂に何者にもならずにその中にふと消えることでしょう。

何者にもならなかったというのは偉いことです。

ほんとは何者にもなりたくないんです。私の生涯は”幻”だったと今夜は言い切ります。

8/4 午前十二時十四分。

ベイシー菅原正二


二〇〇九年八月三日

石山さん

8/14(金)、8/15(土)の両日、ハンク・ジョーンズ・カルテットのライヴ・レコーディング・セッションを「ベイシー」で行います。

これはかなり大げさなことになっております。が、しかし、

私は一人で絶望時終末状態につかれておりますので

いたって冷静です。

何故にこんなに疲労を覚えているのかと申しますと、面白いことがみーんな終わってしまったからだと考えられます。

今は、ことごとくつまらんことばっかで、ま、考えようによっては自分自身の賞味期限が切れたといったほうが正確だと。ま、いましばらくはジタバタいたしますけど。

そんなところです。

7/31 ベイシー 菅原正二

菅原正二様

疲れきっているのはお互い様です。せめてグチは言わぬが華。この平成という名の時代は実に名前そのものが不吉でしたな。一億総白痴化は故大宅壮一の名言でしたが、今は一億総疲労化の世です。

特にパソコンとケイタイの連中が絶望的な疲労の極に居るらしきを、私最近発見しました。もしかしたら彼等こそ一番の絶望を視ているのではありますまいか。

これは金属疲労でありますから、あらゆる工業化製品、マーケットはつい落するでしょう。

ですから、私は最近は貴兄の古い著作やら何やらを読みふける旅に出ております。

こんな事を夢想しました。中上健次という一九九二年だったかに死んでしまった作家が居ました。デビュー前は毎日モダーン・ジャズを聴きまくっていた、それも狂気を想わせる程に。御存知でしょうか。私よりチョッと若かったかな。それ位の年の頃です。

村松友視さんに「ベイシーの客」という中間小説があります。村松さんは手練れのモノ書きですが、しかし、ベイシーの客である御本人に一向にモダーン・ジャズの狂気が感じられません。大人なんでしょうね。いつか狂うかも知れません。そう期待しています。

凄い太った、百キロ以上の大男でした。中上健次は。私は生前、一度こっきり会いました。その時は何の印象もなかった。

最近妙に胸騒ぎして、その中上の書いたモノを読み狂っています。

実に、モダーン・ジャズだなと痛感します。恐らく、中上はベイシーの闇に姿を現したのではないかと確信を持つに至りました。

それは死んでからの事ではないかと思いますね。

中上健次は中途で死ななければ、途方もない作家になっていたかも知れません。死んでしまって、それだけの者であったかも知れません。しかし、少なくとも自分のスタイルを持っていました。

文体は、絶頂期にはジョン・コルトレーンを想わせる凄味があった。東北一ノ関ならぬ、紀州熊野の新宮の産で、熊野を舞台にモダーン・ジャズをやっていたんだと思います。

中上健次は恐らくベイシーにモダーン・ジャズを聴きに、空気になっても行ってますよ。

菅原さん、こうなったら、死んでしまった凄玉相手に、ベイシーでレコード演奏しましょう。コッチの世界はもう程々です。

アッチに聴かせてやって頂きたい。

二〇〇九年八月一日

石山修武

石山さん

中上健次と友人だった友だちは居りますが小生は直接会った覚えがありません。デキル男だったことは確かです。先日死んだ平岡正明は「ベイシー」に来たことありました。“全てのご婦人は理不尽である”というのが彼の一番の名言と記憶します。これも死んじゃいましたが小野好恵という「インテリ・ジャズ喫茶ゴロ」が居りましたが、阿部薫というキチガイ・サックス奏者を「ベイシー」に連れてきたのが小野です。・・・あの手の者は絶滅しましたな。尤も、いま生きていたらけっこう手を焼くと思いますが。

ハンク・ジョーンズは本日が誕生日で、日本に到着したら満 91 才になっていたというわけで、間もなく「全日空ホテル」から電話が入ると思われます。

8/1 ベイシー 菅原正二

いま一番の問題は「如何に時代に逆らうか」であります。それしかないと言って過言になりません。「テーマ」でもあります。

で、多勢に無勢、囲まれて炎上、落城する悪夢にうなされたりしてるのであります。しかし、思い出せばこの落城に際し天守閣にて集合写真を撮ったりしている余裕も一方ではあったという・・・。

先日見たこの悪夢はですからあんまり”悪夢”と感じられませんでした。

あまりにも現実をよく表しておった為でもありましょう。

私、置かれた立場を意外とよく分かっておるのかもしれません。

8/2 ベイシー 菅原正二


二〇〇九年七月二十四日

59より

ブルーカラーの谷川岳・センチメンタリストの穂高岳

Mt. エベレスト・現チョモランマが登頂されて後も、勿論ヒマラヤの 8000m 級の巨峰への挑戦が無くなったわけではない。チョモランマはヒマラヤの巨峰の中ではむしろ比較的難易度の低い山である。

登るにより困難な山は多い。スポーツ登山発祥の地ヨーロッパアルプスでも、とうの昔に初登頂の競争時代は終わり、難ルートの初登攀競争への時代へと突入した。

アイガー北壁、マッターホルン北壁、グランド・ジョラス北壁の初登攀が競われた時代である。恐らくこの時代が登山がスポーツであった時代の最盛期なのではなかろうか。

北壁が何故目標とされたか。それは単純に北を向いた巨大な壁で酸素ボンベはとも角、ほぼ完全装備でなくては登れないからだ。氷壁を登る装備である。

例えば今フリークライムと呼ばれるスポーツまがいがある。人工的に作られた岩壁やらを軽わざまがいに登るモノである。

実に軽装である。

手や足に滑り止め剤を塗り付けたりする。あれは巨大なトレーニング用岩壁でも通用する技術でもあるが、あの恰好では実物の山の岩場は登れない。実物の山では、3000m クラスの低山でも天候は変化し、厳しいからあのスタイルは危ない。

私が山登りを止めた直接の原因は、大学の二年生だった頃、夏の前穂高岳の東壁を登った時の辛い体験からだった。

夏の前穂高岳東壁にも実に沢山の登攀ルートが在る。全て岩登りの技術らしきを獲得していないと不可能ではあるが、やはりきちんとしたガイドブックがあり、ここで右手をまっすぐのばすと 10mm くらいのホールド(手がかり)が得られる、とか書かれている。新ルートでない限りハーケン(岩くぎ)なぞ打つ必要もない。ガイドブック通りの動作が出来て、失敗しなければマア登れる。

しかし、才能のある人間は楽々と速く登る。

私はその時マアマア難しいルートを登っていたのだけれど、途中で自分より明らかに才能のある人間にそのルートでの先行をゆずり渡した。その人間は異常に登るのが速かった。

聞けば高校生であった。

日本の夏の山岳、それも岩場のルートには、それこそ一日何組ものパーティ(チーム)が取り組む。登り始めは、ゴルフと同じように順番待ち状態が発生したりする。ジャンケンで順番を決めたりもする。

私の場合、そこは途中であり、追いつかれて、その若い人材をかなりの時間待たせなければならぬ状況であった。勿論、ほぼ垂直に近い何百メーターの壁の途中である。落ちれば死ぬ確率もあるだろう。ないわけではない。

で、とも角、苦しい態勢で身をズラシて私はそのルートを若い高校生にゆずった。

「じゃ、お先に。」

と声を掛けて二人は我々を追い越した。通常、岩登りは二人一組で行う。トップとラスト。つまり先に登る人間と、それの無事を確保する人間との分業が通常だ。

そのルートは登るに一日がかり、つまり早朝から午後までかかるルートであった。その一日の何と長かった事よ。

三〇〇メーター程の岩壁の中空にしがみついて私は霧の中を自由に飛ぶ岩つばめの姿をにらみつけていた。

追い抜いていった高校生のパーティは良く訓練されていて、しかも動作に才能が見てとれた。無駄な動きが無く、しかも自信に満ちてもいたのだった。

彼らはキット、事故に会ってさえいなければ日本有数のクライマーになって、その後、ヨーロッパアルプスにも、ヒマラヤにも登りに行っただろうと、思う。

ただし、登山の恐ろしいところは有能な人間程リスクを背負いやすいという宿命があるのだ。つまり、有能なクライマー程死ぬ確率が高いという事である。

私のやめ時は潮時であった。

岩壁を登るのは、岩壁にしがみつく才を得るという事だ。

上手なクライマーはしかも岩壁から身体を離し、三点だけのピンポイントで岩壁と接触する原理を本能的に身につける。あるいは身につけるのが速い。

三点確保と呼ぶが、これは構造力学と全く同じ。三角形が古典力学としては最強だの定理である。

指先、足先の総計が常に三ヶ所岩場をつかんでいれば、最低限の安全は確保できる。才質は登高の際の三点の移動の流動性のデザインという事になるのである。流れるようにその三点が移動すれば、登高の速力は増加して、しかも美しいモノになる。

つづく


二〇〇九年七月二十三日

58より

富士山に初登頂したのだって、猟師か、修験道者のはしりか、あるいは地理愛好癖のある変わり者の原始人であったのではないか。

そんな風に考えれば、日本には登山というスポーツがヨーロッパから輸入された時にはすでに未踏峰の山岳は一座も無かった。

第二の高峰の南アルプス北岳も、北アルプスの槍ヶ岳、穂高、剣岳、そして大雪山系の山々も全て、誰かが足を踏み込んでいた。

ヨーロッパ・アルプスを代表する山岳マッターホルンは、ヒマラヤと比較すれば小さな四八〇〇メータ程の山でしかないが、これは近代になって初登頂が競われて、多くの悲劇も生み出された。登山を目的とした者にしか登る事の出来ぬ山岳であった。

それ故に日本のスポーツ登山は変な様相を呈さざるを得なかったのである。

日本には未踏峰の山岳は無かった。その風土にヨーロッパ発のスポーツ登山が輸入されるとどうなるか。徹底したバリエーション追求に突き進んだのである。

一九六〇年代の事であった。

「岩と雪」という、山岳ジャーナズムの最高度の雑誌があった。今でもあるのか知らぬ。そこに京大山岳部出身のジャーナリストであった本多勝一氏が論文を発表した。

世界最高峰の Mt. エベレスト、現チョモランマが、エドモンド・ヒラリーとシェルパのテムジンによって初登頂された時に、地球上から「登山」というスポーツ登山は終幕を迎え姿を消した。世界最高峰の山岳が登られた事で、山岳界はすでに目標を失なった、という主旨のものであった。

正論であった。

以降、論理的には全ての高度な登山はバリエーション開拓の時代に突入せざるを得なくなったのである。バリエーション、つまり厳しく言えば変態、特異領域である。

日本にはその始まりからすでに一座も未踏峰の山岳は存在しなかった。しかし、登るに実に困難な危険なルートは存在しないわけでは無かった。

一番有名なのは群馬県谷川岳であろう。この山は標高二〇〇〇メーターにも満たない。低山である。

しかし、異常な位に事故、遭難者が多いので有名である。

一の倉沢と呼ばれる険悪な岩場を持つからである。ここの岩場には凶相さえ漂う。恐らく世界でも最多の登山家の生命をうばっているだろう。

場所が特異である。

東京から夜行日帰りが可能である。

それ故に、高度なロッククライミングに挑戦したいと願う、特異な種族のメッカになってしまった。

金もヒマにも恵まれた大学山岳部の学生達ではなく、金もヒマにも恵まれない町場のロッククライマー、社会人山岳部の余りにも酷薄で異常な、凶々しい登山道場になったのである。

つづく


二〇〇九年七月二十二日

57より

いずれ近いうちにアニミズム紀行で触れようと考えているのだが、山と人間の触れあいを想うに、世界にあまねく在る山岳信仰等の観念の世界をさて置いて、何故、自分はあんなに登山に夢中になった時期があったのだろうか?という即物的、具体的な問題が実に身近にある。

大雪山系トムラウシ山他で遭難された方々の大方は今の私の年齢である。亡くなった方の中には専門のガイド(男性六十一才)もおられる。恐らくガイドで生計を立てておられた方のようだから、謂わゆる登山家であったのかもしれない。

私が登山をあきらめたのは才能の無さに気付いたからだ。

登山は酷薄なスポーツである。そのグレードが高くなるにつれて、才能も又赤裸々に浮き彫りにされる。

その赤裸々さは時に死と対面せざるを得ぬところまでゆきかねない。

才能が無いのに、私はロッククライミングが好みだった。ロッククライミングに没頭していた一九六〇年代、すでに登山界の主流は大学山岳部から社会人山岳部に移動していた。登山に於いても妙に理論的な風を好んだので実に沢山の山岳関係の図書を読破した。

登山の世界には歴然として階層性が存在した。当然、頂にあるのはヒマラヤ登山であった。一九五六年に日本山岳界はヒマラヤ初の八千メーター峰マナスルの初登頂を果たした。槙有恒氏を隊長とする、大学山岳部を主軸とした登山隊の壮挙であった。

ヒマラヤの高峰に登る事が出来るのは一部の恵まれた境遇にある人々だけであった。なにしろヒマラヤ登山には金がかかった。

大部隊を組んで、ベースキャンプを構え、第一、二、三、四キャンプと次第に高度を上げて、最後に頂上アタックが成された。ネパールでの荷物運搬のポーター、そしてガイドであるシェルパを含めると百人を超える大部隊になるのだった。

その部隊に参加するのには時間も金もとっても必要だったのだ。人生を賭けねばならなかったであろう。

六〇年代になって、そんな状況に革命らしきが起きた。

日本の山岳には登山家(プロの職業登山家)でなければ登れぬ山は一つも無い。最高峰の富士山は標高 3776 メーター。4000 メーターに満たぬ休火山である。

富士山はスポーツ登山の対象には全くならない。かつては十二月の冬の始まりの頃の富士登頂だけは少し計り危険であった。降ったばかりの雪が凍りついて、ブルーアイスとなりスリップしたら長い距離を滑落した。だから滑落防止技術のトレーニングには適していた位の、実につまらぬ灰の山であった。

スポーツ登山の対象にはなり得ぬ山岳である。

夏期であれば誰にでも登れる山岳である。

つづく


二〇〇九年七月二十一日

大雪山系で遭難事故が伝えられている。

十人もの人が亡くなった。「水の神殿」の地元の方々への落成式が十五日に開かれた。悪天候であった。北海道には珍しい大雨で大雪山南麓ににある水の神殿も大荒れの天候に見舞われた。土盛りの土が一部流されて、披露宴の道具を搬入した大型車のタイヤが土にのめり込んで立往生したりもした。

亡くなった方々は十四日に入山した。十四日は良い天気であった。それが翌日急変したのだった。

大雪山系トムラウシ山、美瑛岳でツアー登山客、しかも、年をめした方々の遭難であった。軽々しい事はとても言えぬけれど、この遭難は地球温暖化による異常気象によるものと考えられる。

地元の人々も、こんな七月の天候はこれ迄の十勝、北海道では考えられぬと言ってもいた。

二千メーター級の山々は東京周辺の山でも、それ程高度のある山々ではないが、しかし、大雪山である。緯度が違う。大雪山は日本で唯一氷河期の名残りであるカール地形が残されている。大昔から極寒の地であった。ともあれ、低い山であっても自然の力は人間の力をはるかに超えた力を持っている事に違いはない。

私も、うーんと若い時に冬期の永雨中の登高行で何度も危険な目に会った。風は体のエネルギーを吸い尽くす。アッという間に歩く事も出来ぬ状態になるのである。

私だって、体温を奪われて、歩けなくなり友人に助けられて下に降りた事があった。

私が厳しい登山に打ち込んでいたのは十代の後半から二十代の始まり迄であった。

何度も危ない目に会った。

今、生きているのが不思議なくらいである。

「水の神殿」から望んだ大雪山系の山々の姿を、そして完成式当日の雪雲におおわれた山々の姿を今、思い出している。

あの雨雲の中で、登山ツアーの方々はすでに苦闘していたのだ。

大雪山で亡くなった方々の年令平均は、ほぼ私と同年令である。私はとうに山登りには見切りをつけた。才能の限界を早くに知ったからだ。

登山にはある種の才質が必要である。

その登山が高度になればなる程にそんな宿命がある。

夏(七月)の大雪山は登山としてはどうなのか。先に述べたように、地球温暖化による天候異変の起きている今の前の状態であれば、夏の大雪山はそれ程に難易度の高い登山が要求されるモノではない。

ここで言う登山とは何か。

明らかに登山は「建築」「デザイン」と同様にヨーロッパに生まれたモノである。厳密に言えば近代登山である。モダニズムの登山である。

夏の大雪山の中高齢者によるツアー登山はヨーロッパ型の登山の系列に属するのである。

ただし、着目しなくてはならぬのはこのツアー登山の構成メンバーが、亡くなられた方々も含めて中高年齢層に属しておられた事だ。

つづく


二〇〇九年七月九日

アニミズム紀行5のプランが浮上してきた。4号「今何故アニミズムなのか」の少々理屈ポイ本の後なので、思いっ切り解りやすく行くのが常道だろうと考えた。

絶版書房などと言う非常道を歩いているのを承知で、変にまともな事を言う。

アニミズム紀行5は庭園の旅である。勿論、深層地下水研究所、K商事との北海道音更の小庭園づくりも一部案内する。

水が主題であるから、どうやら建築雑誌はそれ程には向いていないとも思われる。簡単な庭園の概要は、本日付の「水の神殿」に紹介している。

興味をお持ちの編集者、発行者はコンタクトされたし。

ところで、是非共、実物、メディアのどちらかでも体験していただきたい「水の神殿」庭園は、勝手な事を言うけれど、三〇倍位の土地の広さが欲しかった。

本当は、それ位のスケールのモノをつくりたいのです。


二〇〇九年七月六日

ベイシー店主 菅原正二様

朝日新聞七月四日第 36 話「アラバマに星落ちて」拝読。この連載もはや 36 回に達しましたか。

ハリー・スィーツ・エディソン。ニックネーム「スィーツ」に関してはステレオサウンド社刊「聴く鏡」で知らされていましたが、「アラバマに星落ちて」のタイトルが附されて読むと、又、別の感じがするものです。

これはタイトル賞です。

私に言わせれば、ベイシーは「イーハトブの星」あるいは「北上川の北極星」ですけど。

精密に例えれば、北上川の川面に昇る、ささやかであるが、不動の星でしょう。北極星は星の光は弱いけれど、不動であるが故に、その廻りをキラ星たちが巡る。仲々のもんです。

七月四日 石山修武

石山さん

北極星は、あれでひときわ明るかったらもっとよかったんですがネ。と、いつも思って見上げます。

あの星一つだけブレないというのも不思議な現象です。ブレない星の住人と遭ってみたいもんであります。

今年は年初めから何かと呪われた年のようで、やること成すことウラ目に出て今日に至ってます。何がどうゆう目かと具体的にいいますと「あれもこれも」であります。「2009年」なんて数字が大体においてはじめからヤナ感じがしておりました。

さて、約一週間にわたって岩手県を荒らしまくっていた坂田明トリオがようやくツアー終了、東京に帰りました。演奏は、よかったです。

July 4th ベイシー菅原正二


二〇〇九年六月二十九日

ベイシー店主菅原さん

音の神殿の習作として作っております、北海道大雪山系音更町、水の神殿の庭園が七月中に完成します。先週現場を見て来ました。

第二次大戦末期日本各地の飛行場周辺に、0戦やらの戦闘機を格納する為の格納庫が作られました。金もないので、小中学生まで学徒動員して、大量の土を型枠にして、つまり小さな土盛りの丘を作り、それにコンクリートをかぶせ、古墳を作りみたいにして、作りました。日本各地に「えんたいごう」の名で残されています。

そのやり方で、12M位直径、高さ5Mのドームをつくりました。久し振りに面白かった。仕上がりは、再び全て土で埋めてしまいます。大雪山の自噴水の為の公園づくりの施設ですが、音響がとても良いのです。

だって土でつくるのですから、それなりの音が出ます。仙台の民俗研究家結城登美雄さんと相談して、コイツを東北各地の農業施設、倉庫に普及させてみようかと考えています。倉庫だけでは勿体ないので、小音楽ホールとしても使えるようにしたいと思います。相談に乗っていただければ幸いです。

東京はうっとうしい天気が続いています。何かと、うっとおしい事ばかりですが、それはそれとして、少しでも楽しんで生きてゆこうと思っております。

六月二十八日

石山修武

石山さん

つまり、モグラ、アリ、ベトコンなどはかなり進んだ形のものなんですね。ビーバーは人間より先に「ダム」を造ってますし。蜂の巣のハニカム構造の正確さは尊敬に値します。

今朝八時二十五分からのNHK「課外授業」で八代亜紀のナレーションを坂田が上手にやってました。続いて九時からの「題名のない音楽会」で山下清輔トリオ再現版で坂田が軽く吹いてましたがタモリの話が面白かったのに、そのあとの若いもんのつまらん演奏シーンが長すぎて、せっかくのタモリと坂田がステージの横に退屈そうに立ちんぼしてましたな。坂田は24日(水)に「ベイシー」でやり、太平洋側をグルリと廻って今度は盛岡で、いま演奏が始まった頃です。30日(火)に花巻で”打ち上げ”となります。坂田は進化を遂げたですねェ。

6/28ベイシー菅原正二

石山さん

何かとヘトヘトに疲れますなぁ。坂田はそろそろ演奏終了する時刻です。盛岡は盛り上がったかどうか。坂田はとにかく不思議な人物です。坂田のどこが?と言われると具体的にいって「あれもこれも」であります。

八月の十四日、十五日のお盆の真っさい中にハンク・ジョーズのライヴ・レコーディングを「ベイシー」で敢行することになってます。ハンクは九十二歳ですからネ。この「クリスタルCD」は世界発売される予定です。プラスティックではなくガラスのCDなんです。アーメンと祈ります。

6/28ベイシー菅原正二


二〇〇九年六月十八日
石山修武

アニミズム紀行5と新しい形の計画シリーズの併走を決めた。今朝の朝日新聞に作家辺見庸が死刑制度について書いている。不自由になった体で飼い犬に食事を与えている体勢の中で、犬の目と辺見庸の眼が一瞬合った。その時の不可思議な一瞬の、犬との交信の直観に、アニミズムと人間の生と死の現実と対面した、というような事であった。犬の眼と辺見の眼が一瞬合った、飼い犬のクソを左手で処理していた時に背中で死刑囚3名の刑の執行のニュースを聴いた一瞬であった。何故左手でクソを処理していたか、右半身に麻痺が残っているからだ。

そんな身体の現実、犬との現実の共同生活があるからこそ、辺見は「死刑は人の集団化およびアニミズムの発祥ともかさなる人類最古の形だという説も有力である」と述べる。

人間の知恵というものは、身体に負荷が、ある枠を超えてかかるような時に異常に輝くものだなと考えた。唐突ではあるが、アニミズムの旅にとっては大事な指標になるだろうと直観したので記しておきたい。


二〇〇九年六月十六日

絶版書房6号は「立ち上がる伽藍」をタイトルとしようと考えつつある。本格的な社寺建築を最終段階で成し遂げたいとは考え続けている。私には寺院、あるいは寺院境内の建築設計の経験は三件ある。早稲田の真言宗豊山派観音寺富士ヶ嶺観音堂。カンボジア・ウナロム寺院内ひろしまハウス、である。

単体の建築もやりたい。しかし、門前町を含めた寺院町に関わる事が出来たら、それ以上の喜こびはない。その気持をそろそろ社会にアッピールしておきたい。

品川宿のまちづくり協議会会長との話し合いから、品川宿のまちづくりに参画する事になるだろうが、品川宿にはそれはそれは、多くの社寺がある。門前町、と街道街を組み合わせたプロジェクトを作ってみようと考えた。

浅草の話しも進めたいのだけれど、この秋のオリンピック招致騒ぎが終わる迄は動かない方が良い。品川をやってみよう。それで品川宿計画を6号でやる。


二〇〇九年六月十五日

十一時より絶版書房打合わせ。中期の展望を述べる。3号までは曲りなりにやってきた。スタッフの努力が大きい。今日の朝現在で3号、アニミズム紀行3「ひろしまハウス」400 冊の残部が八十三冊である。予想していたよりも手こずっている。一冊二千五百円の本を売る事の難しさが骨身にしみる。DVDは 70 弱を買っていただいている。残が二〇程である。

打合わせと言っても、本の内容はとも角、いかにしたら買ってもらえるのかの相談が大半である。

4号、アニミズム紀行4「今なぜアニミズムなのか(仮題)」は私の作業はすべて修了。スタッフの手に渡った。3号迄をきちんと本にしてくれた印刷所が解散してしまったので、4号の印刷をどうするのかの相談も。この出版大不況の中で、本を作り出す困難さは、まったくヒマラヤと同じ位に大きく、途方に暮れるが、何とか石にしがみついてでも続行する気持に変わりはない。石にしがみつくという例えもあんまり今風ではないのだが、本当に大変です。でも、始めた事はやり抜くのでどうやり抜くかを御注目願いたい。

次の5号、6号はこのペースでは7月末か、8月初めになりそうだ。真夏に本は売れないのが常識ではあるが、少量多品種のネット販売は別だろうと、居直ってはいる。

現在、GA gallery BOOKSHOP、南洋堂、ジュンク堂他にも本は並んでいるので、手に触れる事は可能である。


二〇〇九年六月五日

菅原正二様

今度、ベイシーに出掛ける時に、千葉輝昭さんの遺書とか手紙、写真、その他、差し支えない限りのモノ、見せていただけませんか。

カトマンズにはいつの頃に滞在していたんでしょうか。思い出せる範囲で教えて下さい。

このパンガン島のお別れに手を振っている写真は誰が撮ったのでしょうか。

お騒がせして申し訳ありません。

珍しく、朝から店に居るようで、出来るだけグズグズやってください。お願いいたします。

石山修武

石山さん

大船渡にいる弟がパンガン島に会いに行ったんですが、帰る時、弟の船を波止場で見送ったところを弟がパチリと一枚撮った、いい写真です。

右手の平が上を向いているところがいいんです。カトマンズでは坊主の真似事をしてましたから。インドは・・・ベイシー開業初期の頃でしたから '70 年代でしたかね。アルジェリアでは日本のセメント・プラントで働いておりましたので、けっこう高給取ってたんじゃないか?と、二週間ほど前にダマスカスからベイシーに遊びに来てくれた国枝さんというシリア大使がいってました。この人、定年退職したら現・シリア副大統領と組んでピスタチオの輸入会社でもやろうかなんていってます。シリアのピスタチオって塩っぱくて旨いです。

6/1 ベイシー菅原正二

菅原正二様

仕切に胸騒ぎしまして、「ジャズ喫茶ベイシーの選択」「聴く鏡」を再読いたしました。COUNT8 [37] 「旅をする人、しない人」に千葉輝昭さんは登場しておりました。又、「友よ!サウンドよ!」にも登場しておりました。

やはり、それで何となく気持の何処かに残っていたのかも知れない。

もう少し、この人間を知りたいと思います。先程、東京駅八重洲口の清水に連絡しました。鈴木紀夫さんとは会ったと言ってましたが、千葉さんは名前を思い出せない。ただし、当時カトマンズにいた日本人は皆会っている筈だ、写真を見せてくれれば思い出すだろう、との事でした。

ベイシーで会った人、会えなかった人、様々ですが、この人物は不思議に引っかかります。そのひっかかりを解きほぐしてみたいと思います。

「東海新報」は今も在りますか。沢山の残した記録を読んでみたいと思いました。

菅原さんが最期まで附き合った人間ですから、本物にちがいありません。

弟さんの住所等教えていただければ幸いです。

お体、大丈夫ですね。私の方は、廻りはドタバタしていますけれど、本人は変わりなくやっておりますので、お気使いのないように。

石山修武


二〇〇九年六月四日
石山修武

「二十一世紀の擬洋風とは」をやってみたいとは。随分大きく出たなといささか驚いている。擬洋風の可能性は私の持札の中でも、最後まで温存しておきたいと考えていたから。

でも、やりたければやってみたらどうか。

コルビュジェがル・トロネをラ・トゥーレットに翻訳したようにと言うけれど、君、「粗い石」だったかな、読んだ事ありますか。ル・トロネを建設した修道僧の物語りです。石を切り、積み、建設費用の積算をして、という延々たる日常の暮らしを描いた物語りでした。信仰が生活の中心にデンとあるのを思い知らせてくれるモノでした。

ル・トロネの中枢は信仰です。ラ・トゥーレットがサヴォア邸を圧倒するのも、恐らくそうではないのかと考えている。僧院という非近代的機能、超越性の体現という前近代性がコルビュジェの造形力をそそのかせた。

マ、それはそれとしましょう。話しがいたずらに遠廻りになる。

擬洋風の可能性は、DVDの映像でしか表現出来ぬかも知れぬという、君の直観は正しいと思う。

渡邊大志君、やってみたらどうでしょう。半端ではなく、しかもサッとスピーディーに。

考えておくべきは、二点。

一.伊豆の長八美術館及び松崎町の町づくり景観作りの仕事をどう扱うか。

率直に考えれば、擬洋風をテーマにするのであれば、入江長八、岩科学校、伊豆の長八美術館のラインの方が近いように思う。

二.それでも幻庵から入りたい、を優先するのであれば、私見ですが、テーマを変えた方が良いのでは。幻庵は美学としたらまさに藤原定家なんだけれど、より広義に言うならば、「ブリコラージュ」なんだ。

美学としての「ブリコラージュ」かな。アニミズム紀行4で書いているように、レヴィ=ストロース - 人類学 - 民俗学 - マナ - 神話学 - W・ベンヤミンのアウラ - シュール・レアリスムあるいはサブカルチャー美学を結びつけようとしている民俗学者も出現しているようです。問題なのは日本、あるいは東アジアに引き寄せるのが難しいんだ。レヴィ=ストロースだって西欧からの知の限界を否定して見せたのだけれど、その知はやはり西欧のものであったという大矛盾の中にあった。レヴィ=ストロースもベンヤミンも、ユダヤ人ですね。そこに探るべき核があるような気もしているんですが、私にはもう時間が無くて調べられない。柳田國男、折口信夫、宮本常一、そして南方熊楠のこと等、チョッと調べた方が良いでしょう。でも、美学について、イデオローグがいないのですよ、日本には。哲学者、もっと広く言えば本格的な学者かな、折口信夫には着目すべきでしょうね。歌謡論を中心に。僕は体系的に読んではいないから、この先には行けないのです、残念ながら。人生は短い。道は遠いのです。


二〇〇九年六月三日
石山修武

渡辺大志君へ。

先程は変則的な昼食ミーティングに附き合わせてすまなかった。このところ私事もあり変則だらけでとまどっているやも知れませんが、何とか耐えて、しのいで下さい。

渡辺大志君、君は私のスタッフとしては、別立ての向風学校の安西直紀と全く同年齢、しかるが故に同世代である事に、しばらく前から、僕は重要な意味があるように感じ続けていました。

良く知るように、安西直紀は慶応大学0単位退学者、しかも慶応の幼稚舎からの生粋の慶応マンです。対するに君は私同様に高校生の頃から、早慶戦で、アノ幼稚舎のガキ共の金切り声の応援に、コノヤロー、ガキは小便して寝てろ、の理由の無い、反発を感じ続けて来た、言ってみれば、残念ながら、奥型的バカ早稲田マンでありました。

森元総理に典型的に表現されている早稲田だな、コレワ。

で、幼稚舎上がりの安西は、0単位退学なのに、育ちはTガスの安西ファミリーの一族だと言う。要するに名門ファミリーの一員なんだなコレが。

私の世田谷村に安西が初めて訪ねてきた時、アノ馬鹿は私にこう言った。

「寒いですね、ここ。この家はアンマリ、一般的じゃないですよね」

と。私は心ひそかに、やっぱり、慶応0単位退学らしい、バカだなと思った。しかし、必要以上の正直さの素は何なのか知りたいとも思った。そしたら、

「祖父がTガスって会社作りました。」

って間抜け顔して、しかも、あんまり得意そうでも無く、仕方無さそうに言った。この仕方ネェよなという感じがとても大事なのです。

マ、その間の事は全部省いて、こいつ、若いバカだけれど附合ってもいいなと直観したのです。

君はTガスもT電力も関係ない、何処かの、私と同じ馬の骨ですけれど、巡り巡ってこうなって、何と向風学校の安西と同年齢の私のスタッフであります。しかも、向風学校対絶版書房という、いきなり言っちゃう対立の構図の中で生きなければならない。向風学校でもメディアは立ち上げる予定です。

先日、安西直紀にも言ったのだけれど、結局向風学校最初の事業はメディアだろうなと、それはほとんど確信しています。才覚だけでやっていけるフィールドであるから。

安西の良いところは率直であると言う事です。君も三島由紀夫、ジャコメッティと言うわりにはシンプルなところがある。人間はシンプルなのが良い。

で、この際、安西の向風学校のメディア部門と、対抗して自主独立の絶版書房の戦略をキチンと立ち上げる必要がどうしてもあるのです。

私も、早稲田の教師をやっている期間は実に残り少ない。その後の事を考えて頭はすでにハチ切れんばかりです。

絶版書房5号、6号の発刊及び認知戦術を具体的に考えてみて下さい。勿論、私にもすでに考えはあるけれど、次の世代からの何かが必須です。私も、連日、考えを尽くしています。

しかし、良いアイデアは決して相談やミーティング、会議の類いからは出現しないものなのは、知り尽くしてもいるのです。

アニミズム紀行は二十一号まで私が続けます。勿論、段々、佳境に突入してゆくでしょう。しかし、多くの読者を獲得するのはむづかしい。

渡辺君、君は一人で別冊、別テーマの、ヴィジュアル主体のメディアを考えてみてはどうだろうか。聞けば「ひろしまハウス」のDVDの売行はマアマアなものがあるようなので、例えば「幻庵」のDVDをキチンと、実に大きなスケールで考えてみたらどうでしょうか。

渡邊大志

石山修武さま

絶版書房交信拝読致しました。

実は私は安西さんの活動に興味を持ちつつも、交差していくにはどうしたら良いかと考えておりました。今のところ、私と安西さんは全くの同世代であるけれども、ただただ平行線を辿っております。それが石山さんがおっしゃる何処の骨の違いから来るものなのかは、不明です。

例えば、私が美学と言えば抽象の人工世界に走るところを、安西さんは非常に具体的に、まずは自分への美学へ走り、私は自分には出来かねるなとは思いつつ、「睨むんです」を全国に売り上げてしまう彼の行動力に感嘆してもおりました。

絶版書房対向風学校という構造も全く交差することがないもの同士です。しかし、ただひたすらに平行線を辿ることには、非常に現代的な価値があるとみたいと思います。

さて、美学という話しが出ました。ひろしまハウスのDVDを撮っている最中、かつて作ろうとして失敗した金閣寺の舞台はこういう類のものであったのかと、極めて個人的な事情で捉えていました。しかし、初めて「人々の記憶に残る立体的映像」という建築をカメラのモニターを通して感じた、小さな発見でした。

「幻庵」のDVDを考えてみよ。とのお話でした。私は石山さんが幻庵を作られた経緯を何度か伺ったこともありますが、それをトレースしても解釈のマニエリスムから逃れることはできないことは理解しております。

そこで、思い付きなのですが、「21世紀の擬洋風とは?」を映像(光と情報)を介して考えてみるというのはいかがでしょうか?

それと直結するかわかりませんが、コルビュジェがル・トロネをラ・トゥーレットに翻訳したようなことを幻庵にみてみたいという願望があります。

当然ながら、石山さんがそこに幻庵を持ち出すだけの価値があると思っていただければの話しなのですが。

渡邊大志 拝


二〇〇九年六月二日

石山さん

音沙汰ないので(死んだかな?)と思ってました。死ぬ時は黙って死なないでテルのように「遺書」をサービスして下さい。のちのちの人々に語りつぐ為。テルはインドやアメリカから帰って来る時に沢山のおみやげを持参してくれました。「サハラ砂漠で捕まえたサソリだ」といってメチルアルコールに漬けたサソリの瓶詰めを持ってきた時は一人死にそうになりました。割り箸でつまみ上げ、皿の上で観察しているところに入ってきた客の一人が「何んですか?それ」というから「精力剤じゃ」といったら「お、俺にもひとつ」といってパクッと喰っちゃったんです。彼は歯にはさまったサソリのカラを指でシーハシーハしながら「カーグラフィック」というクルマの本を読んでましたが、その後パタッと現れなくなりました。一週間後、次第に心配になり電話をしてみますと年老いたお袋さんが出て「マコト君、どうしてます?」と聴くと「一週間ほど前から急に熱が出て、顔がパンパンにハレて、いま寝てます」というではありませんか。死なれずに済んで助かりました。おみやげにカメレオンをポケットに入れてきた事があったんですが、成田の税関でポケットから飛び出し、大騒ぎとなり、テルはそのままエレベーターで地下深くまで連行され、パンツまで脱がされたそうです。「ショー、成田空港の地下は深さがハンパじゃない。あれはシェルターとして作られたもんだと思う」とテルはいってました。「鈴木紀夫はほんとに雪男を見たんか?」と訊いたことがあります。テルは「ウン」といって「写真撮れなかったので今度こそと出掛けたのが最後になってしまった。遺体はなかなか見つからなかったんだが、日本にいた彼のカミさんが『私、彼のいるところ分かります』というので連れて行ったら雪の上で『この下におります』といったので掘ったら出て来たんだよ」。”勘”とは”甚だしい力”と書きますので。鈴木紀夫は雪男の正体を「高所ゴリラじゃないか」といっていたそうです。

テルの遺骨の一部がベイシーに届けられ、しばらく石山さんが坐る椅子の後ろに置いてあったんです。

「日本は不自由で息苦しい」というのがテルの一貫した持論でしたネ。

いいんです、僕は制約の中で好きにやります。

ステレオサウンド次号<聴く鏡>のタイトルは「中古生活」であります。

6/1 ベイシー

菅原正二


二〇〇九年六月一日

菅原正二様

朝日新聞連載「物には限度、風呂には温度」第三四話虹の彼方に、読みました。タイのパンガン島で亡くなった千葉輝昭さんとは小学校からのお附合いだったんですね。時々話しに出てきていた人物でしたが、ようやく姿形が焦点を結びました。

ヒマラヤで雪男探しをしていた鈴木紀夫さんと知り合いだったようで、何か身近な風が吹いてきました。

絶版書房「アニミズム紀行2」に登場しましたカンボジアの、フーテンのナーリさんも又、雪男探検に関わっていました。千葉さんがカトマンズ迄鈴木さんとのお別れに香をたきに行ったとの事ですが、彼はその時ナーリさんに恐らくは会っていると思われます。

ナーリさんは、実にバカな話しなんですが、仲間と語らって、発見できぬ雪男に身をやつし、つまり、ぬいぐるみの毛皮を着用して、ヒマラヤ街道に出没し、アメリカ人トレッカー達にひと泡吹かせようと、熱中していたのです。

鈴木さんが、からんでいたかどうかは不明です。当然、この計画は挫折して、実現されなかった。しかし、ぬいぐるみを着て雪山に出没する役割だった男を僕は知ってます。今は東京駅八重洲口で飲み屋をやってます。

そんな訳で、虹の彼方に記された千葉輝昭さんは実に私の身近な人物になりました。

死者は思い出す度に生き返ると言いますから、千葉さんは今、姿がハッキリとしてきて現実の時間の中を歩き始めたようです。

近日中に東京駅八重洲口に出掛けて、清水という飲み屋のオヤジに、千葉輝昭さんの事、聞いてみるつもりです。

何日か前に坂田明からメールが入って、アニミズム紀行3を、口惜しいけど買うワとありました。

坂田も元気なようです。

六月一日 石山修武


二〇〇九年五月一日

ベイシー店主

菅原正二様

今朝、恐らくは未明。

ツタンカーメンのさやえんどうをカラスの野郎達にやられました。二度目の襲撃で明らかな奇襲作戦であった。山本五十六クラスの指揮官がいるとしか思えません。

私奴は昨日北海道でした。十勝音更の「水の神殿」着工で位置出し縄張りの為、日帰りの強行軍でした。それでいつもは早朝には起き出して、三階テラスのツタンカーメンえんどうを見廻り、下の手作り菜園の様子をみたり、と手抜かりはなかったのですが、流石に疲れて起きたのが七時過。その、わずか二時間程の空隙を突いた、敵ながら天晴れ、私としては誠に無念な敗戦となってしまったのです。

数日前に一度目の襲撃を受けました。

犠牲者は六さや程のツタンカーメン軍。私奴はそれ以来、残された八さや程の軍勢に赤いシェルターでプロテクトしたり、若干、手を抜いて、ツタンカーメン軍によしずを架けたりの努力はしてきたのですが。

やはり、手を抜いた処からカラス軍、ブラック・アーメンホテップ軍団、又の名をダース・ベーダー三世軍団は夜陰に乗じ、未明に空軍を奇襲させたのでありました。

残念ながら、私の手許には今、六個師団、総勢十六粒の手勢しか残されておりません。しかし、貴兄は、どうやらすでに、ツタンカーメンの種がくるのを心待ちにしているのが風の便りで聴こえてきます。美しいモノはその美しさがわかる者の手に渡るべきでしょう。

手許に残った、それは、それは美しい、ツタンカーメンのひつぎに残されていたさやえんどうの、これは子孫であります。古代エジプトは死の国でもありました。そのナイル西岸の死の国を生き抜いた生命体のDNAでしょうな。

花は得も言えぬ古代紫に未明の陽光がフッと指し込んだ感じのモノが咲きます。

しかし、その花よりも、何よりも、差し上げる、サヤ全体の色合形状の美しさは例えようがありません。

実は、この種の保存をとるか、仁義をとるかいささか迷いまして、今年は貴兄にはサヤから出した一粒の種だけにするかと、ケチな事迄考え出す始末でしたが、それはやっぱりイカン、してはならぬ事だと思い直し、一サヤを贈る事にいたしました。

エジプトには行った事ありません。

でも、このツタンカーメンのさやえんどうを見ていたら、もう行く必要も全くネェな、行かん方がいい位だと覚悟も決めました。これには、古代エジプトの死の国、つまり黄泉の国への人間の想像力がつまっているのでしょうな。

ベイシーのレコード、そして再生音の如きものでしょう。つまり、ほとんど無限に近い有限の時間が、音にならずに、形になったと言えるかな。

エジプトの砂漠の夜は激しい寒さの中にあるでしょう。ましてや、ツタンカーメンの墓のひつぎの中の寒さは計り知れぬモノがある筈です。一ノ関の寒さの中でも、きっとこの種は耐えて、花を咲かせ、再びさやの中に種を宿らせると思います。

今年の十月二十四日に種を、どんな形でか、土中にまいて下さい。来年の一月に芽を出し、四月には花を咲かせるでしょう。

この種を引継いだ人間達は、皆そのようにして、ツタンカーメンのさやえんどうを引継いできたようです。

四月三〇日

石山修武

石山さん

カラス軍団に目をつけられたら手に負えません。

ぼくんちの近所に家族経営のタイヤ専門店があります。ここのオヤジさんは地面にポンとはずませた音で空気圧が分かるというほどの職人であります。中庭の軒先にツバメの巣がズラーっと並んでおり、商店街の軒先を追われたツバメはもっぱら橋の下か、ここの中庭に巣を作ります。おととい行きましたらツバメの巣の前に「カラスよけ」がいっぱいぶら吊っておるので「効き目ある?」と尋くと「残念ながら昨日もひとつやられました」と。見上げるとナルホドひとつが無惨にも原形をとどめておりませんでした。

ツタンカーメンのさやえんどうは、ぼくにはちと荷が重すぎるような気がいたします。

4/30 ベイシー菅原正二


二〇〇九年四月二十八日

ベイシー店主

菅原正二様

WHAT A WONDERFUL WORLD

届きました。

東京は今日雨降りで、私も家でジィッとしておりました。昨夜はGAギャラリーのギャラリー・トークに出掛けました。今、展覧会やってて、私も出品しているので・・・・。残念ながら二川幸夫さんにはお目にかかれませんでしたが、満怡子婦人と貴兄の話し等しました。二川さんお元気なようです。

絶版書房の3号が評判よろしいようで、用心するに越した事はありません。3号は四百部刷りました。3号の売れ行きが良いので、それで4号は再び二百部に小さくする積もりです。評判がよろしい時に、すかさず縮小するのであります。

それは、つまり、その方針だけは決めたのですが、何をやるのか、主題が全く決まっていません。

それで、家でジイッとしてるわけです。

何か良い知恵ないかな、早くアイデア生まれてくれい、と待っているのですが、どうやら、しばらくは駄目だなと予感もしているのです。

恐らく、貴兄なんかは一人で、それの連続なんでしょうね。

で、突然、4号のテーマは WHAT A WONDERFUL WORLD にしちまおうかと今、突然思いつきました。

この曲(唄)に関する、貴兄の訳も無く涙がこぼれるのはどうしたことだろう、のつぶやきを出だしに、サラリと明るく、しかもカキーンとまとめてみたいと思います。

四月二十五日

石山修武

石山さん 4/26 カウント・ベイシーの命日。 ベイシー菅原正二

訳もなく涙がこぼれたのは私ではなく、およそ 30 億年後のニンゲンに似た動物です。ひたいのあたりに細い触角を持ってます。これが脳に直接「振動」を伝えるのです。DNAがわずかにつながっておりまして、太古の昔のなつかしい音に涙がこぼれたのであります。

デジタルになってからは振動しない記号が音を出し、更に去年あたりからそれを電波で直接パソコンに受けて音を出す方向に来てます。クルマのシガー・ライターの穴にキカイを差し込み、カー・ラジオのチューニングをそれに合わせますと何千曲でも簡単に聴くことが出来ますが、このキカイの値段が千円とか二千円というレベルのものであります。すでに「レコード」は化石といわれて久しいのでありますが、それをほんとの「化石」にしますと・・・。

音が出る可能性があるのは「レコードの化石」のみです。

菅原さん

今日はカウントベーシーの命日でしたか。良い知り合いを持った貴兄にお目出とうを送ります。

丁度、何やら興が乗ってきて、「記録」と、人間の音声、声について考えておったところです。

ルイアームストロングの音声、それも WHAT A WONDERFUL WORLD の響きは、カトリーヌでしたか、例の大地の震動の素。アレと似ているのでしょうね。

カウント・ベーシーのフルオーケストラサウンドも凄いものだったのでしょうな。

どうやら地球も、星々も含めて万物、皆、振動して音を発しているのだと思います。

四月二十六日

石山修武


二〇〇九年四月二十三日
石山修武

二号がようやくにして絶版となった。二二〇冊を絶版とするのに二ヶ月かかった。一号の二〇〇冊に上積みした二〇冊を買っていただくのに手こずった。読者の皆さんにはお伝えするが、毎日、毎時のサイトの動き報告が本当に楽しみでもあり、同時に辛いものでもあるのを知った。

一時、サイトがほとんど動かなくなった時がほぼ一週間あった。

この時は実に気持まで凍りかけた。大した肝玉の持主ではないから、世の中に見捨てられたか、と迄考え込んでしまった。

面白いもので書き過ぎるとサイトの動きは重くなる。かと言って書き流していても、それはこちらの主義に反する。

ここに多くの方からの通信を全て公開してみようかと考えた事もあったが、それは今はしない方が良いと判断した。

皆さんから交信の中には極めてひそやかな気持の震え迄、伝えてくるものがあって、それは衆目にさらすのはイケナイと考えたからだ。でも全ての交信には目を通そうと努力しているし、今のところは出来ている。

私の絶版書房活動は全て交信への意志の相互信頼の上に成立している。その中核は勿論送料込みで 2500 円という金が介在している事である。

そして世田谷村日記やこの交信ページは基本的に 0 円であるという、その差異の中にこそ「絶版書房」は成り立っている。

私が 0 円で個人情報の一部を公開しているのは、私がそうしたいからである。私は 0 円で何がしかの会った事も無い方に思い付きや、私のライフスタイルを伝えたい、つまり表現したい、要約すれば交信したいと考えている。

でも、その交信、交換のベースはほぼ 0 円が望ましい。だって、この部分は一方的に私の意志なんだから。その間に金は介在せぬ方が良い。

しかし、ほぼ 0 円の交換だけでは伝えられぬモノもあるのではないか。

それ程度々ある事ではないが、年に何度かある。面白い本に夢中になって仕舞い、山の手線(JR東京環状線)をグルグル自動回転してしまう事がある。

私は定期もスイカも嫌いだから持たない。こんな事威張る事でもないが、毎回毎回切符を買ってそれで電車に乗っている。切符を値切ったりはしないが、出来れば毎回値段だって交渉してみたいとは考えてはいるが、実行はしていない。

モノは考え様であるのだが、このグルグル廻ってしまう分は明らかに原理的には無賃乗車である。でも心地良い読者の快楽の為に山の手線をグルグル廻る為のチケットというのは現実社会には存在しない。恐らくJRだって将来そんな切符の発売予定はあるまい。それが資本主義の限界なんだ。

切符を買うのは目的地迄行く人だけとは限らない。手持無沙汰の時間つぶしで乗る人だって居ないとは言い切れぬし、イヤな話しで申し訳ないが死んでやろうと考えて切符を買う人だって絶無ではない。電車利用の方法の中にも、まだまだ人間の自由は潜んでいるのだ。

私の絶版書房の 2500 円は、そんな切符代だと考えてみて下さい。

私はこれに私の書きたい事だけを書いているし、描きたいモノだけを描いている。実ワ、活字だって、ドローイング(絵、や図面)だって、まだまだ捨てたモノじゃない。その中に入り込めばですが。

紙の手触りや、絵の具や墨の匂いの中には、まだまだ何者かが棲みついているように思うのです。


二〇〇九年四月二十二日
石山修武

41からつづき

書ける時に沢山書きだめしとこう、交信を、と続ける。どうやらナンパ先生は猫を飼い始めたようで、「それはそれは美しい猫である」と自慢する。「俺の首迄登ってくるんだよ」と何か特別な事のようにいばる。子猫はみんなそうなのを知らぬのだ。だからナーリさんにナンパ先生なんて覚えられてしまうのだ。

で、その美形らしき子猫の名が何と「SORA」と言うらしい。漢字で書くと「空」ひらがなでは「そら」片仮名は「ソラ」それに濁点つけるとゾラ。チョッと変形させるとゾロ、笑い始めて怪傑ゾロ。赤塚不二夫風に怪傑ゾロ目。

何で箱の家の子猫が「そら」と呼ばれなければならぬのか。ナンパ先生はイタリヤ趣味があるからオーソレミヨがオーソラミヨに変形し切断しソラになったのであろうか。

ソレがゾラに、そしてゾロに、ゾロ目になってつまり四層構造を持たせ、これはいかんと気付き平凡きわまる、しかし、何かいわくあり気な「ソラ」へと昇華した、あるいは沈没したのではあるまいか。この辺のマ、冗談を理解して頂く為には是非共INAX出版の「建築の四層構造 サスティナブル・デザインをめぐる思考」を読む必要がある。

ナンパ先生は完全なデジタル人間であるから、そのロジックの要約は容易だ(チョッピリ皮肉が入っている)。四層とは、物理性、エネルギー性、機能性、記号性である。私の関心のある歴史、意匠は四層目の記号に収束されている。マ、この辺りには異論をはさみたいし、近代的に設計される建築にも、記号化不能な、しかも核になっているような、それこそアニミズムの顕現としか呼びようのないモノの気があるのだけれど、それはさておく。

「そら」あるいは「ソラ」という子猫の名前である。

この命名作業をナンパ先生はいかなる過程を踏んでしたのだろうか。世田谷村の猫、これは焼却寸前の捨猫であったが、この猫の名は「白足袋」である。足の先が四つ共に白いからそう名付けられた。「ポンポコリン」と呼ぶ奴もいるし、ブタ猫とののしる者も居る。しかし、正式名はやはり白足袋である。直接的な視覚のアナロジーである。死んでしまった白猫は、「ニコラス」だったか「ニコライ」だったか、略して「ニコ」「ニコ」と呼んでいた。両眼が銀目、金目の怪しい美しさを持った猫であった。白足袋と違いやたら人に懐いてゴソゴソ寝床にもぐり込んできたりした。この猫はチョッピリ由緒正しい血統であった。それでいきなりギリシャ正教風を思わせる名が浮かんだらしい。つまり、チョッピリ名前に、この猫ちょっとそこらの猫と違うんですよ、違うんだからという階層性が入って、つまりオーナーはそれを表現したかったのだろう。一言で言えばコレは見栄である。

そう言う事共と比較してみると、ナンパ宅の「そら」は得体が知れぬ。

ナンパ先生は自分の理論らしきを四層構造と命名した。命名は、人間の表現欲の中で最高級な種族の一つであろう。そう考えると、「そら」はどうなんだと言う事になる。ブッディズムの空なのか、老子なのか、環境工学の空気なのか、実に得体が知れぬ。

得体が知れぬモノは実は最高級に属するモノが多い。と、すれば、「そら」はナンパ先生の四層構造のデジタル思考を超える、アナログ世界の古典アニミズムの世界を垣間見せているのであろうか。

それとも、ただ単に自宅箱の家で空気の温度を測定し過ぎて、その名残りの雪ならぬ、名残りの空気、つまり「そら」なのか。

去年の雪いまいずこ、汚れっちまった悲しみに、のセンチメンタリズムはナンパ先生には影も見えぬから、どうやらその辺りが「そら」の由縁であろう。と、久し振りに四層構造の批評を少ししてみる。

一度、何人かの友人達とうかがった事のある箱の家の、謂わゆるリビングルームの壁には、写真好きの家族の方の手になるものであったか、美しいイグアスの滝の大きな写真が掛けられていたのを記憶している。

箱の家には水気が必要なんだな、と痛く感じ入ったものである。

イグアスの滝と「そら」が箱の家に棲み込んであの建築は今、生命を贈与され始めているのではあるまいか。そう考えると「箱の家」の箱の意味自体が変身するのが私には興味深い。


二〇〇九年四月二十一日
石山修武

40からつづき

又、不思議なのは、四層構造のアレギザンダー好みの難波教授がナーリさんからナンパさん、ナンパ先生と呼ばれると、ガラリと不段の四角い難波教授から見事に崩れ出し、フニャフニャに柔らかくなり始めるのだ。

つまり箱がナンパを擬態し始める。

「それですけんどネ。ナンパ先生。アタシにマア言わしてもらいますが」

とナーリさんが切り込むと、箱の難波先生の相好がたちどころに、目尻は下がり、デレーッと、もう何でも言ってクレイとなってしまう。、

更に。

「ナンパさんカンボジアは社会主義、共産主義の体制なんて飛んでもネェですよ。カンボジヤはマア独裁体制です、フンセンの」

「でもヴェトナムは完全に社会主義体制だよね」

「イヤ、ナンパ先生、アタシ、小泉に言ったんです」

「小泉って誰」

「ホラあの横須賀のジイちゃんがクリカラモンモンでさあ」

「小泉元首相の事?」

「そう、純一郎ですよ」

「何処で会ったの」

「ウナロム寺院ですよ」

「ヘェ」

「総理ってアタシ言ってネ、あまりにもお附きのヤロー達も気がつかネェでボーッとしてるからね。こちらに控えておられるのがウナロム寺院の大僧正です。アイサツよろしく願います、ってアタシ純一郎に教えたんですよ。だってジイさんは渡世人ですからね、アイツは。

しかし純一郎さんは良いとこもあんかんね。だって、カンボジアのPKOで死んだ職員のウナロムの墓にわざわざ、花持って手を合わせにくんだからね。それはエライ、流石、渡世人だ」

「渡世人じゃネェよ。総理大臣だよ」

「イヤ、お言葉返すようですけんどね、いい政治家はみんな渡世人です。ナンパ先生そうじゃありませんか。義理と人情はしっかりわきまえてますぜ、みんな」

「・・・」

「だから、アタシ小泉総理に言ったんです。ウナロム寺院の大僧正にだけはアイサツしてくれって。だって、一番えらい人なんだから」

と、次第に会話はナーリさんペースになってゆくのである。

ナンパ先生は小泉純一郎と犬のポリス、及びポリスの子供の写真をごちゃまぜに見せられて、四層構造はもうフニャフニャで、「それが変だと言うアンタの方がオカシイのだ」と私を批判し始める始末で、もう完全にナーリさんの味方なのである。

何を読者に伝えたかったのか、私の方もそれだから、あんまり固い事言わずに、どうでもいいや、と言う訳ではないけれど、それを言っちゃあおしまいだからね。でも、もう楽にいこうかと思ってしまうのであり、楽にいこうかと私が思い始めている感じを、それを交信したいのである。

と、やっぱりつじつまを合わせようとするのが私の不自由さだ。

つづく


二〇〇九年四月二〇日
石山修武

アニミズム紀行2の残冊がようやくにして、八冊となった。あとも少しで絶版である。意外に、と言ったらなんだが絶版迄に手こずった感がある。

読者の多くはやはり建築関係の人が多く、そこにプノンペンの「ひろしまハウス」の真向いの住人であるとは言え、いきなりナーリさんが主役の本だから、とまどいがあるのも無理からぬところがある。

私の畑仕事の真似事も、当然もの作りへの好み、傾斜としか言い様の無い私自身の趣向が反映されている。その趣向らしきの構造を実に遠廻りにクロード・レヴィ=ストロースはブリコラージュと呼んでみたようだ。と、理解している。野性の思考、ブリコラージュ、神話、アニミズムと理解は連なりらせん状に下方、上方へと運動を始める。その状態は私にはとても楽でリラックスできるのだ。ナーリさんを2号で主役に据えたのはその故である。

残冊八迄着いたのでホッと胸をなぜおろしながら、ついでに、ナーリさんと難波和彦教授が某日某夕、飯を共にしたので、又、これもいきなりではあるがその模様を記録しておきたい。二人は一度プノンペンで会って、確か昼飯を共にしている。

ナーリさんには面白いクセがあって、人の名を間違って覚えて、それを決して修正しない。例えば、いずれアニミズム紀行の最終章、それこそ、これで全て終りです、絶版ですアバヨ皆さんの時に登場するであろうネパールのキルティプール・ワワークショップをアレンジしてくれたジュニー・シェルチャンの名をナーリさんはジョニーと呼ぶ。ジュニーなのに。言っても言っても直そうとしない。ナーリさんは今、七十三才らしいから、もしかしたらアイ・ジョージというメキシコ人みたいな粉装で名を売った歌手の「硝子のジョニー」という唄の、若い頃のファンであったのかも知れない。も少し新しいのではバラードを唄わせたら絶品の高橋真梨子の「ジョニーへの伝言」が耳にこびりついているのかも知れない。

昔、並河萬里という高名な写真家が居て、シルクロードを多く撮っていた。ナーリさんはシルクロードは撮っていないが、並河よりはズーッとその旅は深い。その並河萬里が紀行文らしきエッセイで、同行の日本の若者がシルクロードの砂嵐に耐えられずに都はるみだかの演歌をカセットテープで聴き込んでいるのを、情ない、日本の若者はシルクロードで演歌か、と天を仰いでなげいていたのを記憶している。若い頃は成程ネと思ったものだが、今は嘆くべきは並河の方で、演歌にシルクロードでしがみついていた若者は仲々良かったんじゃないかと思うのである。

センチメンタリズムにもノスタルジーにも強固な構造があるのを、ほどほどのインテリらしきは知らぬのだ。それは今でも。

で、ナーリさんに戻るが、ジュニーをジョニーと覚えようとしたナーリさんが、難波和彦教授をナンパさん、ナンパ先生と又、覚えてしまったのである。

実に良い誤りである。箱の難波教授、四層構造の理論好きを、ナンパさんと呼ぶのである。

つづく


二〇〇九年四月十九日

菅原さん

一昨日はごちそうになってしまい、ありがとう。御礼申し上げます。Tさんにはお目にかかれませんでしたが、病気なんで仕方ありません。T夫人に会えて良かったと思います。

ところでアニミズム紀行2の主役であったナーリさんですが、会ってないんでピンとは来ないでしょうが、突然、貴兄の名言を思い出しました。

「石山さん、義理と人情ってのは英語で言うとピース&ラブなんだよ」

ナーリさんという人そのものの為にあるような名言でしたな、アレは。

ところで、ジャズ喫茶エルヴィンの肉屋のアンドーネのフルネームなんですけど、カルロス・アンドーネでしたかね、それとも、コルトラッセ・アンドーネでしたかね。確か「ベイシーの選択」にチラリと出ていた記憶があり、ページを再三繰りましたが何故か発見できず、お尋ねいたします。変なことが気になるんです。春になりましたね。

四月十八日 石山修武

石山さん

お互い寿命はあと五年・・・ですかネ。そのあと、三年、二年、一年・・・と小刻みに区切っていけば無事達成出来るんじゃないでしょうか。「絶版書房」にふさわしい計画表と言えます。

Tさんを「北上川沿線のような人でしたね」は、けだし名言だと思いました。女房にこの話をしましたら「それ以上でも以下でもない」とか言って笑ってました。

「音」が絶望の彼方だったあの日、私は半ばボーゼンとしてたんですが、石山さんが帰ったあと、またモーゼンと取りかかりましたのですが、あんまりにひどい音に腹が立ち、怒ってしまいましてネ。「もう飽きた!!」と捨て台詞を吐いて店を出て帰りました。翌(金)曜日の昼間、タモリが到着する直前に突如として大ワザ使いまして、これが何んと「逆転満塁ホームラン」となりました。「飽きた!」といってからが”本番”なんかもしれませんゼ。

タモリ、且つてないほどの大はしゃぎぶりでした。とりあえずは「ハドソン河の奇跡」をやってのけ、フー・・・と息を吐きましたデス。

こんなところで身体壊していられないですよね。「命を捨つるほどのものはありや?」と改めて我に問います。

石山さんに尋ねます。命を捨つるほどのものって存在しますか?

さて、安藤のフルネームはカルロス・アンドーネ、です。ちなみにAB型です。

今日はコルトレーンを連発しております。

4/19 ベイシー 菅原正二


二〇〇九年四月十三日
石山修武

チョッと迷っている。

4号の「庭園」についてなんだが、高踏に走るか?平安に歩くか、その基本的な趣向についてどうしようかと悩んでしまい始めた。この通信を書きおえる迄には決めてしまいたい。

迷い始めは、四月十一日早朝に世田谷日記をメモしている時に起きたのだった。日記らしきはメモしていると、そのメモの最中にフッと良いアイデアが出現することがある。少なくとも私の場合は決して少なくはない。

近くの世田谷区区民農園に時々行く。歩いて一分半、自転車で三十秒の近さだ。三階のテラスからも、上のススキヶ原からもよく見える。区民農園のそれぞれの畑の様子は私のK2農園の、まあ教科書みたいなものだ。正直言って、見て学ぶ事が多い。

その区民農園 121 区画の中でも、極めて独特な畑がある。私が自身で菜園作りに失敗してもう三年になるから、その独特さと、ああ、かしこいなコレワ、がよくわかるのである。

88 番区画、45 番区画が際立った建築的構成というか、区画全てにネットを張り巡らせ、鳥の防御に怠りなさを見せる重装備を凝らしているのに、先週は驚いた。しかし、今朝出掛けてみたら 44 番区画が驚異的な表現力を示し始めているのだ。まだ一切の野菜類の芽その他姿は見えぬのだが、その下ごしらえが凄い。3m X 5m の区画の平面計画が誠に理知的な凄みを見せているのである。絵画趣味のある人にはマレービッチ風というか、建築趣味のある人にはルイス・カーン風といえば良いか。

両方共に趣味の無い多くの人には鉄板焼き風と例えたら良いか。あるいは四角四面、将棋で言えば角風、料理なら角煮、あるいは豆腐風。つまり平面が全て四角、直角を旨としているのである。

私のK2菜園には何処にも直角は見当たらない。考えても御覧なさい。土塊で苗床を作るのに、その角をキチンと直角にする事など不可能な事なのだ。土は自然に崩れるし、融通無碍なモノなのである。であるから私のK2菜園は、少々高く土を盛った凸部をヒマラヤの高峰K2と名付けたりのバカさ加減はあるけれども、他は極々自然にルーズなのだ。

だが、44 区画は断然直角に固執している。この区画だけである。

私はこの区画のオーナーに先週初めて会った。会話は交わさなかったが目礼は交わした。初老の小柄な男性であった。そのときには、まだ 44 区画には直角らしきはほのかに見て取れる位であった。ホーッずいぶん固い趣味の人だナァと見過ごした。しかし、今早朝主のいない 44 区画をみたところその平面はまさに直角絵画に変貌していた。

これは明らかに、なにがしかの 44 区画の初老の男性の明らかな趣向の反映なのである。直角趣味である。しかも、グリッドにしばられず、一部迷路状の部分さえある。44 区画の初老の男性への興味がいきなり膨張してしまう。 で、4号の編集方針をいささか変更してみようかとなったのである。


菅原さん

四月十一日付朝日拝受。いやあ、面白かった。山本夏彦さんが読んだら、ニンマリしただろう。新境地開拓ですね。私の方は昨日自宅庭の菜園の世話をほぼ半日、あと半日は近くの区民農園 121 区画の観察で過ごしました。

家でツタンカーメンの棺の内に入っていたサヤエンドウが再生されたモノの花が咲き、紫の、これは美しいものです。サヤの中に種子が実り始めました。

この種、いずれ差し上げたく思います。

本日郡山まで北上します。来週の木曜日だったか仙台迄再北上しますので、ベーシー迄北帰行出来るかもしれません。

日本の歌は圧倒的に北が主役です。南が主役なのは南国土佐をアトにして、ペギー葉山だけでしょう。

四月十二日早朝 石山修武

石山さん

甲子園で花巻東高校が敗けた時、「敗北」の二文字が頭に浮かんだので。

”東北”はやっぱりどんよりと暗いですよ。三陸海岸なんて、いくら晴れた日でもハワイみたいにはなりません。どっか暗い。

ツタンカーメンの棺の中に入っていたサヤエンドーの花は、それはそれは妖しい美しさだと察します。何せ「時空」を越えてるわけでして。

ーいま思いついたんですが、次回は「時空を越えた記録」ってのをテーマにしてみましょうかネ。レコード聴きながらいつも思ってた事でありますが。

本日は郡山ですか・・・・。

ではよろしかったら来週にでも。

4/12 ベイシー 菅原正二


二〇〇九年四月十日
石山修武

三日間サイトの動きが悪く、したがってヒット数も落ちた。その原因を話し合った。全てのページが重くなり過ぎているのが原因の一つであろうとなった。

それでスケッチ、エスキス、写真、カット等の謂わゆるビジュアル系の素材を取り去ってみる事にした。意味のない絵や写真、スケッチ類はページを重くしてしまうからだ。

こんな事も、今の速力の時代の傾向、趣向なのだな。

あんまり速力の時代と寝てしまうと、又、同時にすぐ消費されてしまう事も知っているので、そのかね合いが実にデリケートなのだ。これはモノのデザインより、余程困難なデザインなのかも知れない。

今、僕は、そして研究室のスタッフはサイトとより一段階進化した関係を持ち始めている。我々にとって、僕にとってサイトの動きは社会の趣向そのものになりつつある。

絶版書房2号はいまだに残冊が数冊あるが、昨日チョッと多くを予約して下さった方に、予約数を減らしていただいた。それで残冊は十冊増えて十八冊となった。変だなと思う方がいるかも知れぬので知らせておく。

昨夕、3号「ひろしまハウス」を手にした。良い本であった。これで3冊目、少しづつ、進化しているのを勝手ながら実感している。

印刷屋さんと相談して、本の紙のロールが何とかなりそうなのもあり、少々自信もついて、400 冊を作る事にした。すでに 100 冊程の予約をいただいているので、来週月曜日の公表は恐らく残冊 300 から始まるだろう。DVDは予想を超える注文数が集まっているが、100 点限定にする事にしようと考えている。作るのに負担がかかり過ぎる。でも毎日サイトの動きを見ながら微修正するつもりではある。

コンピューターでの交信は実にデリケートなものだ、本当に。皆さんの息使いのようなもの迄、こちらに届いてくる。ベンヤミンはこれをアウラと言った。


二〇〇九年四月九日
石山修武

絶版書房3号、本日9日夕方印刷仕上がりです。石山研究室のサーバーが不調で三日間ページが動きませんでした。一週間で 100 冊程の予約をいただいています。

印刷屋さんと総冊数の結論がまだ出ていません。

最小 330、最大 400 とする予定です。したがって約束しました本日残冊数公開はできません。100 冊程の予約数だとだけお知らせします。

ドローイングは何を描くか、まだ良い考えが出現していません。

それで発送開始は速くて4月11日、遅くて13日になりそうです。


最近サーバーのトラブルで夜間・休日などサイトにアクセスが出来ない事があります。善処しておりますが、ご不便をおかけしております事をお詫びいたします。

メールは届いておりますので、ご注文は2号3号ともに、いつでもお気軽に。よろしくお願いします。

二〇〇九年四月八日
石山修武

アニミズム周辺紀行2」の主役であった、カンボジア・プノンペン、ウナロム寺院「ひろしまハウス」前の、ナーリさんが突如東京に現れてしまった。こちらの生活のペース、リズムが突然狂い始めるのを感じる。柴又のフーテンの寅さん、妹さくらや、オイちゃんおばちゃん一家の如くである。

約束の時間は完全にズラされるし、会話は通じない。文句言うと、コチラの方がおかしいんじゃございませんか、時間はたっぷりあるんだからとくる。言われてみれば正論ではある。

ただ、ナーリさんに約束をズラされてみて改めて感じたのは、東京には人を待ってボーッとする、出来る、しかも無料でという場所がほとんど見当たらぬという事だ。ソバ屋でビール飲んでも二時間はつぶせないし、又場所を代えても、金を払って何かを飲み食いしなければならない。体にだって良い筈がない。街角にただで座っていられる処が一切ない。休むところは皆有料である。

これから、十日間程はナーリさんの嵐が吹き荒れるであろうから、東京にどっぷり浸った頭の中の時間感覚だけは修正しておかねばならない。

しかし、ナーリさんと同じ高さ、同じ低さの眼線に自分を持ってゆくのは大変だけれど、とても大事なことではないかというのも気が付いている。先日、土手の草むらに寝ころんで眠りながら桜を見て、葉かげから見る風景もいいなあ、と気付いたのだが、ナーリさんだってある種の葉っぱなのだ。土からキチンと生えている、風にそよぐ葉っぱである。ナーリさんの物の見方はそれ位に地についている。つき過ぎて、それがこちらをとまどわせるのである。

「アニミズム周辺紀行2」で書いたように、ナーリさんはプノンペンのウナロム寺院境内で生活しているのが余りにもピッタリなので、そこから一歩足を踏み出した途端に、様々なあつれき、トラブル、ギャップ、クレバス、渡れない河が出現してしまうのだ。

しかし、東京で会う、ナーリさんは、まるで宇宙人だ。ナーリさんも私達をそう見ているのだろうが。


二〇〇九年四月六日
石山修武

毎週、土曜日日曜日は読者の皆さんのヒット数が、ガクリと落ちる。それで土、日はいつも短か目のメモを記すだけが多いのだけれど、四月四日、五日はいささか様相を異にしたのである

何故ならヒット数とか絶版書房3号はどれ程延びているだろうか等は一切関係なく、つまり頭から飛び去って、ひたすら世田谷村の猫の額菜園の畑仕事に没頭したからである。畑仕事の記録をつけ始めたら、読者の事は一切忘れて我ながら自分の楽しみにひたすら没頭してしまったのである。こういうことは実に珍らしい。しかし、読者の皆さんがかくの如き独人浮かれ話しをどう受け止めるのかは、畑仕事の熱中から回復してみると、やっぱりいささか気になるところではある。

しかしながら無我夢中状態というのは危険な時ではあるが、興味深くもある。畑仕事も殆んど、無我夢中状態なのだが、それをメモに記録するのも同様にそんな状態なのである。これはどういう事であろうか。

矢張り、一種の表現意欲なのだろうと思う。畑仕事も、それを記そうとする気持も、デザインしたり、批評を書いたりとほとんど同様な世界に属するようなのである。

私は昨日、私の猫の額菜園にK2菜園とバカバカしい命名をした。これは明らかに読者の皆さんを意識した行いであった。つまり、自分が面白く思った事を皆さんにも共有してもらいたいと急いだのである。下手な落語家のハナシみたいなものか。K2というのはヒマラヤの高峰の名前である。世界一の高峰は旧マウント・エベレスト、現チョモランマである。私はこの山は高さは世界最高なのであろうが、大した関心は持っていない。

K2はうろ覚えではあるが世界第2の高さの山である。そして登るに最も危険な山岳であるとされている。

私はこの山に登れない。が。見た事はある様な、ない様な、宙ぶらりんな状態なのである。

インナーヒマラヤの旅は高度だけでなく、その旅の気持も、まさに夢見心地なモノなのであった。

高度四千メーター程の高地を、天と地の境界を歩く。歩くというより浮遊する。足許には深く、大カリガンダキ渓谷を望み、向かいには八千メーター級の大山岳が数座視界いっぱいに広がる。その内の一つがダウラギリでありK2であった。背中には越えてきた六千メーターのトロン峠、そしてアンナプルナ連峰の峰々。恐らくは世界最大級の眺望と共にある巨大な風景の中の旅である。

確かにダウラギリもK2も見た筈である。トレッキング・ガイドがそう指さして教えてくれたのも憶えている。しかし、どうしても山容を思い出せない。余りにも大き過ぎて姿形が無かったからだ。

インナーヒマラヤの山岳の巨大さは、その内ぶところに入ってみなければ理解できぬ。まさに超越性そのものがドデンとそこにモノとして在るという感じであった。

正確な数は知らぬが、K2の登頂者の数は、はるかに宇宙飛行士達の数よりも少ないだろう。それ程に登るに困難な山岳なのだ。ダウラギリやK2をカリガンダキ峡谷越しに見て歩いた数日は、本当に神らしきモノ、あるいは神そのものを眼の当たりにしながら歩いた数日であった。

盆栽の如きK2を私の菜園に作り、その頂上に行者ニンニクを植えた。そんな遊びをしながら、頭の中には、あの巨大な山岳の姿が浮かび上がってきていたのである。私はK2の模型を作っていたのだな。冗談で始めてみた事だけれど、その冗談が、まさにリアルなイメージを出現させてもくれたのだ。

チョモランマはその山容を眺めるにエベレストベースキャンプからのモノが良く知られている。ベースキャンプの高さは五千メーターを超えている筈だ。だから山の高さは実質四千メーター弱である。そのデカさは富士山等とは比べようも無いものだが、それ位のモノだ。K2やダウラギリはカリガンダキ峡谷の底ごしに眺める。カリガンダキ河は黒い河の意味でインダス河の上流の河である。その峡谷の標高を二千メーターとして、山の頂までは七千メーター近くある。この高さ大きさを眼の当たりにするのだ。それだからチョモランマの印象とは桁外れなのである。山岳の中の山岳と呼びたい。山岳の姿形には巨大な物語り、すなわちアニミズムが宿っている。宿っていると想うのは人間の側であるが、そう想わせるのは山そのモノの力である。


二〇〇九年四月三日

木本一之様

おつかれさまでした。山に戻りホッとしている事でしょう。鬼子母神像は見事なものでした。GK代表の栄久庵憲司さんにお見せするつもりです。栄久庵さんは解ってくれると思います。

又、木本さんと私のデザイン決定迄のプロセスはアニミズム紀行7で、まとめる予定でいます。資料その他保管していただければ幸いです。

突然ですが、猪苗代湖「時の谷」計画の中心に予定している「時間の倉庫」あるいは「北向き倉庫」の風抜き筒の頂にとりつける、北極星を指す金物細工のデザインにかかりたいので、担当の渡辺君とのFAX他で交信して下さい。

又、私のサイトの「制作ノート」(新)を時々、のぞいて下さい。色々と考えを巡らせ始めておりますので。

今年の八月末には風抜き塔の頂に、つらぬかせたいと考えています。

よろしくお願いいたします。

三月三十一日 石山修武


二〇〇九年四月二日
石山修武

昨日、四月一日はとても面白かった。公開しているように絶版書房1号は、恐らく皆さんの御祝儀気分の応援もあって、二百冊をほぼ一ヶ月少々で売り切りました。印刷屋さんへの支払いも済ませました。正直なところ、本の仕上がりが薄かった、厚みがです内容ではなくって、ので、それで値段がやっぱり高かったかなと不安でもありました。それで全冊に、予定していた通りネパールのキルティプールの丘の計画のイメージ図を墨で描き込んだのです。二百点のドローイングは仲々きついものでしたが、手を動かしている時はそれなりに楽しいものでした。その感じがお届けできたなら、少し計りの喜びでもあります。マ、あのドローイングに免じて値段の高さは水に流して下さい。

で、2号です。四月一日現在手許にまだ十六冊残っている。2号は1号の厚み不足、重量不足を反省して厚みを少し増やしてみました。お陰で書く量も増えたのですが。ドローイングも1号とはスタイルを変えて抽象的なモノを具象的に、つまり各種の筆で描き込みました。見開き2ページに二点、つまり4ページに描きました。2号は部数を 20 冊増やして二二〇冊作りましたので、昨日時点で、ほぼ二百冊弱、すなわち四百点のドローイングを描いたのです。

「俺って何者なのか」一人言をつぶやくでもなく、しかし実に不思議な不安感がつきまとい続けました。

「建築家なのか、芸術家なのか、趣味人なのか多彩な生活者なのか、ヒマの人なのか、ダメの人であるか」

どうしても俗人は一つの枠の中に棲み込みたいと思うものですから。

不安ですから、スタッフに尋ねました。彼等も皆、石山さんどうしちゃったんだろう絵描きでもないのに変な習字みたいなモノ描き始めちゃってと思っている、そんな空気は感じ取っていたからです。

「ヘエ」「ホー」「ハーッ」の反応しかありませんでした。「何、描いているんですか。」の質問さえありません。拍子抜けして二度と、「ドーダ」と尋ねる事はしませんでしたし、今も、もうしません。もう六百点やっちゃいましたから。

種明かしするならば、少しだけですけど、2号のドローイングを描き続けて、フッと気付いたのですが、コレはイキケで視たインディアンの山の絵に触発されているなという事です。チリのイキケです。二、三年前の世田谷村日記に出ています。又、チリ紀行をクリックして頂いてもよい。

砂漠の中の山に描かれた不思議な形の群れ。インディアンが宇宙との交信にも似た表現欲、つまり星へのアニミズムですが、それにつき動かされて作り出した巨きな絵の数々の記憶がドローイングに、にじみ出ているようです。

それが解っただけで、私はやって良かったな。俺はただのデタラメ、分裂気質の人間ではない。表現する為に生活してるんだ、と思う事が出来るのでした。皆さんだってあるでしょう、俺って何の為にここに居るんだろうって、不安になる時が。

つまり、何かを描いているようだ、それが何者かと解る時位嬉しい事はないのですね、私の場合は。デタラメ、無意識の表現はあり得ないという事です。

何をやっても、やらなくっても、人それぞれに皆、それぞれなりの深い根拠があるって事です。

「新制作ノート」の始まりにした、「それぞれのヴィジョン・パビリオン計画」のよりどころでもあります。

それで冒頭に戻ります。四月一日は面白かったという下りに。

十六冊の残りがあるのに、エイ、やっちゃえと第3号「ひろしま・レッドクメール・備忘録として」のお知らせを出してしまいました。サイトに。

十六冊の残は恐らく、仲々消えないだろうの議論も当然あったんですが。二つを共に走らせようと決めたのです。

でもネットに3号の知らせを ON した瞬間に、あっという間です、数人の方から申し込みのメールが届きました。これ迄で最速です。担当者も、イヤー速いですねとビックリしてました。その速さが面白かった。

しかし、十六の残冊の公開部分は我ながら興味津々です。皆さんの関心はすでに3号に移ってますからね。キッとピターッと十六で止まりますよ。そこを御注目願いたい。ネット時代とはそういうモノです。速さの中にアニミズムが在るのです。


二〇〇九年三月三十日

ベイシー 菅原正二様

昨日早朝東北猪苗代湖の「時の谷」の現場へ行こうと家を出るやさきに、朝日新聞連載「物には限度、風呂には温度」第 30 話「ナウザ・タイム」がFAXで入りました。

まさか、この時間にベイシーに人が居る筈もない、といぶかしみ一読後念の為にと思いベイシーに電話いたしたところ、やはり、誰も電話には出ませんでした。

とすると、このFAXは一体誰がベイシーから送り出したのでしょう。まさか、第 30 話に書かれてあった阿佐田哲也(色川武大)のダメの人であったのか。

私は彼のジャケットがベイシーの闇にきちんとコートハンガーにかかっていたのを視た記憶があるので、これはやはり空気、気配になった阿佐田さんが空気のままにダイヤルを廻したのではないかと思いました。

「ダメの人」はプッシュボタンは似合わないから、やはりダイヤルを廻すのですな。

そんな事もあり昨日来、沢山のアイディア・イメージが襲来してくれたのであります。

まさか大兄、本当の空気になっちまったのではありますまいね。FAX一枚お送り下されば安心しますので、元気であっても不元気でもそうして下され。まさか徹夜で、音をいじっていたのかとも思われますが。

三月二十九日 十時 石山修武

石山さん 3/29 ベイシー店主 菅原正二

話したいことが山ほどあるんですが・・・。全部はしょります。

昨日はポンタのライブがありました。早起きしたので一度ベイシーに出社、「朝日」のコピーを石山にFAXしたのち家に戻り、メシを喰ってからまた出直して来たのです。”神秘性”というのはタネを明かすとつまんないことになりますね。僕の考える「音」だって、もしかすると単なる「幻想」にすぎないのかもしれません。私も「ダメの人」のはしくれで生涯を終えることでしょう。そう願います。

ゆうべのライブは最低でした。

鈴木京香(知ってます?)という女優が遊びに来てくれましたんで二人でシャンパンがぶ飲みしてました。今日はコルトレーンを連発してゆうべの汚れた空気を浄化しているところです。


二〇〇九年三月十六日
石山修武

何故二〇〇部限定なのか

絶版書房の出版物は二〇〇部限定から始めました。第二号は二二〇部です。この数字は私の手描きドローイングの生産能力に由縁してます。

何しろ、一点一点異なるドローイングを繰り返し描かねばなりません。やってみて、二五〇冊五〇〇点が私には限界なのを知りました。

手描きは五〇〇点が限界です。これ以上やると、何の喜びも楽しみも失くなりそうです。これ以上やると、ドローイングが辛い労働になってしまいます。

楽しく描いたものは、本を手に取ってくれた人にも、その感覚がきっと通じると考えました。又、本と切りはなして、独立した紙片に描いたら部屋に飾れるのに、の御意見も寄せられていますが、それはチョッと違うのです。

それでは本と、字と切り離れた絵になってしまう。私のはあくまで、本の、ページに書きつけたメモのようなモノなのです。10 年も経ったら、本のシミみたいになるでしょうが、それで良いと思っています。

本と描いたものが不即不離に合体している状態を考えております。


二〇〇九年三月十二日
石山修武

オークションは2,3号はやりません、と再び。

もうドローイングを特別にするスペース(ページ)も無いし、こちらの体力もありません。

2号の二百二十冊で、筆をみるのもイヤになりそうです。又、新コーナー、表紙コラムに書いたように電線のグルグルが象形文字に視えてくる異常に見舞われる始末でありますので、それでオークション用のドローイングは休みます。 すみません。

ドローイングは勿論続けます。


二〇〇九年三月十一日

ベイシー店主

菅原正二様

ベイシーの闇の中でレコードの廻転に針が走る程の距離を旅しているのだろうと想います。しかしその闇の中で、ほとんど無限であるでしょう音の旅を続けている、その状態、空間はまさに想像を絶するものであります。レコードを廻すたびにそれこそ何処にでも旅する事ができるのですから。今日は私は新聞受けに新聞を取りに出た以外は一歩も家を出ませんでした。ウチの新聞受けは外に独立していて、雨の日にはぬれて取りに出ます。しかし、今日は2点銅版画を彫りました。鉄筆や手製の道具で銅板をカリカリと彫ったのであります。この手応えは、レコード上のレコード針になったようなものなんでしょうかね。彫っているとかすかな音が出るんですね。その音から何かを感得する迄にはなってませんが、ことによると面白い事であるやも知れません。色んな形らしきが銅版上に生まれてくるんですが、それが何なのか良く解らないんです。この解らなさ、不可解さは恐らく、レコードの音を確かめている貴兄の感じに近いのかとも思うのですが、私のはまだ数年ですから。とても、とてもなんであります。

今日は、しばらく手をつけずに放っておいた銅板に手を入れて彫りました。何ヶ月も手をつけていなかったので前に何を考えて彫っていたのかも知れず、それがいささか新鮮でした。ベイシーの何万枚のレコードも、音を一度も発しないママに化石化するのも、恐らくはあるでしょう。沈黙のレコードたちに関心があります。彼等彼女等は何を想っているのでしょうかね。

三月八日

絶版書房店主 石山修武


二〇〇九年三月十日

ベイシー店主

菅原正二様

一ノ関のあさひ鮨は大丈夫ですか。ウチの近くにもそのあさひ鮨の支店がありますが、あんまり食べた事がありません。寿司を食べたい時には歩いて十分程のところに、ネタ良し値段良しの店がありそこに出掛けます。先程TV視ていたら、今は回転寿司が世界的ブームらしいです。ロッド・スチュアートの音楽プロデュースしていた人物が眼をつけて YO-SUSHI という巨大チェーン店を繰り拡げているようで、日本の元気寿司との世界での対決なんだそうです。食材集めに苦労しているらしく、ザリガニを大量飼育しているらしい、中国で。恐らく五年後位に、もっと早くかな、あさひ鮨はどうなるのかなと思わせます。

一ノ関くらい町が錆つきますと、却って競争から取残されて良いのかもしれませんが。貴兄は回転寿司というのを食した事ありますか。私は何年も前に初歩的な奴を一度試した切りですが、今は相当に進化しているらしいですぞ。

絶版書房店主 石山修武

三月八日

絶版店主

石山さん

YO-SUSHI のそのTV番組は私も観ました。ザリガニは元々は食用ですから、喰っていいと思います。何でも中国のザリガニ養殖所の面積たるや東京都ぐらいの大きさにまで拡大され、尚進行中とか。

で、一関の「あさひ鮨」はそこそこにやっていますが、古川、仙台駅、東京と手を広げたので大変は大変だろうと察しはつきます。過日、気仙沼の本店に行きましたら「仙台駅寿司ロードは快調」とオヤジさんいってました。回転寿司は本物の寿司と思わず「ファミレス」の寿司バージョンと思えば別に文句をつける筋合いでもありますまい。それとタラフク喰っても高級店の一握りという値段ですから、高級店はごたく並べる前に妥当な値段設定にしないといかんと思います。いくら旨くても高すぎだと思います。で、私は回転寿司に行きますと「ムシエビ」とか「イカ」とか「つぶ貝」とか、いわゆる安ネタをたらふく喰ってサッと帰って来ます。夜中に他に行くとこないんで。一関に今度「スシゾー」という「ムシエビ」のいいのが常時あるのを発見。そこでそういう喰い方をたまに(まだ三回しか行ってませんけど)。店によってはシャリに甘ったるい味付けをしているところがあり、これは帰り途に後悔いたします。口のまわりがベトベトするんです。もちろんネタにも殺菌とかいろいろ細工を施してありますから信用出来ません。でも六人家族などを見かけると(当然だよな)と思います。店にもよりますね。それとタイミング。たまたまマグロ一本さばいているところに行ったことありますが、これはもうけもんでした。

その時に限ってマグロだけたらふく喰ってたったの二千円ほどでした。この問題は「イブ・サンローラン」と「ユニクロ」みたいな主観にゆだねられたモンダイで、どうぞご勝手に。ということだろうと。今の若モンは「キャデラック」にはみむきもしないで(それでいいんですが)スズキの「ワゴンR」という軽自動車があこがれの的と聞きます。それもそれでいいと思います。

移り変わるのが世の常でしょうが、ここでモンダイなのは当の「ニンゲン」までそのレベルに下がっていいもんかということでしょうな。

下がりに下がっているのを毎日眺めていますからネ。

私は、腹減ったら何んでも喰いますし、つまり「原始人」ですからして・・・あんまりとやかく言う気はないです。

今は感動のない便利な時代。次はどんな時代になるんでしょうかね。

3/8 ベイシー店主 菅原正二

絶版書房便り

第2回配本、第3回配本に関して。

オークションはやりません。

各冊子に2点以上のドローイングを描き加えるスペースがありませんので、特別なヴァージョンを作る事が不可能です。

石山修武


二〇〇九年三月九日

ベイシー店主

菅原正二様

うちの猫は、名を「白足袋」と言います。保健所で焼却される前日にもらい受けてきました。おたくのチャーリーがどうであったか文面だけでは知る由もありませんが、この白足袋は全く飼い主に懐きません。前に居たニコライという白猫は氏も素性もしっかりしていましたが、アレは気味が悪い位に良くなじんだ。生まれて初めて動物を、良き者であるか、と思いました。そいつが三軒先の植込みの下で死んでしまい、その空白を埋める為に、この白足袋が来たわけですが、まさに原始的な、しかも野良猫のDNAがあからさまで、メシ喰う時だけです、近づいてくるのは、本当に。

猫は犬とは正反対の動物らしいのですが、チャーリーは、それは犬と猫との中間的存在であったと思われます。惜しい友を亡くしましたな。

私は白足袋にそんなに情愛をかけておりませんので、ある日突然姿が視えなくなっても、半日探して、それで終わるでしょう。

三月八日

絶版書房店主 石山修武

絶版書房店主

石山さん

ドーブツには生まれながらに、という個体差がありまして、ニンゲンと同じだと思いますね。「ベイシー」かいわいには昔「タラ」という野良猫がいて仕切ってましたが堂々たる人格者の風情がありました。「タラ」が死んだあと一時黒猫がウロついておりましたが、いつしか姿を消し、その後このかいわいは野良犬に見放されました。夏祭りの時の「テキ屋」にもこの町はとっくに見放されておりますが、猫が来なくなったらオシマイです。女も来なくなりました。これはれっきとした科学現象であると思ってます。一方、自宅ふきんには意地クソ悪い猫がいて、隣りの意地悪おばさんにはなついているんですがウチとは相性悪く、コソコソやって来てはクソ・ションベンをし、BMWとキャデラックの上に足跡ベタベタつけて逃げ帰ってます。昔の僕だったらテッポーぶっ放してます。

このように、なつく、なつかないはお互いの相性によるもので、どっちかが死ぬまで決着つきません。ヨルダン河西岸ガザ地区の人々は永久にやってなさいというしかありません。

連日全国から爺ジィばっか押し寄せてきてヤケクソになってます。こいつら一体どーゆー人生歩んで来たのか?などと自分のことは棚に上げて思います。そいつらがまたケータイなんぞいじっている様は“猿”以下の風景であります。

3/8 ベイシー店主 菅原正二


二〇〇九年三月六日

ベイシー店主

菅原正二様

先程は失礼いたしました。無言のやり取りを続けていますと、気が弱いもので、この人本当に生モノなのだろうか、俺はあの世の人と交信しているんじゃないだろうかの不安というか、変な世界に入り込んでしまいます。それで生の声で生の声を聴こうと思いました。何とか生モノで生きている様でホッとした様な残念なような、でした。

絶版書房の配本を2号からベイシーに置いて下さるとの事、光栄です。

実はお願いしたのには理由がありまして、2号つまり「アニミズム周辺紀行2」は我ながら、出来が良いのです。貴兄はコンピューターを一切御使用にならぬ種族なのは承知しておりますので、中身を少し紹介しますと主人公はカンボジア、プノンペン・ウナロム寺院境内、ひろしまハウスの跳ぶ三輪車という財団を設立して、カンボジアで、地雷で足をフッ飛ばされた人間達の為に手こぎ三輪車を作り続けている人物です。

ただただ面白い、貴兄とも通ずる人物で、本当にゾッコン好きで、モノ作るのが、それで日本から中古の自転車送らせて、それをブッ壊して、解体し、それで三輪車を、つまり、二輪車を三輪車に作り直している人間なのです。マ、この人間も、貴兄同様、私はここ十数年じっくり視てきましたが、本物ですな。外見のフーテンの寅に似合わず、しかし、本物の高貴さの所有者です。

その人物で一冊まとめました。私の自信作です。それ故ベイシーに置いてくれと頼めるのです。いずれ、近い内に、私はカンボジアで、つまりプノンペンのひろしまハウスで坂田明のライブをやろうと企画(バカですね私も)しています。その時は出来れば、貴兄にライブを録音していただき、坂田の最高の音の記録にしたいと考えておるのです。ひろしまハウスは音が良いのです。無茶苦茶に。これは実現させたい。実現させて、次の段階に進みたいと、考えております。

坂田明は広島出身ですし、広島の連中も納得するでしょう。プノンペンでやった後はアンコールワットの遺跡でライブを考えております。

突然ですが、いかかでしょうか。

三月五日

絶版書房店主 石山修武

石山さん

その話はこのあいだ石山さん主演のテレビで拝見しました。非常に面白く、いい番組でした。プノンペンでの石山さんの風体も絵になっておりました。風景になるニンゲンがいっぱい登場しておりましたね・・・。

偉い人っているもんです。

プノンペンとアンコールワットでの坂田明のライヴはいいプランであると思います。

彼は今日あたりヨーロッパ・ツアーに出掛けたはずです。ハンブルグ - ロンドン等で一発ぶちかまして来るもよう。ヨーロッパ人を必ずや圧倒すると信じます。

6/24(水)はベイシーでやることになってます。

「第2号」楽しみに待ってます。

3/5 ベイシー 菅原正二


二〇〇九年三月五日

読者の皆さんへ

絶版書房店主 石山修武

「アニミズム紀行2 空跳ぶ三輪車・アポロ十三号」の主人公、プノンペン・ウナロム寺院境内のナーリさんと連絡した。「早く本送って下さいよ。今、隣りの建物をテップボーン大僧正が壊して何か作るらしいんで、毎日のように、ここに来てるんで、酒も飲めません。でも元気にやってます。五〇冊くらい下さいよ」と言う。「いや駄目だよ、他の人が迷惑する。本当に読めなくなるわけだから」と答える。

「金払いますよ」

「当たり前だ、アンタにはプレミアム付で売りたい位だ」

と押し問答で、あんまり強く言うので、三〇冊は売ってあげようと思っていたのだが、二〇冊にしてしまった。「ヨコセ」と言う人には渡したくないのである。

第一回で配本した方々の大方が第二回の配本に対して予約して下さっているが、店主としては少しづつ新しい読者だって拡げていきたいのが、本音でもある。

恐らく、今のままのペースでは、三月末には在庫が〇になるだろうから、出来るだけ早目に申し込んで下さい。

又、東北地方の皆さんには、一ノ関 Jazz Spot ベイシーの菅原正二に頼んで、店頭に、と言っても真暗闇の内だが、そこにも置いてもらうつもりなので、あと一週間程したら店に出掛けてみて下さい。

これで、絶版書房「アニミズム周辺紀行」シリーズは東京 GA BOOKSHOP、一ノ関ベイシーにて実物を見る事が出来ます。勿論、手描きドローイング入りのモノです。


二〇〇九年三月三日

「絶版書房」店主

石山さん

つまりですネ、このクラスのスピーカーシステムを弱冠 28 才だか 30 才だかの且つての自分が作ってしまったところに”謎”があります。それから 35 年だか、40 年目になりますが・・・(あいつは天才だった・・・)と今の自分が且つての自分のやったことを想うわけです。

どうしてあんなことをやれたのか今は不思議に思います。で、面倒な仕組みになっております故、一定を保つことは物理的にも心霊的にも無理なわけです。何年に一度はメンテナンスというかゴハサンにして仕切り直しをしないといけません。その時、また”天才”になれるか?というとそうは問屋が卸しません。で、日常を無視も出来ないカンキョーの中で集中的に何ヶ月かストイックな禁欲生活を(こっそりと)行ないます。その間に僕に会った人は”幻”に会ったと同じ。よそ事を考えてるわけでして。そして雑巾しぼるようにしぼり上げ、最後に「タラッ」と一滴こぼれるまでやります。肉体的にも相当のダメージを受けます。当然。

それで質問の答えなんですが、何が何だか分かったような分からないようなキチガイ状態に当然陥ります。

「凄い!!」というような音を何度も出しますが、それはどうせいっときの錯覚なのでありますね。で、さきほど申したようなヘロヘロのところまで辿り着いた頃に意識的な、というは下品な作為性から逃れ「お告げ」が舞い降ります。ゆうべがそうでした。ここからが問題なのです。「お告げ」で全てが解決するほどこの道は甘くないのであります。それはごまかしのきかない「物理現象」が「芸術」してるからなんであります。

何度も何度もこれを繰り返しておるわけですから道筋は判ってるんです。

このあと、やがて正確無比な正気が物をいいます。ここから先は完全に意志で正確に行動しなくてはなりません。

多分、それが今夜だと予感します。(あと一年)と予感した時キケンであります。

バカなことをやってるわけであります。

客はそんなこともちろん何にも知らずケータイなどいじってます。

一切を許すことがコツでありますよ。

3/1 ベイシー店主 菅原正二


二〇〇九年三月二日

「絶版書房」店主

石山さん

ゆうべというゆうべは、人間ここまで謙虚になれるんか、というほど謙虚極まりない心境に達しましたですね。

もうダメか、俺の正体もインチキだったか、と、まあそこまでズンドコ節でしたな。

事の発端はホレ、正月からやっていた「音」との禅問答です。一ヶ月が経ぎ。二ヶ月がゆうべで経ぎちゃったんですが・・・そもそも禅問答に勝とうとしていた自分が不遜だったのでは?と珍しく反省しだしたのがいけません。反省すると弱気になります。弱気でこのでかいJBLの強力スピーカーに勝てるわけないからであります。反省は時に命とりになります。自信が揺らぐということですから。

で、この二ヶ月間に二度も盛岡の病院に行きました。バテたせいでしょう、体調くずしました。それでも止まじ、ゆうべのことでした。ホトホト疲労した末に中古石油ストーヴの不完全燃焼のガスにアタマがモーロー。

いつもの確固たる自分の意識が突如として「無」になったと思って下さい。

「無」ほどの謙虚はないでしょう。

それでも習性上やめるわけにもいかず・・・深夜になって「?」、意図した覚えのない音が出はじめたではありませんか。つい先日までの攻撃的な音ではなく、気持悪いぐらい優しい音、とでもいいましょうか。

次々にレコードをかけてみますと、エリントンでもベイシーでも、まずサックスセクションがよくハモって素晴しい。じゃ「クラシック」は?と思ってワグナーをかけますとハモりまくり、全く素晴しい!

こういう音ってホントは怪しいと思って、本日アラさがしをしておるところあります。

3/1 ベイシー店主 菅原正二


二〇〇九年二月二十六日

石山さん

「絶版書房・店主」はいいと思います。「ラーメン屋の親父」「古本屋の店主」「中古カメラ店のオヤジ」・・・等々に通じます。「大学教授」ってのも見方によっては面白いんですがネ。

「ジャズ喫茶のマスター」ってのはいけません。ジーパン以外は決してはかないみたいな”形”を死守していて、どうもカンベンです。

安タバコにジッポーのライターときた日にゃ極まれりであります。

そこへ行きますと、「ベイシー店主」は全く正体不明であります。時に背広にネクタイで外出しますし、第一クルマがキャデラックときてます。それでいいのです。「ジャズ喫茶のマスター」なんでクソ喰らえです。

「名刺」出来たら下さい。

2/22 ベイシー店主菅原正二


二〇〇九年二月二十五日

『アニミズム周辺紀行1』落手いたしました。私にとってはまだ「謎」のような「物体」ですが、「2」「3」「4」と、この謎がほどけていくことを、というより謎が謎のママでその密度を増して、周りのモノを引き寄せてそこにひとつの宇宙が生まれることを願っています。

ということはその材料がなければ始まらないということで、問われているのはむしろ購入者の側でしょうか。

暗闇に向って石を投げる(?)ようなこのプロジェクトが、ピックアップされ増幅され大きな共鳴と豊かな反響を呼び起こすモノとなりますように。

2009.2.14 芳賀繁浩


石山さん

2/22 ベイシー菅原正二

何んか薄々そんな感じはしてるんですが、現代のジャズメンを見てますと洋の東西、肌の黒、白、黄を問わずそこんとこの肝心なところが消滅している様子が残念です。カウント・ベイシーとか、昔の凄い人たちは楽器を持つまでもなく、ただ居るだけで存在そのものが「JAZZ」でしたな。

そんな風景を存分に眺めることが出来た僕なんかはまだシアワセもんというべきでしょうかネ。ついこのあいだまで天下のエルヴィン・ジョーンズが毎年ここでウハウハいってたんですからね。あれは”幻”です。僕は”幻”を追ってるだけなのでありますね。まあ全ては”幻”と化しますけど。

二川さんから立派な本を贈って頂きました。まともな感想書けず、まだ礼状書きかねております。


二〇〇九年二月二十四日

石山さん

東北は暗くわびしさこの上なく、これを”売り”とすべきで間違っても「世界遺産」などとたわけたことを願望してはなりませぬ。それに中尊寺の坊主は心が横シマですからカンベンして頂きたい。

「兵どもが夢のあと」放っとくのが一番です。

そうですか。山本夏彦さん自体がモノホンの「ダメの人」でしたか。立派です。今は「ちゃっかりちゃんとした人」と「ダメな人」に二極化され、中間が見当たらないといいましょうか・・・。シッカリ者の「作家」、シッカリ者の「ジャズメン」、八百長の「陶芸家」、訳の分からぬ「政治・経済評論家」、ドッとはき出されてウロチョロする「定年退職組」・・・と、どこを探しても正しい「ダメの人」がおりませぬ。

2/22 ベイシー菅原正二


二〇〇九年二月二十三日

石山さん

ドカ雪が降りましたが、雪かきは基本的にしません。どうせ解けるものを・・・。

山本夏彦さんのいう「ダメの人」の定義ってどんなもんなんですか?

僕なりに考えてあたりを見渡してみたんですが、案外いないんですね。「ダメな人」はいっぱいいるんですが。阿佐田哲也(色川武大)さんあたりが最後に見た「ダメの人」かな?

チャーリー・パーカーとかパド・パウェルとかセロニアス・モンクとか・・・昔の天才ジャズマンは一種「ダメの人」なんですかネ。

でも、モノホンの「ダメの人」って何んも成し遂げちゃいかんのですかね・・・。何んもしない立派な人をいうんですか?そういう人は今や絶滅なんでしょうけど。

2/22 ベイシー菅原正二


絶版書房交信 18 難波和彦氏との討論 はこちら
絶版書房交信 17 難波和彦氏との討論 はこちら
石山修武研究室
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