2011年3.11の大津波による大災害に対面して、わたしのキルティプールの計画は厳しいリアリティーを帯びてきた。
厳しさはわたし自身の、ともすれば拡散的エネルギーの横溢に流されやすい創作群の一つのモデルとして脳内に構築しなければという逼迫した気持からであり、より現実的にはわたしの年令からくる、いささかの追いこまれ感からくるものだ。が、これは誰の身にも起きることなどで、努力するしかない。
前回のノートに記した事で大事だったのは作ろうとしている建築が一つの単体に集約されずに二つの単体で一つのモデルになるのだろうという直観が生じて、これはかなり確定すべく堅固なモノになるであろうと思われる事。
今度のスケッチが示そうとしているのはどうやらその考え方がキルティプールの丘の地形、歴史とどうやら密実な関係を持つに違いない事が自覚され始めている事だろう。アニミズム紀行5にキルティプールの丘のマスタープランは示したが、この丘の特徴は北にヒンドゥ教のシヴァ神殿を中心とするヒンドゥ信仰の民族が居住して、南は仏殿のストゥーパーを中心とする仏教徒たちが居住する。そして、二つの宗教が共生している事という現代の普遍への性格が潜在している事にある。わたしのキルティプールの小建築はそれをもモデルにしている。
さらに言えばXゼミナールで示した緑町の家のモデルへとこの図像的構造は連関している自覚がある。一人の人間が考え抜いてつくろうとするモノが普遍へのベクトルを持つのは当り前の事である。
四月二十四日 石山修武
アニミズム紀行5で書き、アニミズム紀行6で一部小モデル、スケッチを描き込んだキルティプール計画を前進させた。
シンプルなオリジナル案の稚拙さから少しは脱け始めようとしている。立体曼茶羅の直喩から、パラディオの古典的幾何学主義を経て、どうにか少しは満足のゆくモノになり始めている。
できれば、もう少し熟したモノをアニミズム紀行7にてまとめたい。
2011年3月川崎市稲田堤に一つの子供と保育士先生そして子育てにいそしむ沢山な親御さんの為の建築が出来上がります。社会福祉法人厚生館・至誠館さくら乳児院、至誠館なしのはな保育園、川崎市児童家庭支援センターが複合した建築です。
この建築の社会的な意味合いは言うまでもありませんが、我々、石山研究室がそれにも増して留意したのは、一つの小径の創生にあります。
この建築の隣りには同じ厚生館グループの厚生館愛児園がすでに在りました。その増築計画はわたし共の研究室が手掛けました。それはさておき、この建築計画で我々が他の何よりもと言うべきか、建築設計へ投入するエネルギーと同様な位に考え続けたのは、園庭の計画であり、隣りの厚生館愛児園の中にある「ざくろの小径」の延長計画とでも呼ぶべきものでありました。
「ざくろの小径」は厚生館グループの理事長、近藤先生の発案で作られた園庭内の小径です。保育園への親御さんの朝夕の園への送り迎えの一刻、両親と手をつないで歩くしばしの時間がどれ程子供達の気持にとって大事な一刻であるのかを考えつめて、この小径は創作されました。我々はその考えに共感して、建築も大事だけれど、この小径にこめられた様々な想い、そして努力はそれにも増して、現代にはとても重要な事であると確信するに至りました。
それで、新しいお隣りの建築は、お隣りの建築や園庭の手入れのゆき届いた生垣に見合うような園庭、及び生垣の計画が可能なように設計しました。
公道を勝手に設計するわけにはいきません。しかし公道の両側の生垣はデザイン可能なのです。
3月16日からの三日間、この小径の延長工事とも言うべき、新しい建築の植栽計画が実施されます。新しい建築にも勿論、力を注ぎましたが、皆さんに御報告するのは先ず植物についてだと考えました。建築はその後でよいと思ったのです。それで、しばしこの径づくりに関して報告を始め、そして続けたい、と考えます。
実ワ、わたしの住まいである世田谷村の生垣も我ながら立派なモノであります。周囲には梅林が残り、疲れて帰る径々、深夜、そんな植物がかもし出す、葉音、花の匂い、その姿形の並木径には随分と生きるエネルギーをもらった実感もあります。それが、今は世田谷村の隣りは駐車場となり、深夜にもそのサイン表示が明るく輝やいている事態になり、わたしのエネルギーも少し損なわれたような気もするのです。
この稲田堤の建築の植栽、及び草花の生育計画は意識的に行いました。大事な事だと考えますので、順次報告したいと考えます。様々な場所に意識的にデザインした生垣を延長したいとも思います。
2011年3月9日 石山修武
2月28日付の日記にも記したが、川崎市地域子育て支援センター、さくら乳児院、なしのはな保育園の園庭デザインには殊更な想いがある。これからの建築に求められるのは内外の一体化である。コンクリートやガラスの箱の設置により建築内外を律然と仕切る方法はエネルギー資源的にも限界がある。それがモダニズム建築のスタイルの限界にもなるだろう。建築形態への好み、個人の好みを超えて、ワルター・ベンヤミンの言う散慢な視線を持つ民衆の好みに関する思考は我々に、民衆の建築を創作する(市民と言うより民衆のニュアンスを敢えてとりたいのだが)そんな意志を持つ者にとっては大事なものになるだろう。
消費電力の負荷問題は現実の建築スタイルを変化させている。川崎市稲田堤の建築に於いても児童子育て生活センター及び幼児保育のための建築なのだが、設備として病院クラスの性能が要求されている。その為に高性能の各種電気設備も設置された。しかし、それだけでは創作とは言えない。
バウハウス・ギャラリーでの石山研の展覧会のテーマは「マン・メイド・ネイチャー」である。モダニズム建築のオリジン発生の地で、それを旗印として挙げるのにはある種の覚悟が必要であった。バウハウス・スタイルは明らかにモダニズム・デザインのオリジンであった。イギリスでウィリアム・モリス等によって創始されたアーツ&クラフツ運動はドイツに於いてはドイツ工作連盟の運動へとつながった。ワイマールのバウハウスに於ける初期バウハウスの理念はヴァンデヴェルデ等の、明らかにアーツ&クラフツ運動の総合性を持つものであった。芸術と技術を統合する理念の許にあったのだ。バウハウスのオリジンにはそれ故少なからぬクラフツマン、アーティストが参加していた。ワルター・グロピウスはそれ等の言ってみれば守旧派のイッテン等の理念と著しく対立して、厳しい対立が発生し、グロピウスはある種のデザイン革命に成功しアーツ&クラフツの動きは力を失ったのである。石山研の「マン・メイド・ネイチャー」はそれ故に初期バウハウスの創造精神の上にモノを作りたいと考えるからである。この考えは一見復古運動に見られやすい。しかし現今のグローバリゼーションの均質化への流れを観るならば、創作者の拠って立つべきは、明確であろう。
哲学の役割はいかに生きるべきかを教えるものではなく、皆が一様に流されてゆく傾向に少しでもブレーキをかけられるか、かけられないかのネガティブな色合いが強いものだとは哲学者・木田元の言であるが、名言である。創作の役割も、今やそんな意味合いが極めて強いとわたしは確信するに至った。
研究室の最新作である稲田堤の建築は建築内・外の一体化の試みと共に、そんな事も意識の内にあった。
至誠会さくら乳児院なしのはな保育園、2階のテラス部分で以前から考えていたアイディアをささやかに実行した。このアイディアは実ワ、アニミズム紀行5『キルティプールの丘にわれ生きむ』のわたしの終の棲家を言葉で設計した内に描いた事でもある。
ネパール・キルティプールの丘のわたしの終の棲家の壁。それはキルティプール産のレンガで積み上げるものだ。黒灰色に薄紅が入った色感である。そして積み上げるレンガの壁の目地、レンガとレンガの間の5mmから10mm、15mmには細密な朱紅、ハスの花の色彩の彩色を施すのである。レンガ積みの壁は人体の血管の如くに細密な網の目状の色彩のネットが組み込まれる事になる。この壁は必ず実現したいと考えていた。
稲田堤の幼児のための複合建築には非標準化とも呼ぶべきカンボジア産、ベトナム産のレンガ、タイルを使用した。勿論意図的にである。300mm角の朱色タイルの寸法は大方15mm程度のバラつきがあり、90度の曲(かね)を持たずに歪んだものさえある。特にベトナム産のタイルはカンボジア、プノンペンの「ひろしまハウス」の現場で使用したものよりも、更に精度の無いモノが送り込まれてきた。予想はしていたが、その粋を超えていた。
2階のテラス、特に長い外部廊下状の部分では、このバラつきは狙い通りのバラつき、つまり多様で自由な表現の可能性と言うには少々過ぎたるモノがあった。それで現場監督、職人と相談して2つの工夫を施す事にした。キルティプールの棲家で考えた事が入っている。
1. 目地が大きく暴れている部分にベトナム産タイルと同系統の色彩目地を施す。
2. 細長い距離のある外部テラス部分の中央に一本、これは目地巾をキチンと15mmに統一させた軸を通す。
このデザインにより、タイル寸法のバラつきには一つの骨組みらしきが与えられ、バラつきがよりバラついた自由さの獲得として表現されるだろう。
ここに工夫したデザインの細部は、実にこの建築全体のデザインに迄浸透しているのである。建築の表情を多彩に、多様にデザインする工夫をこらした。それと同時にその多彩、多様のための骨組みも内に表現した。
アニミズム紀行5で描いた壁のデザインは、至誠会の建築では床のタイル目地に一部が具体化され、建築全体にも拡張されたのである。
「さくら乳児院なしのはな保育園」の当初の計画の目的は、隣りの厚生館愛児園との間の道路を意識しようという事だった。厚生館愛児園の生垣は素晴しい。街には珍しい小樹木が四季折々に花を咲かせ、葉を楽しませてくれる。園内にはざくろの小径と名付けられた樹々の生垣で守られた小径もある。朝夕の両親と子供の送り迎えの、手をつないで歩く事の大事さを園が考えたからだ。
それらに触発された。道は公道なので勿論勝手にデザインする事はできない。道路のテクスチャーに参与するのは大変なエネルギーを要する。やらねばいけない事なのだろうが容易ではない。しかし、隣りの愛児園の生垣に合わせて外構のデザインをすすめる事は可能である。それでこの建築計画では外構計画に相応のエネルギーを割いた。塀が必要なのでそのテクスチャーをカンボジアのレンガを主材料にした。そのデザインにも力を注いだ。まだ外構工事は始まったばかりだが、その成否がとても気になるのである。建築家が街並みの景観作りに参与できるのは建築本体は言うまでもないが、むしろ外構工事に大きな可能性がある。
幸い至誠会グループの考えもあり、小さなザクロの外灯も愛児園には設置する事ができ、又この新しい現場にも同様なデザインのものを一つ設置していただくことになっている。新しい建築と厚生館愛児園との間の道がざくろの小路と呼ばれるようになると良いなと考えているので、それなりの努力をしてゆきたい。
わたしの仕事の中では伊豆西海岸・松崎町での景観デザインの数々、そして東北地方気仙沼市での海の道づくりが、この東京近郊での仕事につながる性格を持っていた。その繋がりを先ずは充二分に意識する事が必要であろう。充二分に自覚できぬと先への連鎖は求めようにないからである。
2011年1月10日の銅版画を1点、午前というより早朝と午後にかけて完成させる。
銅板画彫りと言うのは我ながら危険な作業なのである。もしかしたら、これを続けていたら建築家としての生命は危うくなるに違いないと、ヒシヒシと感じながらの仕事になってしまう。
何しろ、誰が考えても、感じても何の一切の社会性らしきは作業自体に一切ひそんでいない。ただただ自分の感じている事、もしかしたらこうしたい、こんなモノ、こんな世界を表現したいという事だけを、一切自分の手と気持だけを頼りに彫るのである。他人の眼は一切考えぬ。
今日彫ったのはモーリス・ルブランの『怪盗ルパン』に登場するような奇厳城もどきの岩山と建築らしきががったいしたモノと、それを覆い尽くす程に空白を埋め尽くさんばかりの鬼ヤンマの群なのである。何の理もあるわけではない。手のおもむくままに彫ったモノである。宮沢賢治の如くに心象スケッチなんて気取ったモノではない。でたらめな、子供の落書きみたいなモノである。万が一、価値らしきがあるとすれば、66才にもなって、子供みたいな落書きを、いささかの時間をかけて銅板に彫っていると言う事だけであろう。
しかし、この2011年JANのサインを入れたモノは、わたしの銅版作品群の中では、初めてやった事の無い事をした。丹念に彫り抜いた岩山状の建築の図象の上に、それとは無関係とも明らかに考えているトンボをオーバーラップして彫り込んだ事である。わたしの何を彫っても抜けられぬクセであった構成的な語呂をあわせてしまうというのを踏みにじった。それを意識的にやり抜いた事にいささかの価値があるようには考える。でもそんな事はわたしだけに価値がある事であって他人には何の価値も無いのである。
ただただこの作業には恐ろしい位の自虐的としか言い様のない自閉的な快楽がある。明らかに反社会的な作業ではない。誰をも害さえ及ばさぬのであるから。つまり、彫っている時間自体が全くの無為の時間だと自覚できてしまう、そんな快楽である。
あらゆる建築物は社会的に有用なものである。何を、どう、どんな形として作っても、それはありとあらゆる形式の中で社会と関係を持たざるを得ない。
それと比べて、特に銅版画を彫るという作業は対極にある。そして、それなりに時間がかかるというのも大事である。この彫りつける作業はわたしの内的風景の記録であり、それでしかない。そして写真や簡単なドローイング作業と異なり、建築設計程ではないけれど、それなりの時間がかかるのである。
手描きのドローイングと異なり、銅版画は複数の印刷が可能である。しかし、わたしは駆け出しの銅版画家であるから、そんなに多くの数の作品が社会に流通するわけもない。だから、複製美術らしきの価値がそれ程にあるとも考えられない。
要するに、これはわたしの極めて個人的としか言い様の無い、わたしの持ち時間を誰かにゆずり渡そうというらしきをやっているのである。
銅板には5匹のオニヤンマが彫り込まれ、それが岩山のような建築物の空を飛んでいる。それだけの世界である。トンボの意味も岩山建築の意味も、わたしには何の意味も無い。ただ、そう彫り込んだ方が面白かろうと考えただけである。そうして、いつも銅板彫りの作業はいつストップするか、これで終りにするかを決断するのがとても難しいのである。余白への恐怖と、埋め尽す、彫り尽くそうとするこれも確実に恐怖なのだけれど、だって、いつ果てる事もなく続ける事も可能なのだから。その二通りの恐怖。チョッと大げさ過ぎれば、二通りのイヤな事の間を揺れ動きながら、これでしまいの時をうかがっているのが面白い。
2011年の春に完成する建築について記しておく。京王稲田堤の「さくら乳児院、なしのはな保育園」はわたしの研究室が設計した建築作品として最も正統的な公共性を所有した建築である。今の時代に最も必要とされている建築でもある。子供は社会の宝である。社会そのものが持続してゆく為に欠かせぬ者である。この建築の運営主体である至誠会理事長K氏からこんな話しを聞いた事がある。そしてその話しはわたしの胸を打った。その感銘こそがこの建築の生命線である。
新しく建設されているこの建築の隣りには厚生館愛児園がある。その園庭に小さな生垣を作るに際しての話しだ。
「子供にとって、朝夕の両親の見送りと出迎えの時間は大変貴重なものなんです。車から降りて、あるいは自転車やバギーから降りて、ほんの数分間ですけれど親と手をつないで歩くんですね。小径から園の門を入って、園の玄関まで20メーターか30メーターのその間、子供は親と手をつなぎます。手をにぎり合うわけですね。この時間が子供たちにとってどれ程の価値があるか、想像してみて下さい」
わたしにも子供がいるが、小さい頃にあんまり手をにぎって、手をつないで歩いた経験が、そう言えば無かった。それで今や、子供達はわたしに全く敬意を払わないどころか、関心すらも示さないのである。
そうか、手を握り合うというのは決定的に大事なんだ、とわたしは教えられた。建築とだって手をにぎり合う、そんな感じを作り出せるかも知れない。それはいささか飛躍し過ぎているので、さておくとする。
親と手をつないで歩く、数十メーターの径を、その姿を想像する、そしてその径をデザインできたら、それはとっても良いデザインになるかも知れない。
幸い新しい園舎と厚生館愛児園の間には細い公道がある。この公道を、子供と親が手をつないで歩く小径としてデザインしてみよう、と考えついた。川崎市の公道であるから路面を勝手にデザインするわけにはいかない。
しかし、両側の生垣や塀らしきをデザインする事は可能だ。K理事長は植生に関心があり、これ迄も厚生館愛児園の生垣を丹念に育て上げてきた。様々な地域のあんまり見た事も無いような珍しい小木の混じる生垣になっている。
わたしは実に植生に弱い。若い頃、建築、建築と視界が狭かったツケが今に及んでいる。樹木や草花の名すら一向に頭に入らぬ体たらくなのである。今更、一夜づけで勉強しても身につかぬことは、ハッキリしている。だからそれはK理事長にお任せすれば良い。
K理事長が作る植物の生垣が生える塀をデザインすれば良いのではないか。園庭にはどうしても塀が、フェンスが必要である。子供たちが外に走り出ない為のフェンスである。公道には自動車という子供にとっては危い物体が走る現実がある。生垣だけでは子供が容易にくぐり抜けてしまうのだ。子供はくぐり抜けたがる天才だからなあ。
で低い塀とフェンスをデザインした。いつもは、こういう外構工事のデザインは後廻しにするのだが、初めからデザインした。恐らくは研究室の歴史では初の事だったのではないか。予算も確保していただいた。
塀は、カンボジア産の穴空きレンガを主材料にした。プノンペンに建てた「ひろしまハウス」で使い、いたく気にいっている材料である。このマテリアルは今の日本では決して手中にできぬ。そして、この感触、レンガの手触り感は子供たちにとって、両親の手の感触と同様なモノを与えるにちがいない、と考えた。
(つづく)
送っていただいたアイデア、軽量化に対しては良いのですが、コストが重量化します。大変な手間がかかりそうです。
又、梁の三角形は、石山研では富士ヶ丘観音堂で鉄板により、試みました。この考えは鉄に向いていると思います。以上の理由で、もう少し、普通の部材使いの姿に近づけて下さい。しかし、このようなアイデアが大工、職人さんから生まれるのは、とても素晴らしい。何かの機会に(もっと特殊なチャンスに)試みて見たいものです。
I君へ、北海道水の神殿のポンプ室の件。
ポンプが主役です。働くポンプのための小屋が良い。質実剛健で、黙して語らぬ、まさに小屋そのものの如くに。
木造の4本柱、柱は125角くらいの形でよい。断熱材は不要ですから、厚い杉板ばり、タテ方向にはる。杉の足場板T.25,15くらいの安価な杉板があればそれで良い。
屋根は工場側に雪が落ちぬように、切妻で。二重の屋根にして一層のみ取り外せるように。渡辺君の指示を受けなさい。
積雪には耐えられるように。
今日中にまとめて、渡辺君にチェックしてもらう事。
ポイントは、質実剛健、簡素でも、神殿側から見ると神社らしくも視えるように。ポンプが神殿だと思えば良い。
※曲った木を使うとか、小ジャレた飾り状デザインは不切不要。基礎はとなりの工場に習えばよい。置石は避けた方が良い。工事がかえって大変になる。
現都市内の児童公園を、より生き生きとした使い方ができるようにする考え。それと、今の社会に必要であろうと考えられる新しい機能をコネクトする計画について。
24日の01ゼミに於いてはNO.5のプロジェクトとして研究室生に伝えたのは、新公園+ex.)動物病院の計画。
これはM2のMに担当させる事にした。本人もそれを積極的に望んだからである。Mにとっても良い選択であると思う。
実に明晰な頭脳(論理的な)の所有者であり、それを言葉で伝える才も充二分に所有する。しかし、その才質がありながら、頭で考えている事を図形にすることが得意ではないのではないかの、不安らしきを自分で持つ人間である。
そのような人間が、動物病院と児童公園の組合わせ計画に取り組むのはとても良い。
何故なら、動物の為の病院を構想するのには、最大限に近い想像力と、飛躍しがちであろう想像力にブレーキをかける理性が同時に必要になるからだ。
Mは恐らく潜在的に所有している想像力を先ず、ブレーキが必要な程に駆け巡らせなければならない。
想像力というのは気まぐれな思い付きの集合ではない。一見つまらぬ知識の、新しい組合わせによって生まれるものである。Mのような頭脳の持主であれば、フリーハンドのスケッチよりは、意識的なコラージュ(編集的姿勢)の方が恐らく、より適している。
先ず、コラージュの技法でスケッチをしてみたらどうか
病院+動物+児童公園のイメージの断片をコラージュしてみる。
次にそれをフリーハンドでなぞる、というような作業をしてみたらどうか。
病院は機能的である必要がある。しかし、動物の、というのは創造者の想像力を刺激せざるを得ない。そして児童公園も又、更にそれを増幅するかも知れない。先ず、その作業をすすめてみたらどうか。
先ずは自分で、0から始めないで、すでにある図形のアッセンブル作業から開始すると、気が楽になります。
Aという人、あるいは歴史が生み出した図形と、Bという図形、おまけにCの図像が組み合わされれば、面白い、子供も喜びそうな図形が生まれるかも知れない。
□
〈 3球4脚の展開について 〉
どんなキッカケでも良いのだけれど、与えられたひとつのアイデアを自在に展開させるのは、実に困難だけれども、面白い作業になると思います。小さな木製の家具のデザインなんて簡単だと考えたら、大間違い。小さくて、単純そうに見えるアイデアこそ、それを核にして展開、拡張するのはむずかしい。でも、むずかしい問題は解くのが面白いのは真理のひとつでもあります。
Kがこの難問に取り組むと手を挙げたのには少しばかり驚いた。恐らく、これは誰も取り組もうとしないだろうと思っていたからです。しかし、これは、捕まってみた方が良いワナなのです。決して短くはない人生ですから、自分からワナにはまってみるのも良いのではないか。
それに、君は確か記憶では佐渡の宮大工の家系でした。の血がフッと頭をもたげたのでしょう。
ちょっとのアドヴァイスを。わたしのアイデアはすでにバリエイションなのかも知れません。もっとシンプルに、1球1脚らしきをイメージしてみたらいかが。
ウーンと遊びなさい。実はそれが一番それぞれの人間の不自由さを知らしめる事なのですが、そのむずかしさに負けずに逃げずに遊びなさい。
「水の家」第一回 2010/7/23 をサイトでのぞいてギョッとする。
全く考えも、それよりも何よりも感じが伝わっていない。
すぐに、これは消して(記録には残して)第二回へ移行しなければならない。
23日11時より研究室打合わせ。
打合わせのメモを取らせる事にした。それを使った方が良いだろう。
水の家
七月二十一日、昨日研究室で母の家の設計について、わたしの考えの概略をスタッフ、院生(M2)に伝えたが、伝えた内容を要約して記録しておく。
1、母の家始末記はあくまでわたしの家の事情なので、公開するのには限界もあるので、もう少し、一般的なネーミングを附したい。
結論「水の家」とする。
2、木曜日、七月二十二日に公開するページは、三球四脚、と富士ケ嶺観音堂も然り、この建築は水の循環が主題であった。
3、エネルギーの循環の一断面を建築を介して表現するのを一つの軸とする。
もう一つの軸は部屋のモビリティーの追求である。
モビリティは目に視えて動くという事だけではなく、バラバラに分解できて何処にでも再現できるという事でもある。この原型は幻庵であった。幻庵を更に小さく、木で考えよ。
又、できるだけ日常用語で表現されたし。
以降、七月二十二日に再ミーティング。
最初の案がまとまって、スタッフに送信する。
エネルギーの循環をテーマとして、造形化する。
又、母の部屋は、家から独立させて制作し、母が使用しなくなったら、わたしの家具としての部屋として再生させる事とする。
1.エネルギー循環
2.モビリティー(部屋の家具化)
を骨組み(計画の価値)とする
7月10日に河野くんが世田谷村に寄る。それ迄に2008年に作成した立体「立ち上るガラン」の切断形を決めなくてはならない。2008年に不満足なまんまに仕上げた立体彫刻だが、大切に世田谷村に保管しておいた。
学生達に保存と再生の課題を課し、いささかではあったが考えるところがあった。
わたし自身のブツも保存再生させようと考えた。幸い「三球四脚」の椅子シリーズも始動したので、その考えも又、2008年に作成した立体と脈絡があるらしきを直観した。アニミズム紀行の旅を続けているのでそれからの思考も浸透してきたのである。
それで、3つのスケッチに辿り着いた。木本さんの承諾も得たので2008年の形を残したママ、台座から切断して、それに木製の一球一脚と2脚を接合させようと思う。
何を作っているのかは知らぬけれど、わたしには大事なモノになるだろう。
木本一之、市根井達志、河野くん、そしてわたしの合作となる。
そんなわけで、わたしの母の家は、誰にでもよくわかる非専門の共通課題を主軸に据えなければならないと考える。川合健二が良く言っていた「素人」からの思考、R・B・フラーの専門領域の壁の固定化の弊害への詩的考え等を思い浮かべている。
持ち運べる部屋を考える事にする。モバイル、モビリティーである。しかし、誰もが考えるように考えなくてはならない。母の家がまだどんな形になるか知れぬが、近々出来て、母がそこに住み込んだとする。それはそれで本当に幸いな事だ。
母は最期の家を息子であるわたしの手になる設計で過し、そして生をまっとうしたいと考えたのだから。
どうやら親より先に死んでしまうという、最大の親不孝は避けられそうだが、何が起きるかわからないから注意したい。
わたしが今暮している世田谷村の二階の西端の部屋。そこに母はすでに父の位牌が納められた仏壇を運び込んでいる。そして、アニミズム紀行1に記したように、母がどうやら一番大事にしていたようであるモノ達はほとんど運び込まれている。
旅の用意はすでに整えたつもりでいるのだろう。
なけなしの金をはたいて買った母の茶ダンス、そして仏壇。そして、わけのわからないどうやら、わたしのお守りらしき三木像。作者も知らず、何処のおみやげモノかも知れぬキッチュとしか呼びようのない三つの、まあこれは神様であろう。それ等が納められている。気分としては棲み込んでいる。
わたし自身にもどうやらそんな気分は乗り移っているようで、わたしの三階の屋根裏部屋の仕事コーナーには、南面させて小振りの若い釈尊の座像が居る。
これはチベット仏教の大昭寺(ジョカン・テンプル)から来たものだ。ヤング・シャキャ・ムニと呼ばれる座像である。わたしには大系を持つ信仰心、つまりは宗教心はほとんど形成されるに至ってはいないが、どうやら、母に似て、母にはまだまだ及びもつかぬけれど、それらしきの断片はある。
ヤング・シャキャ・ムニ座像の前には、何となく、シャカだけではどうもという気持があったのだろう、カンボジアで求めた石の魚の現代彫刻と、ネパールのボドナッハ・テンプル(目玉寺)で買った、黒いアンモナイトの化石がいっしょくたに置かれて、わたしだけには得も言えぬ原始仏教の光景が作られている。
このアンモナイトの化石やカンボジアの石の魚はわたしの銅版画のはじまりには度々姿を見せていたお馴染み達である。
わたしの中にもまだかすかに原始的神性へのおそれ、あるいは憧憬というらしきがあるようで、すなわち、この光景はわたしのブリコラージュの奥深い核らしきもののようだ。
知らずに作った光景ではあるが、これは明らかに母の部屋の三デクの木像の血を受け継いでいるのが、よくわかるのである。
この辺りの件はいずれアニミズム紀行でキチンと書けるようになりたい。
さて、それで、母の家、むしろ母の部屋はポータブルな父母の仏壇みたいにしてみたいと考えているのである。
家全体を仏壇みたいに考えたら、これ又、畏友六角鬼丈の伝家の宝塔になっちゃうからイヤだ。それは避けたい。それだけの下世話な考えからだけではなく、家全体をそう考えてしまうのは、余りにも現代社会、ひいては資本主義社会をなめ過ぎているとしか思えない。
家は家として、現実社会とコネクトする形を持たせたい。常識、俗考を信頼したいものだ。でも一室は、母の部屋は大きな記憶の収蔵庫すなわち仏壇らしきに、考え方だけはしてみたい。
母の記憶の中の父、そして母の父・母さらにはその先祖たち、兄弟姉妹の記憶、すなわち歴史である、その収蔵庫として考える。
具体的にはこの部屋は本当に持ち運び出来るようにする。モデルはすでにある武四郎の一畳敷という先行例がある。あれは奇妙過ぎて、数奇の極み迄登りつめてしまったものだが、わたしのは、もう少し、というよりもずいぶんとだらしなくて良い。ルーズでブカブカで一向に構わない。
でも、本当に持ち運び出来るように。母がいなくなったら、それは母の家から取り外して、わたしの手近に置くだろうし、わたしがいなくなったら、次の何者かが持ち運んで手近に置いてくれれば宜しい。
世田谷村の母の部屋、他二階の三室はすべて釘無し、ネジ無しで止めてある木の箱になっている。この考えを更にすすめてゆけばよろしい。その組み立ての一部はわたしがやっても良いし、それに固執するわけではないけれど、それが可能な設計にはしたい。
そうすれば、幻庵→開拓者の家→世田谷村→母の家はほぼ完全に環を閉じる事も出来るだろう。そして、アイデアの抽出としての情報の一断片として社会に機能する事も出来るだろう。
抽象的思考に陥っているが、分かりやすく言えば母の記憶・先祖の記憶は取り外せるようにして、持ち歩けるようにした方が現代には適しているという事。
だって、わたしの母の部屋の性格が際立てば際立つ程に、それは他人には特別なものになり過ぎて、それ故に転売できなくなる。部屋は商品としたくないけれど、家は商品にならなければ、それは悲劇となる。少なくとも喜劇にはならない。
R・ヴェンチューリの母の家、毛綱モン太反住器、という近代建築史の名作とも言うべき母の家は、これこそ反語的な意味に於いて、反住器は私小説としての建築であり、ヴェンチューリのは歴史的考察によってのみ社会と連結しているきわどさを所有していた。わかり易く言えば、その住宅は、住民である母の人生、モノの考え方とは一切関係が無かった。市民の気持ちとも無関係であった。建築の歴史とだけの極細の関係性の中に価値があった。
ヴェンチューリの母の家はその形式の大衆性への抽象的な思考から導き出されたものであった。白い、あるいは透明な四角い箱=抽象的思考による近代性への明快な批評性を持っていた。フランクロイドライトの建築よりも更に直接的に切妻型の屋根を形態の枠として持たされていた。又、モールディングによる装飾性も抽象的に意図的に表現されていた。ル・コルビュジェのサヴォワ邸に代表されるエスプリ・ヌーヴォー精神、すなわち抽象的近代性への明快な批判であった。批評という相対性を必須とする表現行為によってそれは導かれたものであった。
それは意図的にデザインの大衆性を主題としていたのである。建築家達の趣味のハイアート志向らしきへの批判でもあった。
ワルター・ベンヤミンの複製芸術時代の芸術の、あるいはより端的にアメリカにおけるC・グリーンバーグの前衛芸術に対する後衛芸術の論考(※1)の建築的解答でもあった。
しかし、その論理、作品共に広く大衆には受容されなかった。大衆性を意図していながらにして、その悲劇は起きたのであった。
アメリカの大衆性の象徴は、エルビス・プレスリーであり、ジェーン・マンスフィールドの豊かな胸であり、キャデラックの過剰さであり、すでにベンヤミンの論理を超えてハリウッドの映像に代表されるものとなっていたのである。R・ヴェンチューリの意図は大衆を焦点としていたが、その語り口や身振りは相変らずハイアートとしての建築世界に向けられていた。
ヴェンチューリは大衆に直接語りかける術を持ち得なかったのだ。
それは膨大な大衆の感性との回路を遂に持ち得なかった。何故ならば、ヴェンチューリの設計方法は相も変わらぬ作品=ハイアート主義の枠の中にあり続けたからだ。彼は何モノも、それこそ複製化し得なかった。多くの追随者を生み出しはしたけれど、その追随者は皆ハイアートそして建築メディアの住人であった。当時はまだ世界的に建築ジャーナリズムというメディアが健在であり、その枠の内での読者のみを支持者の勢力として獲得すればスターになり得たのであり、スターの生産はハリウッド映画程のスケールを持ち得なくとも建築ジャーナリズムでは必要欠くべからざるモノでもあったのだ。
R・ヴェンチューリの悲劇は大衆の趣味を題材としながら、その主題性をモダニズム批判、つまりハイアート批判へと短絡させ時代の寵児となり、スターとなる相変わらずのエリート主義を脱する事ができなかった故である。
毛綱モン太の母の家も又、より思考の観念性によって、姿形は異るけれどR・ヴェンチューリの母の家の世界に酷似していた。
毛綱モン太の母の家の住人であり、クライアントである母君には毛綱の学会賞受賞の祝いの会と毛綱の葬式の時の二度お目にかかった。毛綱の建築は母君の豪胆さによって支えられているとの風評があった位に、実に豪放な母親であった。ああいう母親でなければ、とても毛綱の反住器には住めるものではない。
葬式の時、棺の中に動かぬ人となり横たわる毛綱モン太を横にしてあの母さんはこう言った。
「死んだら、何もならん、ダメですよ。冷たくなって、動かなくなるだけなんですから。死んだらダメですよ」
毛綱はこういう言葉を実に自然に吐ける人間の大きな自由とでも言うべきを、遂に表現し得なかった。
母親の自由と自分の創作の自由との間には距離があった。
それは毛綱のR・ヴェンチューリと同様な趣味趣向の高踏性に因があった。その高踏性は特に近代化によって建築というカテゴリーが専門領域として広範な文化の中で狭く分断される事により必然的に発生する競争原理から派生するものであった。毛綱はヴェンチューリに負けず劣らず知的な人間であった。その知性は博覧強記によって支えられていた。コンピュータの無い時代、検索技術の無い時代に、よくマアあれだけ広範な知識を、何処から仕入れてくるのだろうと、いぶかしむ程に広範な知識を所有していた。知識が多くなる程に毛綱は絶対のオリジナルへの信仰とも言うべきを強めていった。曼荼羅世界、神話世界への傾倒を深めていった。
博覧強記は、その事物への博識から、それ等と、自分が想像力を駆使して作り出そうとするモノとの並列を恐れる。並列とは構造無き配置であり、知の無編集である。
曼荼羅の図像とは知の編集構造への意志そのものである。知識は構造、序列を持たねば、ゴミの累積になってしまう可能性が強い。
毛綱の密教世界への傾倒、そして神話世界への関心は、自身のオリジナルへの信仰とでも言うべきものであったのだろう。
恐らく、反住器の住人である母親はそれを良く、より平明な言葉で理解していたに違いない。
※1 グレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」1939 年
7月4日、2点銅版画の為の下絵を描く。いずれアニミズム紀行のX号で使用できるようにとだけ、枠を考えた。あとは自動記述、と言えば気取りであって、デタラメである。十三時に、銅版をほぼ彫り終えた。スケッチとは左右が逆になって刷り上がるので下絵とは逆に彫る不自由さが、下絵とは異なる線描を生みだす。
自由は、つまり本格的なデタラメは、やはり不自由さが生み出すものである。
4点下絵を描いたが、どんどん悪くなるので今日はここでやめる。
宮川淳の鏡空間イマージュを、もう何度になるか、読み直す。
地下室の暗がりの中に宮川の静かなつぶやきに似た知覚が拡がるようだ。
1967 年に書かれたこの評論というよりも非定型散文詩を今も誰も超えていないのではないか。
こういう人は早死にするんだ。
早朝フット目ざめたので、スケッチ。以前すすめていた案をつぶす。きっかけは図版2の母の手描きの平面図らしきである。
母の寝床の位置が母の考えとまるで違っていた。勿論わたしの考えを固執する気持は一切ない。
あのアイデア(制作ノートに掲示)は、要するに母の寝床を床の間みたいに一番シンボリックな位置に配し、それを中心に考えを発展させるというシンボリズムをベースにしていた。
そんなに悪い考えではないし、好きなのだが母のアイデアの方が面白そうだ。
実に日常生活的で、光のまわり具合、その他がきちんと身体でとらえられている。そりゃ長い事、ここで父と暮していたのだから当然だろう。
又、南面の角には南天の樹を植え、裏鬼門を除けると言う。いいのじゃないか。
玄関は北東の角で、ここは白と黒の丸石を床に埋め込むようにとの事であるので、そうしたい。
全て母のイメージは断片的で、ひどく具体的である。
ブリコロール族なのだ。
であるから、当初のわたしの、いかにも建築言語を軸としたアイデアは捨てた。むしろ積極的に捨てた方が良いようだ。
本当は母に断片的なイメージをヒアリングし尽くしたら良いのだろうが、その体力、気力が残っていないかも知れない。
コンクリートと木について変な事を言っていたので確認したい。因果はめぐるから、そのように考えよとの事であった。つまり、自分中心のシンボリズムは不要だと言っているのだと受けとめる。
母がもうそろそろだぞ、と言う。それで、母の終の家の始末記を書き継ぐ事にする。
これと似たような事は以前にも起きた。これからも次々に起きるであろう。それで最期はわたし自身の終のスペースを考える事になる筈だ。わたし自身の終のスペースに関してはすでに絶版書房「アニミズム紀行5」に詳細に述べているので参照してもらいたい。
以前の似たような事態というのは友人である毎日新聞記者、佐藤健の家づくり、と墓づくりに関してであるが、この件についても折にふれ思い出してみたい。
佐藤健は60才で亡くなった。癌であった。酒を飲み過ぎて肝臓をやられ、アル中治療に入院して、癌が発見された。彼は徹底したジャーナリストであったし、そう呼ばれる事を望んだ人間であったから、自分の病との闘いを全て新聞記事として公開したいと考え、色々な議論があったようだがその経過は毎日新聞に、生きる者の記録として記録され報道された。
わたしも未熟ではあるが、その生の最期まで、つかず、はなれずに附合った。佐藤健は、「お前だけは顔を見るとセンチになっちまうから会いたくない。」と言ったが、わたしはセンチメンタルだったので会い続けた。
死の数日前、息も荒く、東大病院のベッドで眠り続ける彼に、覚悟してサヨナラを言い、肩をそっとたたいた。実に良く最期迄頑張ったのを見事だぜ、と心底考えたからだ。
ガリガリにやせた肩の骨の感触をまだ覚えている。10年程も昔の事であった。
今日の母も実にやせていた。もう30kgしか体重は無いだろう。佐藤健とは「究極の家」なんて呼んだ、彼の最期の家づくりを共に考えて、遊んだ。佐藤健はジャーナリストとしては日本有数の仏教研究者でもあり、随分宗教学の入口らしきを学んだ。それでその究極の家は6畳と8畳二間のタタミ敷き、その二部屋の周囲には広目の縁がグルリとめぐらされているという、間取りになった。
彼は一休禅師の五合庵に関心を持っていたから、もっと小さな部屋だけでいいのじゃないかと問うたら、いや、男友達と飲むのに、4畳半より小さくては陰微になり過ぎる。同性愛者と想われたくはないからねと、妙にリアルな生活観を述べたりもしていた。それに、一つだけの部屋は逃げが無いから、キツイ。時には一人になりたいから、それには部屋は二つなければならないのだとも言った。本気だったのだなあと今にして思う。
本気でも、ウソン気でも、どうせ遊びだと覚悟していたから、わたしはその計画づくりを実に楽しんだ。
部屋のまわりの縁はどうして必要なんだと尋ねたら、この家は房総半島の太平洋を見渡す、小さなガケの上に建てるので、毎朝、近くの漁師がとれた魚を持って来てくれるので、その魚を置くために必要なのだ、と言う事であった。成る程ネエと感服して、縁側をデザインした。この究極の家は、いずれ、佐藤健の友人の坊主である、我孫子真栄寺の馬場昭道の、最期の寺として建てたいと考えているのだが、その計画を本人は知らぬ。知らぬが佛である。
であるから、わたしにとって、母の家に似た建築の設計は三つ目という事になる。先ず友人の佐藤健の家、次にわたし自身の家の構想、そして今度の母の家という事になる。
建築的な世界では母の家は、わたしの前に2例の壁が立ちふさがっている。言う迄もなくR.ヴェンチューリの母の家と毛綱モン太の母の家(反住器)である。
ヴェンチューリの母の家は、その装飾性により、近代建築の無意識化していたセオリーに?をつきつけた。
毛綱の母の家はその観念性の過激さによって、これも又、近代建築の設計方法に?を投げかけた。
ここで言う観念性は今だったらイコノロジーと歴然として言い換えられるだろう。建築に神のようなモノを視ようとしたのだ。つまり、彼にとっての母という存在を介して宇宙の、つまり人間の想像力の形式そのものの原像を幻視しようとした。だから、この母の家は建築の典型的な世界模型であり、さらに言えば建築家とは何者であるのかを良く示していたのである。
毛綱も60才で早死にした。
わたしの母の家は、そのような建築世界が歴然としてある事を知りながら、もう少し意識的に非建築世界への離脱を企図しようとしている。
建築の世界の自律性に大きな疑問を持つからである。
その疑問は決して後ろ向きの、ニヒリズムをベースとした疑問の表現ではない。
むしろ、生の肯定、そして建築の拡張を介して得られる、人間の生の道具としての、あるいは生の根拠としての建築を探る事にしたいと考える。
図版説明。
言葉は必然的に抽象化を求めてゆく力を持つから、建築は少し用心しなくてはならない。
先ず、ここに、母とわたしが、口ゲンカしながら描いた図版3枚を公開する。
何処にも抽象されたモノのカケラを視る事も出来ない。
母は少しばかりボケ始めているので、図を描いてもすでに現実のフィールドとは異なる位相に飛ぶことがある。それでわたしと母は図版のどちらが北で、どちらが東なのかで、やり合う羽目になった。
「お前、どこまでバカなんだ、底知れぬぞ、バカが、こっちが南にきまってるだろう。」
「イヤ、あなた、こちらが南ですよ、南はコチラ。」
「バカ者、わたしを一緒に表に連れてけ、太陽見てどっちが南か教えてやるから、本当信じられないバカだ。」
この母の口振り、何処かで聞いたと思えば、実にわたしが学生に良く吐いていた科白だった。恐ろしきはDNAである。
制作ノートA
2010年6月26日
市根井立志
電話とFAX のやりとりが何度かありましたが、椅子はヤバイです。石山さんと椅子これは大変ヤバイです。
これ以上の組合わせはなかなかありません。
世田谷美術館のガレージで作った、あのオリジナル木石チェアーのプロダクト椅子を作る、絶対にヤバイです。
一刻も早く試作品を持って石山さんと会わないとヤバイです。
あの時(世田谷美術館期間中)石山さんは彫刻家でした。
自分はフロー状態あるいは麻痺状態の様でした。あの椅子は、あの時にしか作れません。
プロダクトといえどヤバイです。電話やFAXではいけません。
現寸大試作を用い、見て、触って、座って、持って、彫込まないとヤバイです。
石山さん用のノミと金ヅチも用意したのですが、
「お前が彫込んで表現しろ」と言ってくれました。
椅子はヤバイですが、やはりオモシロイ。
制作ノートB
2010年6月27日
市根井立志
「制作ノートに寄稿せよ」「はい・・・・・」
一発逆転は無いと知っていますので、気楽に書かせていただきます。
石山さんとのミーティングで感じるところはまずスピード感です。
決定の早さ、対話して決める速度、持ち帰って又今度というのが無い。ダラダラ考えてもダメ、ということでしょう。
その為の対話の印象は細部から俯かん、そしてその逆と縦横無尽というか、固定した視点をきらっているというか、そして、いつも全体を見渡している石山さんの眼がある。自分としては、毎回、当然ですが、日常では得られない創作現場の体験を大事にしたいと考えています。
市根井さん、制作ノート、A、B共に受信しました。このママ、明日サイトにONします。今日の日曜日はこれから外出して、知り合いに会い「三球四脚」の行商をしてきます。昨日、ほぼ一つを売ってきました。いつも会っている人に「三球四脚」を買ってもらうのはほとんど不可能ですから、新しい人間に会う必要が生じてきております。仲々大変ですけれどもやり抜いてみましょう。
ネットで「三球四脚」を知ってもらうのは容易です。でも取ってみてもらい、座ってくれて、更に買ってもらうのには、どうやらネットの安易さだけでは不足なようで、それで行商に出たわけです。
12脚完売に向けて努力しますので、制作の方呉々もよろしくお願いします。
2脚目の制作に入って下さい。デザインの大枠は踏襲しましょう。しかし、この作り方は同じモノは決して生み出さないやり方なのは自明の理ですから、その理を生かして下さい。
6月27日
朝 石山修武
市根井達志様御中
そんな市根井さんも少し年を取った。次第に円熟味も増そうとしているが、どうやら対人関係のスタイルだけはハッキリしたままでそう変わりはなさそうだ。附き合える人間とは附合うけれど、無理してまで肌の合わぬ人間と附合うことはしないという路線は変わらない。もう変わりようも無いのであろう。
市根井さんは独人で作業所にこもって、独人で考え、モノを作るのが心底好きな種族なのである。
そういう種族の人間には驚く程の可能性を感じる事が多いけれどおのずからなる限界もある。
独人でする仕事のマンネリ振りの出現である。繰り返しが多くなりがちだ。
それで正反対な人種らしきわたしが必然として登場する。
わたしは独人でやるのが好きそうでいて、実はワイワイガヤガヤ型変種Xタイプなのである。
途中をはしょるが、その結果出来つつあるのが脚木球シリーズ「木石チェアー」と「三球四脚」である。
市根井さん独人でデザイン制作したら、皆何処かで見たような、しかし、キチンと真面目でオリ目正しい椅子が出来る。それは今でも変わりはない。
わたし独人でやろうとすれば、せいぜいスケッチと作図どまりだ。わたしは実際の木工は出来なくはないけれど、市根井さん程上手ではない。
そのスケッチの傾向と言えば、例えば岡本太郎の座ることを拒否する椅子への偏愛、というよりも何かを拒否することへの頑迷な好みを深くうかがい知る事ができるのであった。
わたしの椅子への好みは、
1、座る事を拒否する椅子 岡本太郎
2、チャールズ・レニー・マッキントッシュ ハイバック、チェアー、for the Rose Boudoir,1902
3、ハンス・J・ウェグナー Valet model 1953
4、Jean Prouve の Antony 1950 又はCharse inclinable en tole d'acier
である。2010 年時点。
つづく
六月二十四日、ほぼ1日をかけて、市根井達志さんと「三球四脚」に触れながら、討議を重ねた。ここ迄くると、ただただ良いモノを作りたいだけだ。大工職人である市根井さんは、家を作るのも上手だが、わたしの見るところでは、家具、細工モノ作りには更に卓抜な才を持つのではないかと考えていた。
その理由は、市根井さんの寸法の取り方には逃げが小さく、より厳密なので大工でも小さなモノに向いているのではと考えた。市根井さんには世田谷村の階段室や2階3階の個室部分の制作を依頼した。これには一つ実験的試みがある。一切釘を使用せずに軸組をアッセンブルする事であった。市根井さんは木栓やクサビを多用して、これを実現した。
これは家具作りに似た仕事であった。
それで市根井さんという人材をより生かしてみたいと考えて、ニ、三のタイプの家具作りを依頼した。ニンジンという商品名も用意した。パラパラと買ってもいただいた。
市根井さんの才質を確信したのは、2008 年世田谷美術館でのわたしの展覧会に際して、美術館のガレージで、ミュージアムショップでの展示、即売品を多く制作していただいた時でもあった。
彼は駐車場で蚊にさされながら泊まり込み、制作に打込んでくれた。会期中に制作したモノは 50 点近くになったのではないか。
このガレージでの制作過程でわたしも、木石チェアーのアイデアを得た。
第二の理由、市根井さんが家具作りに卓抜な才を持つと確信したのは、彼が、たった独りでモノを作るのがとても好きだと知った事からである。
大工さんでも、住宅作りを楽しむ職人さんは、より皆で作る事を好む者が多い。和気あいあいと、強調しながら作り込むのを楽しむ者でもある。
住宅は独人の職人さんが作り上げる事は、小屋程のスケールのモノを除いて不可能である。わたしはそれを若い時に管平の「開拓者の家」づくりで痛感した。「開拓者の家」の制作者正橋孝一さんは全ての制作をたった独人でやり遂げたが、それ故に完成までに 10 年の歳月をようしたのであった。
正橋さんの単騎独行好みと同じ何かをわたしは市根井さんの姿に視たのである。
母の家の、小さな庭のデザインをする。昨日、電車の中で手帖に残したアイデアを少し大きく描いてみた。
寝たきりになる、母の寝床から眺められる南の、猫の額程の庭に、故郷の風景らしきを作ってみようとしている。
余りにも私的なアイデアである事は意識しているが、私的である事を突き詰めてやってみる。この期に及んで、普遍的であろうとする事程馬鹿気た事は無い。
着工と同時に、この庭の制作を始めたい。河野さんにも手伝ってもらいすすめたい。盛夏に始める事になろう。
スケッチの重みと実際の物質を介してのモノと何変わろうかの想いはあるのだが、いくら美しくなくとも実物の持つ力というのは在るに違いない。
それに、わたしが手掛けて、実際に作ったという事は、少しは生きる力になるかも知れない。
病院には居たくないと、そこから自分の意志で脱した人間だから、当然、病院では得られぬモノに接してもらいたい。それは庭だ。ネパールの、マザーテレサの死を待つ人の家の、光に満ちた奥の庭を思いおこす。(『セルフ・ビルド』交通新聞社刊、石山・中里著、参)
動けずとも気持は庭に入ってゆくだろう。
母の家エスキス、すすめる。少なくとも、母の部屋が独立して建築であり得るようにするのが、せめてもの母への贈り物になると考えるにいたった。
他は普通に住宅で良い。
母の室は厳然と建築の様式が、視えるようにする。
例え、スケールが小さくとも、それを表現しなくてはならない。できれば、ここだけ、石でつくりたいが、それは出来ぬ。
素材の代案を探す。
今、トップページに小さなグーグルMAPが出ている、杉並下井草のサイトへの計画が少し踏み出しつつある。「武蔵野生活再生塾」(仮)と名付けられた計画。
都市内農体験を中心の食の問題、衣料の問題、環境問題を女性達を中心の学舎計画である。
わたしが、アニミズム紀行5に記したキルティプール計画が時空を超えて、TOKYO、杉並の地、大きな屋敷林を舞台に姿を現わそうとしている。
この当りの事を述べるのは至難の技なので、出来たら絶版書房刊「アニミズム紀行5」を読んで欲しい。遠い地のお話しではない。実現しようとしている計画である。
夜、前橋の大工市根井さんと電話で話す。独人でスケッチしたり、メモを続けていると、前のノートに表われてしまっているように、いささか変調をきたしてくる。うまく自分をコントロールできなくなる。
それで、全然ちがう頭の動き方をする典型的な職人さんである市根井さんと一言、二言、言葉を交わしてみようと考えたのだった。彼は何の為の電話であったか、けげんであったろう。案の定、チンプンカンプンなやりとりが続いたが、わたしの頭は、そんなまさつのおかげさまで少々ちがう動きをするようになった。
困った時には、何でもしてみるものだ。
市根井さんは、まわりくどい考え方をしない。椅子の制作は、わたしの眼の前で、手を動かし、ノミを使う事にすると言った。それが、最後には一番である。
昨日五月二十八日、仙台から一ノ関迄の移動時間中に得たアイディアがあって、それをスケッチとして記録する。実際アイディアの内実は記録する能力と完全に同一なフィールド内のものであるとしか、最近は考えられぬようになった。創作とは形を変えた記憶である。記憶を拡張してゆくと、それは歴史となる。これは大ゲサ過ぎるが、言い換えれば、デフォルメである。創作の正統である。
杉並の大きな屋敷林の保存と育成に関して、ささやかなアイディアが得られた。そのアイディアは北海道の音更町・水の神殿の造景の考え方のベースを東京に移動させれば良いのかも知れないというアイディアである。
特に、土のシェルター作りのアイディアをそのまんま再現したら良いではないかの割り切り方への確信である。その確信らしきとアイディアと呼ぶ。新しいアイディアらしきは皆過去の自身の作例、あるいは育てていた思い付きらしきの再編集にしか過ぎぬ。
このアイディアは、大きく言えば、自然を型枠にして、造形をするという事に尽きる。北海道音更けの水の神殿シェルターは、いささかわたしにとってはスケールが小さ過ぎたので、東京で試みるのは、3倍位の大きさを狙いたい。大きな人工の丘を都市内に作り出し、丘を型枠にして人工のシェルターを作る、その人工のシェルターの丘のてっぺんに家を2、3軒建てるというアイディアなのだ。それだけのことだ。
市根井さんが試作した椅子と、わたしの考えて想い描いていたモノとの落差をどう縮めてゆくか。これにはロジックが必要になる。
職人さんの想像力と、わたしの想像力をどうすり合わせるのか。さらに具体的に言えば、今、サイトのトップページに出ている木石チェアーの感じと、今度市根井さんが作ってきたものとの落差をどう埋めるか、である。
市根井さんの頭は工学的働き方をする。典型的な日本の木工大工の頭の働き方である。どう、早く、合理的に作るかで多くを決めようとする。一方、わたしの頭は、少なくとも家具デザインに於いては、一品一品を出来る限りの自由さで作りたいに尽きる。しかし、一品一品を工芸的に作ってもらう事は避けたい。竹ヒゴ細工みたいなのはイヤだ。
で、木片をザックリと手オノ他で削り込んだ形をデザインした。木石チェアーはその一号である。しかし、これは芸術品みたいなモノである。どうも多くの人に愛されるとは思えない。だって、わたしが好きでたまらないんだから。それで、職人さんは、木工機械で作れる部分を増やしてきた。丸い球は機械で作った。これは職人さんの知恵を受け入れよう。しかし、足の部分はどうもいただけない、これは4本共に、ザックリ、手オノでけずり出してもらいたい。背もたれ部分も、細過ぎて力が無いから、もう少し太いメンバーにするべきだろう。又、三つの座部分の木球の一つは物入れの為の空洞をあけるというのは面白いかも知れない。それで作って、4万8000円をプライスにしたらどうか。欲しい人は連絡下さい。
照明器具と花指しとを組み合わせた、器具を考察してみた。アルミと竹の組み合わせが望ましい。母の家のための器具を想定はしているが、他のプロジェクトでも適用可能かも知れない。次の段階で、いかに作るかを検討する。
椅子のデザインに関しては、何度も試みて、うまくいったためしが無い。うまくゆく、とっかかりさえ見つからぬままだ。
しかし、今度Xゼミで久し振りに椅子の勉強をして、また残り火がくすぶってきた。
主に椅子の歴史を勉強しているのだが、椅子の歴史は実にシンプルで良い。建築に比べるとはるかに頭に入りやすい。
ほとんど思い付きで、デザイナーの作図能力について、等のタイトルで小文を書いてしまった。そして、良く良く考えてみれば、それは自分の作図能力の事をさし置いて、モノを言うのも論外だなと、当り前な事に気付いた。
それ故に、早速、勉強しながらのイスのスケッチを適宜ここに参考として、掲載してみることにした。自信なんて全くあるわけがない。これまで椅子に関しては連戦連敗なのである。
少しはうまく、いったかなと考えられるのは、2008年の世田谷美術館での展覧会期中に、美術館のガレージで、市根井達志さんと一緒に作った、わたしのところの古材を利用して、作った椅子である。
わたしが椅子に挑戦できるとしたら、当然、デザインを始める土台のようなものが必要である。
わたしはよい家具メーカーを知らない。メーカーらしきにモノを図々しく頼める立場ではない。それに家具メーカーに特注デザインを発注してみても、ロクな結果は得られぬだろう。
チャールズ・イームズとハーマン・ミラー社の様な関係を得られるとも思えない。それに、あれももう社会的可能性があるとは考えられぬ。
それ故、わたしが椅子のデザインに取組むとしたら、その実際のつくり手、つまり生産者は限られてくる。大メーカーやおろし業の仲介は避けたい。
今のところ、作り手は絞られてこざるを得ない。先ず、わたしの個人蔵としている椅子の製作者である、大工さんの市根井君。次に、すでに幾つかの、製品を共同したメタルアートの、木本一之さん。メタルでは、もうひと方、というか、ひと工場の河野さん。この三人がいれば、あらかたの、モノは作れる。だから、そうする。
木は市根井、鉄は木本、他の金属は河野。それに、わたしは古くから日本一の椅子のモデレーターであるミネルバの宮本茂樹を良く知っている。
これだけで、椅子作りは充分なのである。1脚から、20 ~ 30脚までは確実にこなせるのだ。
わたしがデザインして、これは売りたくなくて、個人蔵としている椅子は、これは完全にアートである。つまり、円空仏と同じなんである。円空がナタで木を刻んだように、木のかたまりを刻んで、それで椅子に仕立てた。いってみれば円空チェアーなんだが、それでは仏に尻をおとすのはどうかの、おそれがある。それで円空チェアー、あるいは円空MAGAI・CHAIRの名を捨てて、完全に近く捨ててですね、これを「木石」もくせきと名付けました。木が石に変身するという意味です。物語りとしては、そんじょ、そこらの河原の石の美しさに、親近感を持つであろう人間は、普通一般社会では木念人と呼ばれるのだろうという、可々大笑を込めて、そう名付けたのです。木念でもいいかと思うのでしたが、木念だと余りにも、仏教的ニュアンスが強いじゃあありませんか。日本人の大方はもうすでに、偽アメリカーナですから、このニュアンスは余り好まない。あんまり嫌われるのもイヤだから、それは避けたいと考えました。
しかし、これは、仲々のモノなのです。しかし、だからこそ売りません。ですから、わたしの椅子の第一作は非売品なのであります。しかし、これがオリジンです。
何年も前に、どれくらい昔だったかな、鈴木博之さんの自宅新築祝いに、オリジナルデザインの椅子を差し上げようと、古代エジプトの名彫刻、書記像をモデルにした椅子をデザインした事があった。
どうも椅子スケールのモノの把握力が弱くて、リアルなモノになり得なかった。しかし、それを忘れた事は一時もなかった。我ながら、知り合い、友人達を特定して、その道具をデザインするというのは面白いにちがいないと確信していた。思い出したり、忘れたりの月日が流れた。
N牧師の椅子を藤森照信さんのところからもらってきた大木の切れ端で作成してみようと思い付き、そのスケッチを描いた事で、鈴木さんの椅子を再挑戦してみるかと思いついた。又、この思いつきが何時迄続くのかも知れない。
鈴木博之さんの椅子だけ考えるのも、辛気臭いなと考えた。ついでにと言ったら、失礼だろうが、それじゃあ難波さんのも考えてみよう。そう言えば前にも、山口勝弘さんのやらも考えた事があった。
ベイシーの椅子も考えなくてはならない。これは話しもあったからな。牧師の椅子を考えるんだったら、当然僧侶のものも考えるべきだろう。不公平だ。サックス吹きの坂田明の椅子も考えたい。
というわけで、荒野の七人ならぬ、七人の椅人を考えることになった。
これは、わたくしの純なあそびである。とやかくの理クツは一切ない。という実ワ、理クツがある。
恐らく、これを考えつめてゆくと、開放系デザインのピュアーな実践になるであろう事は直観している。
椅子のデザインに何度も取り組んでみたが、まだうまくいかない。
ただとりとめもなく「椅子」のデザインと与件を自分に与えてもうまくいかない。
思い立って建築のようにクライアントを想定してやってみたらどうだろうと、だいぶん前にメディアアーティスト山口勝弘氏をクライアントとして椅子を考えた事がある。
やり始めたら、山口勝弘さんは病を得て車椅子の人となり、いわゆる椅子は不要なモノになってしまった。残念であった。思い付いて再開する事にした。想定クライアントはH氏。いずれ、おいおいその理由は述べよう。
二〇〇八年夏に世田谷美術館のミュージアム・ショップで前橋の大工市根井君と組んで、木工品の制作販売をやった。工房は美術館のガレージであった。その際に椅子を二点制作した。一つは買って下さる人がいた。もう一つは、気に入り過ぎたので、自分で持つ事とした。その椅子のデザインを展開している。
書いたり、描いたり、撮ったりが好きでなければ、こういう事はやっていられない、と言うよりも、やらないだろう。少なからぬ自己顕示欲からだろうとは思わぬでもないが、うっすらとした自分自身への懐疑も含めてそうは思っても、そんな懐疑が何の、誰の為にもならぬのは明々白々だ。自己顕示欲と表現欲は同じだ。言葉の響きがちがうだけ。
直接に金にならぬ事に一生懸命になるって事が、実に変だけれど、妙に張り合いがあるのにも驚いている。このサイトの運営の件である。見事な位にサイトの運営は金にならない。
絶版書房活動も始めた。アニミズム紀行シリーズを売り出しているので、又、研究室やわたくしの出版物、他の宣伝はしているから、そのぶんはほんのいささかの金にはなっている。わたくしの、このサイト運営歴は決して短いものではない。気が小さい事もあり、毎日とは言わぬが、毎週、サイトへのヒット数、アクセス数はチェックしている。
それで解ったのは、実に酷薄な事実である。何と、わたくしが自己宣伝、あるいは絶版書房の宣伝めいた事を記すと、確実にヒット数が落ちるのである。サイトの読者はそういう事に実に敏感なのを知る。2500 円の本の宣伝するだけで、スーッとヒット数が減少する。
たいしたもんだなあ、サイトの読者はと痛感する。皆がアンチ資本主義だとは決して思わぬけれど、非拝金主義者達なんだなあとは思う。何しろ情報に金を払いたくない人達なんだから。
TVも民放はただで視る事ができる。しかし、視たくもないCMを視なくてはならぬし、コンピューターサイトと同様にイヤなら、他をセレクトする事も可能だけれど、選択肢が余りにも少ない。しかし、TVの力は映像が皆動く事だ。わたくしのサイトの映像は全くと言って良い程に動かない。動かそうと思えば動かせるのだけれど、今はまだ動かす積りもない。
このページにアクセスしている人間はすでにある種族なのである。その人間達に向けて、わたくしは一種のコミュニケーションの自己能力開拓を今、ここでやっているのだろうと気がつこうとしている。
時に、こんな風に、何ともとりとめの無い事を垂れ流してしまうのも、ページの特権なのだと居直りましょう。スランプは誰にもあるものでしょう。
実ワ、長年トライしては失敗している椅子のデザインに取り組んでいて、又もうまくいかない。このスケッチを出すわけにはいかないと、さすがに自己規制して、その挙句のメモになった。つまり空白恐怖症です。
品川宿まちづくり協議会会長堀江新三さん、東京駅八重洲口居酒屋小樽・清水さん。共にわたくしの友人である。しかも、アノ、フーテンのナーリさんの友人でもある。つまり、社会の常識らしきが、スンナリとは通じぬ世界の人々である。堀江さん、清水さん、ナーリさんはみんな、一九七〇年代のネパール・カトマンドゥで知り合った。いわゆる日本版ヒッピーである。
大方のヒッピーと呼ばれた若者達は一九八〇年代、つまり、バブル経済期に絶滅した。初期の「地球の歩き方」等のガイドブック一冊を持って世界へ漂い出た人間たちは、当然の事ながら皆、現実世界に戻り、普通のサラリーマンになったり、ブルーカラーまがいになったりして、現実のチリにまみれた。ノンフィクション・ライターの沢木耕太郎の描いた感傷的生活の現実にリターンした。現代風無常の世界である。
現実にまみれながらも、気持だけはヒッピーたちの美質を捨て切れぬ人間たちがいた。この人達は世で言う変人である。変人であるから、今の世で言うところのグローバライゼーションには、気持としては染まり切らない。何か居心地の悪さを感じ続けている。
つまり何から何迄現実社会に順応し切らず、気持としてはヒッピーを続けている人達には一つの特色がある。その大半が俗っぽい意味での何がしかの資産階級の、つまり名門といわれる家のガキ子息である。ナーリさん然り、堀江さん、清水さん然りである。彼等は皆、恵まれ過ぎていて、それで気持だけは社会復帰せずに、今にいたっている。俗に言うところのトッチャンボーヤだ。彼等に共通するのは反社会性への憧憬である。犯罪者の精神ではない。人を殺したり、傷つけたりだましたりはやらぬの正しい人間性はしっかり持っている。しかし、本能的に今の社会の道徳的規範からドロップアウトしてみたいの気持が強い。トッチャン坊やの由縁である。
賭場を品川宿で開きたい。それが堀江、清水の夢である。品川宿は江戸期の東海道五十三次の旅の江戸のはじまりの宿場であった。宿場につきものの、賭博、遊郭、いはゆる悪場所の華でもあった。
品川宿の隣りは、日本のバブル経済発祥の地、汐留国鉄跡地の国の払い下げ地の大開発による、汐留の高層ビル街。バブルタウンである。その足許に品川宿、バブルのエリア外の、つまりは健全な街並みが今は沈み込んでいる。
再び言うが、堀江さんは、ここに、何としても賭博を開催したいと考えている。それで、わたくしが駆り出された。なんとかならんですかと問われた。しかし、これはどうにもならない。正統なギャンブル、堀江さんがイメージしている類は御法度である。法律で禁止されている。
でも、だからこそ堀江さんはやってみたい。捕まってもいいから、出来ませんかと、物騒である。わたくしだって、いくら外れが好きと言っても、捕まるのは御免こうむる。今、こうやって、ここに記している事だけでも法に外れている可能性があるのかも知れない。
でも、賭場を開きたいという空想に参加するのは、そして、それをこうして記すのは表現の自由なんではないか。そう考えて、品川賭場計画夢物語り、決して実現させる気はありません版を、おいおいここに記す事にしたい。
堀江さんは品川宿まちづくり協議会の会長さんだし、清水さんも、実在の人間である。わたくしも実在人間だ。しかしながら、これから描き述べてゆくのは、あくまで物語りであり、彼等とは無関係ではないけれど、何の欲得の関係ではない。
又、ここに記す事の了解も勿論、堀江さん等から得ている事も附記しておきたい。
稀代のフーテン、ナーリさんをここで待っている。いきなり映画の中の人物になったような気がする。一昨日、制作ノートで自然に出現した大食堂、あるいはレストランのアイディアはとても今の日本では実現できない。
中国の上海プードンあたりは良いのだろうが、段取りに手間がかかりそうだし、それにこれは大掛かりな仕掛けをろうするようなアイデアではない。とてもシンプルなアイデアだから、実現に向けての行動もシンプルな方が良い。それに限る。
まともな建築家であれば政治のルートを使って、国に働きかけるか、それにからませて、投資家やデベロッパーと相談するだろう。当然政治家はそういう類のアクションには助力を惜しんではならない。ナーリさんはカンボジアや仏教の総本山ウナロム寺院に棲み込んでいて、大僧正とも近い。つまり宗教的権力と近い。それに、いつの間にか現政権フンセン体制とも近くなってしまった。フーテンのアナーキーさの特技である。
ウナロム寺院周辺の土地は今、カンボジア最大級のバブルの真只中である。あらゆる利権が前近代的にうごめき、移動している。ウナロム寺院はカンボジア有数の大地主である。アンコールワットのあるシュリムアップにも広大な土地を所有している。
プノンペンのウナロム寺院はシルヴァーテンプルと呼ばれる王宮、国立博物館と並んで、超一等地に位置している。又、メコン河とトンレサップリバーの合流点近くには国公認のカジノの船が浮かんでいる。寺域周辺はヨーロッパ人を中心にした観光客のセンターでもある。
良いレストランは極めて少ない。日本食レストランは高価なだけの代物だ。ベトナムのホーチミン・シティにはベトナム・ハウスとう仲々のレストランがあって安価でうまいベトナム料理を喰べさせる。
ベトナムハウスはホーチミンシティの目抜き通りにこぢんまりとした二階建で在る。あれのも少しデカイ、スタジアム風な奴をわたくしは作りたい。
で、スケッチの数片を得たので、今こうしてナーリさんを待っている。これが進行したら、まさに奇跡に近いけれど、恐らく奇跡らしきは起こるであろうという直観がある。無ければ、こんな風には動いていない。
ナーリさんと会い、大レストランの件話す。「石山さん、中国、ヴェトナムのやっている事と競合するアイデアは良くない」と冷静な否定的意見をくらう。しかし、正論である。カンボジアでも日本の諸々の立場の弱小さを知らされた。やはり、甘くはない。しかし、簡単にいいですよ、やりましょうと言われるよりは余程ましである。アイデアを急速に回転させる。
三月二〇日の2
どうやら、自分は今は、大食堂らしきを設計してみたいと思っているようだ。5、6階建ての、巨大な円筒型、巨柱のような、ローマのコロセウムの小さいみたいなの、らしきを描いている。
いきなり、なんだから仕方ない。スケッチなので、誰にめいわく、かけるわけでもない。スケールは 30m ~ 40m 直径のプラン。一階は至誠館の乳児院+保育園でやっている、アーチ構造の上に柱をのせるスタイルとする。これが気に入っているのだ。
平面は、我ながら激しい。インドのサンチーの八論のイコン、カンボジア・プノンペンのひろしまハウスの外周のへいで馴染んだ、八輪のイコンがそのまんま、平面になっている。これでは精進料理コロセアムになってしまう。最近はあんまり、フランス料理、イタメシの類は喰べなくなってしまったが、4、5層のレストランだったら、それも喰えなくてはいけない。
やっぱり、自分で畑の真似事をしているので、食い物は、自然に野菜が中心になってしまっている。これは本当は体には良くないのである。何でも喰うのがいいに決まっている。
しかし、自分はやはり貧乏性、背中に貧乏神が貼りついていて、すぐにこじんまりとした、小食堂の絵らしきを描き始めた。21 世紀農村研究会の直販売所ゾーンに、これならば建てる可能性があるだろうと、ケチな事も考えている。
3枚目からは、スケッチは更にちぢんで、住宅らしきになっている。どーおんと大きな土型枠のドームが、現実にあるらしき土地を想定し始めてしまい、どんどん小じんまりしてきてしまう。
しかしながら、5枚目、6枚目のスケッチではこじんまりと小住宅スケールに持ち込もうとする余りに、苦しまぎれに全体像を切断するというアイデアを得たのは収穫であった。
これならば、日本でも実現可能なスケールである。というわけで、今日の作業は、研究室のつくりたいメニューの如きものになった。でも、これで良い。依頼主を頭の中の何処かに描き始めたのだから、一歩前進なのである。
4月17日のレクチャーは面白くやれると確信を得た。もう、言葉通りの現在進行形そのものだからなあ。
三月二〇日
今朝の作業は、恐らく想像するに、彫刻家と同様な頭の働かせ方をしたんだろうと想われる。
ブランクーシ、イサム・ノグチ、マルタパンといった彫刻家達が、物質を介して与えた、物質と共に創造した形というのは何によって決められているのか。
オリジナルの、この小プロジェクトスタート時のエスキスドローイングから、どうも進行の速力が思わしくない。
ブランクーシは遠い人だが、イサムはすれ違った人でもある。イサム家の庭園美術館はフォルムの宝庫だけれど、その中のすぐれモノ、エナジーボイド。この巨大な石の彫刻の形をイサムはどうやって決めたのだろうか。エナジーボイドという作品名があって、それで石の物体を磨き出したのであろうか。それとも、立体円環状、ねじれた石のチューブみたいな形があって、この言葉が生まれたのか。
今、やってるスケッチも対話する相手が一切いない作業だ。クライアント=社会との対話は一切合財わたくしの想像の中に閉じられている。これが実に困難な作業にさせている。
このやり方をしていっても、思わしくない事は歴然としている。対話者がどうしても必要だ。その対話者を得る方法を考えてみたい。
三月十九日
昨日のクレパスで描いたスタートのスケッチの後に描いたプランにひき続き、断面スケッチをする。傾斜地を想定し、そこに土型枠の大きなシェルターを考える。明らかに、猪苗代の「時間の倉庫」のサイトイメージがベースになっている。北海道音更町「水の神殿」はフラットな土地に土型枠のシェルターを架けたのだけれど、それを更に大掛かりに傾斜地へと適用してみる事にしたのである。
コルビュジエのラトゥレットの僧院がサヴォア邸よりも、はるかに複雑で高度な建築になり得ているのは、その土地が傾斜しているからだ。
土地の固有性を見事に生かした空間の普遍を生みだしたからである。
「時間の倉庫」では傾斜地の特性は内部の巨大な螺旋スロープによって生かされている。このプロジェクトではそれを更に抽象化しようとしている。
内部に純然たる幾何学立体が出現している。アニミズム紀行5で描いたキルティプールの終の棲家が登場して、スケールアップしている。これが、どうやって整理されてゆくのか、まだ自分でもわからない。
四月十七日の世田谷美術館のレクチャーのための準備で、一つ一ヶ月かけて、プロジェクトを作る事にしたので、そのプロセスを公開する事とした。公開を前提にした作業になるので仲々厳しいけれど、自分でも楽しんで取り組んでみる。
大きな画用紙他のキチンとした描きつける材料が手許にないので、先ず身の廻りを探して、とり敢えずは用紙らしきを探してみる事にする。
小さなダンボールをハサミで切り取って一片を得る。又、手頃と思われる桐の箱のフタが転がっていたのでこれを二片目とする。描く道具はクレパスの残りで始めてみよう。この材料で始めるので、極く極く自然に描くテーマは固めのモノとなる。以前、チリ計画で描いたモノがあって、それは気に入っていたのである。
ウーン、テーマは二年前の世田谷美術館でやり切れなかった「立ち上る伽藍」にしよう。あの気取りを取り去って、「新しい寺」とするか「聖堂計画」、むしろ、実現した猪苗代の「時間の倉庫」の発展形式にしてみるか。
クライアントが具体的に在るわけではないけれど、宗教施設に特定せず、場所が立ち上る、そんなイメージを描き始めてみる。濃い茶色のクレパスと、白いクレパスをチョイスして作業に入る。段ボールのテクスチャーには茶色が似合うだろう。桐の箱には白いクレパスを主調にしてみたい。
ボイドが主役の建築である。どう描き始めるか。頭をフル回転させる。
十時、二点描き終える。スタートとしてはこれで良し。「時間の倉庫」と北海道に実現した「水の神殿」が混合したモノを描いた。
工法としては水の神殿の、地球(大地)を型枠にしたシェルターとし、空間としては時間の倉庫をイメージした。住居にも、聖堂にも、レストランにもなるであろう。明日はこれにスケールを与える努力をしてみたい。
アトリエ海の佐々木さんが、土盛りを型枠に使った工事はまったく理にかなっていると、リアリストの眼、で言ってくれたのが、支えになっている。
そうだ、鳴子でトライした事をもう一度やってみるか、と考えた。鳴子はこけしづくりで有名である。しかし、そのこけしの売行は思うようにはいってない。わたくしが小学生の頃には何処の家に遊びにいっても飾り棚や、玄関のコーナにこけしや北海道の熊の木彫りなどが飾られてあったものだ。
旅の土産の典型だった。
しかし、東北への旅行はすでに土産を買う動機にはなり得ない。それぞれの家庭に飾られているのはヨーロッパの土産品であったり、タイの工芸品であったりする。
しかし、こけしをつくる人と技術と道具は残る。こけしづくりは絵付けが勝負だが、その以前の木工、ろくろ技術も立派なものだ。
以前、鳴子早稲田桟敷湯を設計した際に、実はそのドアノブづくりをコケシづくりにゆだねた事があった。我々がやったデザインはともかく立派なモノが出来た。それを、もう一度やってみる。階段の手すりや、様々に展開できる可能性もある。引き戸が幼児施設は多いから、引き戸用のレディメイドのとっ手の値段を先ずチェックしたい。
宮古島市渡真利島の中心の住居の設計はゆっくり楽しみながら進める。クライアントのN艇長も言うように、夢みるように、夢みることが人間の生命にとって、とてもリアルな事なのが、よく皆さん(諸者の)にも伝わるようにと考えている。
N艇長は言う。
「石山さん、夢みさせて下さいよ」
N艇長は複数の家らしきの所有者であるから、何を今更の家なんて必要じゃあない。昔は石原裕次郎のヨット友達で、マア、俗っぽく言えば世界の海に船を走らせた。裕次郎が亡くなり、その兄さんともヨットの仲間である。わたくしみたいな、典型的な中流家庭に育った根っからの中流人間には、いささかどころか随分まぶしい人なのだ。
しかし、何故だか知らぬが、巡り合わせとしか言い様が無いのだけれど、わたくしはそういうクライアントに良く出会うのである。幻庵のクライアント榎本基純は、そう言えばわたくしにこう言ったものである。
「ヨットを作るか、ゲストハウスを作るか迷ってたんですが、とりあえず、ゲストハウスにしようと決めました。石山さんの仕事が気に入らなかったら、もう一つ作ります。それはヨットになるかも知れません」
巡り合わせだなあ。
そうして、わたくしはN艇長に巡り会った。
今度は、もうヨットを乗りつぶして、楽しみ尽して、その果てに、陸に上って・・・の家なのだ。幻庵の榎本さんと同じように必要にせまられての家ではない。
一種の自己規制、あるいは社会性らしきの倫理からも完全に自由である。つまり、クライアントは自分で意識してはいないが極めて芸術家なのである。N艇長は、「よせやい、芸術家なんて、そんな貧乏臭いモンじゃあ、ありませんよ、ボクは」と言うだろうが、実ワ、そうだ。
だから、このプロジェクト、南島の無人島をひとつ、そのまんま家にする。この計画では、わたくしは徹底的にエンジニアとしての機能に徹してみよう、それしかないと決めている。だって、クライアントが芸術家なんだから、そうした方が良いのだ。つまり、技術の極北としての表現を目指す。
島全体のデザインから始めようとしている。当然、島中心にはN艇長の家があるのだが、それは最後のお楽しみである。北端に、ジャグジーで露天風呂を作れと言われている。日の出、日の入りを眺めながら、の楽しみを尽くしたいのだろう。その風呂の設計も水を得る方法、排水等考えれば、核家族の家の設計とは違う水準の困難さが当然ある。島は全部がサンゴ礁で出来ていて、一切その石を傷つけてはならぬのコードがかかっている。だから、ぜいたくきわまる風のジャグジー風呂、ブルータス趣味の快楽的商品生活風の愚も、エネルギー、生命維持としての水の問題から、厳しい枠が嵌められる。
この枠そのものの意識こそが、創作の源になるのであろうと考える。先ず、水をどう得るか、それを湯にするのにどれ程のエネルギーを要するか、N艇長は「当然、女と二人で入れるようにしてくれよ」なんて言ってるけど、一人でジャグジーするのだって容易じゃないのは知ってもらわなければならない。しかしながら変な楽しみもある。N艇長がわたくしとは全く違うタイプの「海の人」だからだ。昨年、渡真利さんの TIDA-again 号で何日かN艇長達と過したけれど、トイレの方式、キッチンの方式も陸の奴とはかなりちがうのを実感した。
富士嶺観音堂で試みた、屋根の全てを天水受けに、そして貯水槽と浄化槽の併設、ハイブリッド方式をコンパクトに集約すべきだろう。マア、N艇長がそれでも友人達とジャグジー風呂を楽しみたいと言い張るとしたら、充分その可能性はあるのだけれど、海水利用を考えなくてはならないだろう。
風呂あがりには、やっぱり水は飲みたい。生ビール飲みたいのなら自分で作ってもらうしかないかな。ここには生ビールの大ポッドのお届けサービスは期待できない。着ガエは皆、ここで湯水の一部を使って洗濯してもらう。そして、ここですぐに干す。
でも、先ずは、円環を中心とした家から、ここ迄歩いてくる途中に農園がいるだろう。その農園の運営維持のデザインを考える必要がある。
宮古島市渡真利島のN艇長の家だが、先ず第一に三千六百坪の島全体が家であり、すなわち建築であるというのが在る。それが無ければ考え抜くかいもない。それから、チリ、ゴミにまみれた概念を可能な限り振りたい。だから、計画する諸部分の名称から、先ずは用心したい。
三月十一日早朝の日記にも記したけれど、それでも自分の思考の持続性らしきも信じたい。それが無ければ昨日、先週、先月つまりは過去の時間の一切の意味がない。
だから、円環は赤裸々に残す。しかしながら、この円環に建築の様相を帯びさせるのはしないと決める。本当は宙に円環らしきが浮いているのが望ましいのだが、それじゃあキリスト教の天使やら聖人達の頭の上の円環になっちまうので、それは避けたい。宗教的イコンがイヤなのではない。キリスト教という一神教のイコンを避けたいからだ。かと言って仏教の諸像にも、背中に円環を背負っているのを視るが、仏教ならイイヤというわけでもない。何しろ、この円環の形に固執したいと考えるのは、どうしたって強いイコンらしきへの趣味であるのは確かな事なのであるが、その我執だけは極力、脱力させねばならない。
わたくしの個人的なキャリアの中で円環らしきが登場したのは、明らかに伊豆の長八美術館の内部に浮かせた細い照明器具取り付け用のメタルの円環であった。このアイディアは赤裸々にモスクの内部の近代的照明の模写であった。スケールは全く異なるけれど、イスタンブールのブルーモスクやアヤソフィアの内部の虚空に浮いている巨大な円環である。アレを模写した。で、長八美術館の二期工事だったレストラン、ミュージアム、ショップ用の入口前に、小さな金属の円環が浮く事になった。一期工事の内部が外へと反転したのである。
それから、円環は姿を消した。チャンスが無かったからだろう。忘れていたのでもあろう。それが、今度よみがえったのだ。これはこじつけではなく、不安だからこそ昔を振り返ったのである。伊豆の長八美術館の二期工事は圧倒的なイスラム様式への傾倒があった。大体、名称がカサ・エストレリータ(小さな星)だもの。作ってしばらくは、自分でも良く解らなかったけれど、二〇一〇年三月の今、渡真利島のN艇長の家を本格的に考え始めて、その円環の出自を推理小説もどきに探ってみたのである。
トライすると決めた円環の機能は天水受け、すなわち、雨除けとしての屋根を倒立させようと考えている。渡真利島は今は無人島であり、電気、水道、ガス、汚水処理の一切がない。願ってもないところである。エネルギーは自分で作る。汚物、汚水処理もクローズドにして外に垂れ流さない。
これは現在進行中の鬼沼計画でも考えてはいる事だが、渡真利島ではそれが必須なこととして求められている。
天水利用に関しては、私の世田谷村でも考えてはいたが、まだ決め手と金がなくて実行に移せないでいる。水車タービンを廻そうとは考えているが、残念ながら世田谷村ではその必須性が乏しい。水は井戸もあるし、水道だってあるのだから。要するに、せっぱつまっていない。
詩的な天水のあつかいとしては、早稲田の観音寺があり、実利的な事例としては富士嶺観音堂がある。ここでは詳述しない。
富士嶺観音堂では一枚の屋根に浮ける天水で、キッチン、トイレ他を全て機能させている。浄化槽も完全な循環形式である。富士山と比較して、宮古島は天水はより恵まれているから、充分に天水を高度に集約すれば人間が生きてゆくのには充二分である。つまり、円環を巨大な雨ドイとして考えれば良いのである。
天水すなわち天からの恵み。そして地球の生命の素である水の循環機能を形として表現できたら、実に嬉しいではないか。